伊達世臣家譜の仙台真田氏のルーツ ①
* 以上により 伊達世臣家譜に記されている真田守信(片倉)の親父が真田(加津野)政信で、祖父は真田信尹(隠岐守)であり、伊達世臣家譜が正しいことが分かります。
尚、政信は 江戸幕府の系図に出てきませんが 真田信尹(隠岐守)が武田信玄の命により、加津野家に養子に行った時に出来た子です。
武田勝頼判書に出てくる
出羽(幼名)が政信です。その後、武田家滅亡により、政信の家は 不安定化し、その子 守信は 活路を見出す為に
幸村の娘 阿梅を頼って、白石に行ったと言う事で、伊達世臣家譜とも 合致 しています。
尚、『伊達世臣家譜には「守信の父 幸村を隠す為に政信としたのだ」、伊達氏と図って記された事だ』と、仙台真田氏の昭和生まれの子孫は
主張しているが
それは デタラメです。それであれば 片倉小十郎重綱の後妻が幸村の娘であることを消すはずです。
幸村は 元和の頃は 幕府の大罪人でした。敵の大将の娘を妻にしたとなっては 伊達家の恥。
家譜には「片倉小十郎重綱 幸村の女(ムスメ)をとりこにし、もって還(かえ)り」と記されています。
そもそも 1700年代に幸村の名を消す必要などありませんでした。
守信が白石に行った時は 寬永の時代になっており、幸村人気で 娘たちは次々と大名に嫁いだ後であり、
幸村の息子なら堂々と胸を張って
「私は幸村の子」と名乗れた時期であり、隠す必要がありませんでした。
家光の世になり 幸村の人気が高まったことにより、幕府の幸村を見る目が変わった。
幕府の幸村を見る目が変わったので、伊達家は家臣である片倉小十郎に対して、幸村の娘 阿梅を後妻にすることを認めた。
そして、片倉家は 阿梅が幸村寺(月心院)を建てることを認めた。
要するに 寬永時代には 幕府に余裕が出て 幸村は 許されたと言う事です。
伊達世臣家譜の編纂は 藩命により田辺希文によって 1730年前後に始まったのですから 既に100年も前に 幸村は 人気者になっており
幸村の名を消す必要のない時代になっていました。
尚、田辺希文に呼び出された真田家3代目の信成は曾祖父である政信が隠岐守信尹の子なのか、ハッキリした事を話せなかった。
結果として、「信尹数世の孫」と記されたと言う事です。
即ち、世臣家譜は 事実を記している。守信の父は 政信であり、幸村ではありません。即ち、仙台真田家は
幸村の子孫ではない、と言う事です。
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