仙台叢書の中の「老翁聞書」
上記内容の意味を記述します。(記述内容には 時期が前後する部分あり)
大阪城落城の時、城中より16、7才の容姿端麗の美人が片倉重綱公の前に出てきた。
その娘は 白綾の鉢巻をし、白柄のなぎなたを刃を上にした格好でついて立っていた。
重綱公は、この娘をつれ お帰りになって、後、後妻にした。
この娘は 自分が誰の娘かを話さなかった。
この娘の振る舞い、言動は 凡人でない。
もしかすると「太閤秀吉公の娘でも あろうか」と。色々 うわさになった。
後、娘の家来が尋ねて来たが、その者は 片倉氏の家来になった。
よって、娘は 真田幸村の娘と断定された。
さて、大阪城に攻め寄った各諸大名の諸将の中でも、片倉は かねてからの優れた誉れ高い武士である。
ことに今回の武勇は目覚しく 驚くほど素晴らしかった。
そこで、片倉側の人が想像するには「幸村は あらかじめ予想したのだろう。これほどの武功を上げる者は 将来は 繁盛するだろうし、
自分の娘は美人なので捨てたりされないだろう」と。
よって、「娘は 幸村が申し置きしたように 重綱公の陣の前に出たんだろう」と。片倉側の「皆が言ったとさ」。 である。
上記の史実をご覧になれば おわかりのように、最近の複数の本及びサイトには、片倉氏が 幸村の息子及び複数の娘を
保護したように記しているのは 間違いであることがわかる。
又、幸村が 矢文や手紙を書いて 片倉氏に保護を求めたのも 間違いである。
本当に保護を求めたのなら、妻である竹林院 及び その他の娘も頼んだはずである。
阿梅だけが 引き取られるわけが有りません。
幸村の娘では 阿梅だけが 乱取されたのである。そして 数年後に阿梅は 後妻に入ったのです。
そして、阿梅の願いを重綱(重長)が聞き入れて 他の娘たちも 援助したと云う事です。
上記画像に記されている「物し」は、何か物(幸村の手紙等)を相手に出したと言う意味ではなく、「行くとか、来る動作を遠まわしに言う語」です。
〔 物申す、物静かな人〕でも お分かりのように 具体的な 物 が あるわけではありません。
「いでしたらん」とは 「出たんだろう」である。
尚、 阿梅がどのように略奪されたのかは 老翁等の想像です。
即ち、母親である竹林院や他の子と逃げる途中で はぐれてしまったのか、はぐれたところで敵に囲まれたので 重綱公の前に出たのか、
或いは 母親たちの一番最後にいたので 城を出たところで 重綱の騎馬兵に追いつかれ、やむなく重綱公の前に出たのかは 定かではありません。
結果として、乱取された事には違い有りません。
* 老翁とは、1615年前後~1680年頃を生きた片倉家の家士である。
よって、その記述が作り話ではなく、史実に合致していることである。
但し、阿梅の年令等は 実際に見た兵士からの情報なので 微妙の差があることは否定できません。
余談ですが 以下のような間違いもあるのです。
「NHKエンタープライズの漢詩紀行100選には 間違い 及び不適切な部分が多くあり」なのです。
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