仙台人名大辞書(昭和8年)の真田の項は 間違い 及び フィクションが記されております。

 

真田守信の項には 間違いが記されています。 守信の後半は ここをクリック

大介幸昌 及び 大八は 阿梅の弟であり、阿梅はです。また、「阿梅外 五子」の部分は 四子」です。

また、「眞田氏を憚り 片倉久米之介を称し」と言う所も間違いで、守信は 真田の苗字で 伊達忠宗に仕え、晩年に 片倉に変えたのです。

守信が伊達藩士になった寬永17年(1640)には 既に 四女 あぐり、五女 御田、六女 阿菖蒲は、次々と有名な武将に嫁いだ後であり、
幕府としては 真田アレルギーは 消えていた。秀忠も亡くなり、既に家光の時代になって久しい。「幕府に憚る所ありて」とか、
「大八が敵将 幸村の実子なるを以って 幕府に対して明記するを得ず」と記されているが、守信は 江戸から遠く離れた仙台の人である。
幕臣として幕府に仕えるのなら、幕閣の中には 厳しいことを言う者も おるだろうが、幕府は地方の藩士の家系には関与しませんでした。
しかも、系譜調査(伊達世臣家譜・1730年頃)の時には 幸村は既に有名になっており幸村の名を消す必要のない時代になっていました。

寧ろ、片倉重綱に至っては 幸村の娘を後妻に迎えた(1628年頃)ことを誇りに思っている。

その証拠に 幸村の家紋 六連銭を片倉家の家紋として加えて、その服装までしている。誇りにしていたと云う事が記されている
信州の真田の正史を見ていないから明治の子孫は「幕府に対して 明記するを得ず」と云うような言い伝えにしてしまったと云う事です。

また 「サナダ・ウメ」の項に夏の陣時、駕籠二挺を出して保護したような記述があるが、これも デタラメで 講談本のフィクションです。

敵の大将の家族を保護すれば 謀反を疑われ、この頃 持ち上がっていた将軍の娘・振姫の嫁取り話が反故になるばかりか、

伊達家 お取り潰しに繋がる。そんな事を伊達の重臣が やるわけもない。駕籠の件は、全くの作り話である。

娘を拉致するのに駕籠で お迎えすれば、 味方の諸将が家康に報告しないはずがありません。戦のさなかですよ。

この仙台人名大辞書真田の項は デタラメである。面白おかしく書かれた講談本を明治生まれの徹寿が参考にして、
大辞書の取材に対して 話したのです。そもそも この徹寿は 萱場家からの養子であり、 真田幸歓とは 同じ屋根の下で暮らした事のない人である。
幸歓(喜平太)が亡くなったのは 明治20年10月16日である。除籍謄本には 「萱場轍治が明治22年11月13日に相続」と記されている。
これは 何を意味するかと言うと、昔の事は 何も伝わっていなかったと言う事です。しかも、2年後の養子縁組であり、名前の字も違う。
別人とも思え、なんとも不思議な事です。

阿梅は乱取されたことは 江戸時代の書物である真田の正史にも 仙台叢書にも記されていることである。

この辞書は 1933年頃書かれた書物であり、「阿梅を得た」と記されている片倉代々記は 、1680年代に完成していますので、
どちらが正しいかは 言うまでも有りません。しかも、片倉代々記は 片倉家の正史です。

尚、大正14年に出版された「白石町誌」には、重綱が梅子を陣中に引き取ったことは 記されているが「重長の陣前に駕籠二挺あり、
重長、人をして之を見せしむるに、共に妙齢の女、その一人は 即ち、幸村の女なり。重長、政宗公に請いて、携へ 帰る」等とは
記されていない。駕籠二挺云々は 全くの作り話である。勿論、この町誌自体も、講談本からの引用であり、史実ではない。

史実は 阿梅は略奪されて、数年後に 幸村の子であることが判明したのである。

尚、「仙台人名大辞書」は 昭和8年に出版された本である。片倉守信が生きた時代から300年経ってしまっている。

しかも当辞書は 歴史書を基に書かれたのではなく、子孫の言い伝えを基に記されたものである。

当時の書置きが残っているのなら まだしも言い伝えなら いくらでも作れます。

立川文庫の講談本で、大正のベストセラー を読んだ文豪 幸田露伴は「こうデタラメだと、いっそう おもしろい」と述べた。

この事は 露伴も、講談本には 可なりのデタラメが記されていると認識していたと云う事です。

まさには、「仙台人名大辞書」の真田の項は デタラメと云う事です。

そもそも、真田大八は、真田本家の正史には 早世と記されており、片倉守信とは 全くの別人である。

尚、江戸時代の初めから記されている 伊達世臣家譜には、「真田隠岐守信尹の子 政信、その子 沖允(オキノジョウ)守信」と
明記されていることなのです。 

尚、明治生まれの子孫は 戦乱を知らないので 当辞書の取材に対して 間違ったことを話したと言う事です。

小走りの行軍なら 大阪から白石まで 約千キロの距離を 15日で到着できるが、駕籠を伴えば どうなるかである。

大事な人を置いて 片倉重綱が馬で走り去るわけにもいかず、盗賊の出没にも備えなければならない。そうなれば駕籠を挟んでの
移動とならざるを得ず、又、かつぐ人の交代等を考えれば、3倍の日数がかかることになり、千人の将兵が居れば、3倍の食糧等の
調達をどうするかだ。伊達政宗が そんな莫大な費用が かかることを許可するはずもない。又、政宗は 軍律違反を知っている武将である。

 

尚、大河ドラマ真田丸の「伊達政宗の保護シーン」は デタラメと判明しております。

 

仙台の真田家に伝わる言い伝えの間違い一例。【幸村が亡くなってから 400年、子孫でもない家に正確に伝わるわけがない】

①幸村の遺児 5人の保護の件。【保護も無かったし、密約等 無かった】

②江戸時代は 「叔父の信昌(信尹)系統の子孫として 幕府を信用させていた」と云う説まで 昭和の子孫は 作り出した。
     そもそも 家の書置きには 政信(内記)の女房として 海野勘左衛門の娘と言う名前まで入っている人がいるのに。
     これは もはや 間違えではなく デタラメを記したと言う事です(「真田幸村の真実(宝島社)」と言う本)。

③片倉重綱に略奪(乱取)された阿梅は 17才で 重綱の後妻に入ったとしている。【実際は 25才くらいである】
   正妻が生きているのに 後妻をとるはずがありません
    白石城主の片倉氏の正史と仙台の真田を称する子孫の言い伝えとは、どちらが正しいかは、疑う余地は無く、正史です。

江戸時代からある系図には 大八が保護された経緯が記されている。【大八は京都で早世しているし、その系図自体も
  明治以後に作られたものである。眞田の真の字が旧字でなく 新字】

⑤ 西村孫之進(景国)・吾妻佐渡に遺命して、幸村二男の真田大八等を白石まで 護衛した件

   【既に大八は 亡くなっているし、西村孫之進が 護衛して送り届けたのであれば、その時点で 真田幸村の娘である事が
  分かることになります。 しかし、片倉代々記には「誰の女なるか知らず」と、記されています。     阿梅が生存していることを
  夏の陣の十数年後に知って、西村などが片倉氏に面会した
為に  阿梅が 幸村の娘という事が証明され、 その後、阿梅が
  片倉重綱の後妻に 入った関係で 片倉氏の家士になったのです。 
    片倉代々記に「三井奉膳これなり」と、記されています。よって、幸村は 遺命していません。作り話です。

⑥仙台真田家に伝わる幸村の南蛮鎧の件。【それは ニセ物】、400年の古さの無い南蛮鎧を2つも3つも持っている。
  そもそも 幸村は 身動きに支障をきたす 南蛮鎧は 持たなかった

* 仙台人名大辞書の真田の項は 全体的に誤謬としている事です(仙台郷土研究会の 渡邊 会長)

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