仙台真田家の始祖の家系の書付
仙台真田家の2代目辰信が延宝6年に記した書付に ハッキリと 祖父の名前を眞田内記(政信)と記されていて 幸村(信繁)と なっていません。
これは 伊達世臣家譜とも合致しています。この頃は 幕府も代変わりしていて 幸村の名を消す必要のない時代でした。
大阪夏の陣で 幸村(信繁)が討ち取られた後、大名の間では「真田日本一の兵」との声が上がり、幸村(信繁)の評価が上がりました。
そして 伊達藩の片倉小十郎に乱捕りされた娘が 幸村人気に なったのを見計らって、自分が幸村(信繁)の娘であることを小十郎に明かしたのです。
そして 幸村人気で 娘たちは 次々と大名に嫁ぐとともに、阿梅は 小十郎の後妻になったのです(1628年前後)。伊達家も 容認。
そして 幕府も 代替わりしたことでもあるし、片倉小十郎は 阿梅が幸村の為の幸村寺(月心院 1648(慶安元年)の建立も許した(許さなければ金も出ない)。
よって、辰信が延宝6年に書付を作った頃は 幸村人気になって 50年が経っており、幸村(信繁)の名前を消す必要のない時代でした。
即ち、この書付には 偽りはなく 史実です、即ち、ありのままが記されていると言う事です。よって 仙台真田家の子孫は 幸村の子孫ではありません。
当然、南蛮鎧や 刀、槍は 幸村使用のものではありません、ニセ物です。昭和の子孫が業者から買って 揃えたのです。
昭和生まれの幸村の子孫を称する偽者の説 「幸村の字を記せなかったので 内記にした」は 全くの間違いです。
守信関係の年譜を見る。
尚、伊達世臣家譜の編纂は
1730年前後に始まった。仙台藩の儒学者・歴史家である田辺希文,希元,希績の三代があたり、寛政4年(1792)の頃に成立したものです。
よって この頃は 真田幸村の子孫と言う事を はばかる必要も とっくに消えており、事実が記されております。即ち、守信の父は
幸村ではなく、政信です。
「幕府に はばかって 祖父を信繁(幸村)から内記に変えた」と云うのは 昭和の子孫のウソです。 伊達世臣家譜も真実が記されております。
上記画像は 蔵王町作成のパンフレットの一部です。
昭和23年生まれの当主は デタラメな本も複数出していて 困ったものです。
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