真田幸村の南蛮鎧の複数のニセ物

 

平成11(1999)年上田市で展示 平成28年 大阪の大丸で展示・蔵王町では平成27年から10年近く展示された

、胸元、腹、足、皆違う、色も違う。こんなに 2つも 3つも 業者から買ったのです、400年の古さがない。仙台真田氏の先祖の親は 幸村ではなく、政信である。

杉並区成田東に在住の仙台真田氏の子孫が上田市、池波正太郎記念館、大丸、蔵王町、テレビ局、出版社等を騙してしまったと言う事です。400年も前の物は
ちょっと触っただけで パラパラと崩れてしまいます、采配などは 振っただけで 根元から壊れます。
あっちこっちと 場所を変えての展示は 出来ません。
なのに、幸村の子孫を称する人の物は 信州 大阪、蔵王町など 複数の所に貸し出されました。
これは 幸村所用の物でなく 昭和の時代の物だからです。要するに 偽物を展示したという事です。これは犯罪です。
しかも、子孫も 偽者なのです。偽者を擁護することも犯罪です。

そもそも幸村は死んで 持ち帰ってもいないし、信州眞田の本家にも無い南蛮鎧などが車のない時代に大阪から遠く離れた仙台にあるはずがないのです。
例えば 左の画像の足元にある采配は 幸村が死んだ時に所持していた采配です。死んだ人が持ち帰れないと言う事は 小学生でもわかる事です。

本物は 福井県の市立郷土歴史博物館にあります。幸村を打ち取った福井藩士 西尾仁左衛門が持ち帰ったのです。

尚、大河ドラマ真田丸を放映する事が決まり、研究が進み、「2016年 NHK大河ドラマ 特別展 真田丸」(江戸東京博物館・上田市立美術館・大阪歴史博物館)では、
仙台真田氏は 信繁(幸村)の直系ではないとして、仙台真田氏関係の資料は一切使われませんでした。

その子孫が2015年11月に発行した「 直系子孫があかす・真田幸村の真実」と言う本は 真実とは ほど遠く デタラメが多い。
この事により 信州の真田の正史や片倉代々記、伊達世臣家譜、仙台叢書などの貴重な古文書が間違っていると思わせるに至っているのです。

特に大坂の大丸で ニセの南蛮鎧を有料展示した事は 犯罪です。兜を比較する。  槍や刀ニセ物

真田幸村が南蛮鎧を持たなかった理由

   探しています、2016年 大阪大丸の真田幸村展を観た方を。
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尚、上の右側の鎧 及び 槍や刀は 現在 杉並区に住む当主本人が係わった物です。平成時代になって出現しました。
「 先祖が係わったことで私は知りません」や、 「倉庫から出てきた」は 通用しません。
蔵から出てきたのなら 警察に届けて 発見届出済証を得るのが決まりです。
盗まれて犯罪に使われることがあるので 発見者は すぐに届け出ねばなりません。
その書類がなければ どこからか得た(購入したか・貰った)と言う事です。
仙台真田家は 明治になってから 8回も引っ越ししているので 大きくて長い物に気付かぬ訳がありません。ましてや 宝物であれば しっかり管理されているはずです。
昭和の時代に 刀や槍は 宮城県の教育委員会及び警察から 銃砲刀剣類所持許可を得ていません

尚、上田市は 真田さんを観光大使に任命し続けています。
小生 藤原が2021年の4/2日に上田市の観光課に「眞田さんは観光大使にふさわしくない」と指摘しましたが 3年間、何のアクションもしておりません。
複数の家系の専門家も 幸村の子孫でない、としていて、自分の家の書置きも 幸村の子孫でない、としているのに、上田市は観光大使にし続けている。
これは詐欺者幇助となります。誠に遺憾なことです。市は 騙されたと感じたら 即、罷免して しかるべきです。
少なくとも、真田幸村14世を訂正し、「仙台真田家13世」と訂正すべきです。観光大使ならデタラメでも 本は売れます。
幸村の子孫と称している者と結託して 色々なことで 金儲けを しているとしか思えません。地方公共団体である上田市に 有ってはならない事です。
また、蔵王町も 詐欺者 幇助をしている状態です。

350年前の鎧でも この古さがある、400年となると もっと 古びているはずです 仙台市太白区恵和長33番12号の真田の子孫の家にて。
押し入れから出して 畳の部屋にて展示

 

南蛮鎧が 真田幸村(信繁)の物でない理由

① 幸村(信繁)は 身動きに支障をきたす南蛮鎧は 持たなかった。南蛮鎧を着ていては 槍を振り廻せない
  持つ必要性が無かった。

② 南蛮鎧は 信長や家康のような殿様が家臣に見せつけるものであり、幸村は大名にもなっていないので
   持っているはずがない。

③ 幽閉された高野山には 武具などの携行は許されず、生きる為の日用品だけを 持ち込んだ(家康の監視付き)

④  高野山での生活は 貧乏生活なので 高額な南蛮鎧等を買う余裕は ありませんでした。
  「真田家の正史『真田家御事蹟稿』のうち、信繁の伝記である『左衛門佐君伝記稿』」には
   兄の信之に仕送りを頼んでいたことが記されている。

⑤ 大阪城には 武具は 豊富にあったが 冬の陣・夏の陣でも 軽い鎧を付けて馬にまたがって戦った。

⑥  幸村を打ち取った 福井藩士 西尾仁左衛門が持ち帰った鎧は 軽い鎧で南蛮鎧ではなかった

⑦ 幸村使用の武具があるとすれば 信州の真田本家から出てくるはずだが 南蛮鎧は 本家からも出なかった。
  よって、仙台真田家から出る事は 絶対にあり得ない。
    豊臣大名になった 父 昌幸も南蛮鎧は 持たなかった。

⑧ 豊臣家の武具などは 大阪城が火の海になった為、燃え残ったものは全て徳川方が処分した。
  大阪城内での生活は 1年弱なので、秀頼から与えられたとしても それは 秀吉か 秀頼所用の物である。
  しかし、 幸村は 死んでおり、武具を どこにも運べていない。

⑨ 当時は 幸村は 徳川方から見れば 大罪人である。よって、生き残った 三井景国 が、そんな価値もない、持ち運びに不自由する
  南蛮鎧を遥か離れた仙台に運ぶ訳がないし、持ち歩っていれば 明智光秀のように野武士に略奪され 殺されている。

⑩ 幸村が 死の直前に 刀 一振りを 蓮華定院に寄進したが それは 現在も蓮華定院のものであり、仙台真田家の物とは なっていない。
  南蛮鎧も 同様です。但し、南蛮鎧は 親父 昌幸の物か、豊臣秀次の物の可能性がある。

以上、南蛮鎧等、幸村所用の物が 仙台真田家に あるはずがない、尚、大正生まれの子孫は 昭和の時代には
    仙台市内で 古物商を営んでいました。

 

 

仙台真田氏の始祖 守信が幸村の子でない理由

真田幸村展(平成11年・上田市博物館)時のパンフレットの内容の一部へ

昭和23年生まれの当主は デタラメな本も複数出していて 困ったものです。
ニセ者 及び ニセ物 は ここからも断定できます

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