平清盛の系図

桓武平氏 −桓武天皇の皇子・葛原親王(カツハラ)の後裔 なり。

桓武天皇−葛原親王┬高棟王−惟範−時望−直材−親信−行義−範国−経方−知信−時信┬時忠
           │                              ├時子(清盛室)
           │                              └滋子(後白河妃・高倉母)
           │
           │             ┌維叙
           └高見王−高望王┬国香┬貞盛┼維将−維時−直方[
北条祖]
                   │  │  └維衡−正度┬維盛
                   │  │        ├貞季
                   │  │        ├季衡−盛光[
伊勢祖]
                   │  └繁盛      ├貞衡
                   │           └正衡−正盛−忠盛┬
清盛―――┬重盛――┬維盛−妙覚
                   ├良兼                  ├経盛   │    ├資盛−親真[
織田へ]
                   │                    ├教盛   ├基盛  ├清経
                   │                    ├頼盛   │    ├有盛
                   │                    └忠度   ├宗盛  └師盛
                   ├良将┬将持                     │ 
                   │  └
将門相馬の祖]               ├知盛――┬知章
                   ├良文┬宗平−実平−遠平[
土肥の祖]         ├重衡  ├知忠
                   │  ├忠頼┬将桓−武基[
秩父の祖・畠山の祖]    ├知度  └知宗[宗氏祖]
                   │  │  └忠桓−桓将[
千葉祖]         ├清房
                   │  │                       └徳子[安徳帝母・高倉中宮]
                   │  └義澄−義明−義村[
三浦の祖
                   │
                   │
                   └良茂−良正−
三浦太郎公義−為次−義次−義明┬義連
                                         ├義秀
                                         └義宗−
和田義盛

*俗に言う四氏、源平藤橘(ゲン ペイ トウ キツ)の氏の成立順序は 藤原氏(鎌足)が一番早く、二番目は 橘氏で、橘諸兄(奈良時代)

  三番目に源氏(815年・弘仁五年、嵯峨天皇の皇子から)、四番目が平氏(825年・天長二年、高望王、平朝臣の姓を賜う)の順である。

  尚、平氏の名字(姓)の由来は 桓武天皇が平安京に遷都し、「平安な世の中を作る(たいらかな世)」による。

 

 高平太とは、高足駄をはいた平家の長男と云う意味である。

「長子なら太郎、次男なら二郎、太郎の長男を小太郎、小太郎の長男を又太郎のように呼ぶ」。

 1/22日の放映時点では 清盛は 泥にまみれたボロ服を着ていたが これは 後の出世 清盛との対比を極まらせる為の演出と思われる。
実際には そんなボロ服は 着ていなかったものと思います。
清盛は 満11歳(数えの12歳)で 従五位下の官位を貰っており、この官位は 庶民からすると 相当に高い位です。
清少納言の父 元輔が従五位下になったのは 62歳(河内権守)にして やっと手に入れた官位だからです。
そもそも 平氏は 上の系図にあるように 11人前の親父は 天皇様です。
画面に出てきた源義朝の服装と比べても あまりにも違いすぎます。
このボロ服を着た男が やがて「日本を動かす男に出世したのだ」と言う事をテレビの制作者側は 表現したものだと思います。
今の夢のもてない若者に何かを教えるものと思います。

清時(セイジ)、味有るは是 無能=平和な時にしか人生を楽しめないのは能無しである、と云う言葉もあります。
「平成の不況と 大災害の激動の時代に どう生きるか」ではないでしょうか。

清盛と共に海賊船に捕らわれた漢詩にも通じた高階通憲(タカシナミチノリ)は、七歳で 実父 藤原実兼(漢詩人・藤原南家)を亡くし
その後 高階経敏の養子となる。待賢門院や鳥羽院に仕えた。康治三年(1144)正月に少納言に任ぜられると、本姓の藤原氏に戻り、39歳で
出家した。少納言入道と称される。法名は信西(シンゼイ)。頭脳明晰、語学堪能、平安時代の大天才である。

清盛の最初の妻 高階明子の父は 基章(モトアキ)であるが 実は 源家実の子である。高階為章の養子となる。
通憲(信西)とは 同族であり、曽祖父が兄弟となっています。

佐藤義清(ノリキヨ)は、8代前の父は 平将門の乱を平定した藤原秀郷(鎮守府将軍、武蔵守)であり、義清の曽祖父 公清(左衛門尉)の代より
佐藤を称した。佐藤さんの名字は ここから始まります。「藤原さんを佐(たすけ)る藤原さんが佐藤さん」です。
家系は 代々 衛府(左右近衛府・左右衛門府・左右兵衛府の六衛府あり)に仕え、また紀伊国田仲荘の預所に補任されて裕福であった。
16歳頃から徳大寺家に仕え、この縁で徳大寺実能や公能と親交を結ぶこととなる。保延元年(1135年)18歳で左兵衛尉(左兵衛府の第三位の官)に
任ぜられ、同3年(1137年)に鳥羽院の北面武士としても奉仕していたが、23歳で出家した。後の西行法師である。
歌として 「願わくば 花の下にて 春死なむ」は 有名である。

 院政と言うのは 天皇が幼く 正しく政が出来ない場合に その実の父だけが なれる制度である。伯父 叔父さんでは ダメなのです。
只、実際には 現天皇が引き続き 政を行いたい為に幼い息子に天皇という地位を譲って 自分が引き続き実権を握る為に院政をひく場合が多かった。
今のテレビの局面で行くと 崇徳天皇(第七十五代)が院政をひく為には 息子である重仁(シゲヒト)が皇太子になり 天皇になる必要があります。
未だ、鳥羽上皇(第七十四代天皇)が健在であり、鳥羽上皇の第九皇子 躰仁(ナリヒト)が第七十六代天皇(近衛)になった為に その兄である崇徳は
上皇にもなれない。
そして、近衛天皇が17歳の若さで 亡くなった後は その兄である雅仁皇子が後白河天皇(第七十七代)に なった為に例え、鳥羽上皇が亡くなっても
院政をひくことは出来ません。後白河は 崇徳の弟だからです。その後、鳥羽は 法皇になり、崇徳は 上皇になります。
やがて鳥羽法皇が崩御すると歴史が動き出すことになります。即ち、兄弟の争いが摂関家の争いと重なって、保元の乱と なって行きます。

朝廷に不満を持った僧侶たちが、武装をして神輿(しんよ・みこし)を担いで訴える強訴(ごうそ)に及んだ時に、平氏一門は 武力と財力で
僧兵らを退けた。この功に対して朝廷は 忠盛に正四位上の位を授けた。
これに対して 平氏の中から「またしても公卿になれなかった」との不満の声が上がった。
そもそも その公卿とは 何かと言う事ですが、公卿とは「三位以上、或いは四位の参議」です。四位でも参議になっていないと公卿ではありません。
公卿になると昇殿が許されます(堂上家)、但し、地下家の公卿は昇殿を許されません。

テレビの画面には 家盛と云う清盛の弟が出てきますが早世しているので上の系図からは省かれています。
その家盛は 久安5年(1149年)、鳥羽法皇の熊野詣に忠盛と共に供奉したが、途中で病死した。
この家盛の幼い頃の面影と幼い源頼朝が似ていると云う。
平治の乱では清盛は 源氏一族を処刑した。13歳の頼朝も捕らえられたが清盛の継母 池禅尼は 清盛に対して「家盛に面影が似ている」として
助命を嘆願したと言われている(平治物語)。この事が後に歴史を大きく変えたことは 国民の よく知るところです。

 藤原忠実は、長男 忠通から氏長者を取り上げて、二男の頼長に与えたが、頼長が保元の乱に敗れると頼長を拒み、長男の忠通を頼り、
  乱加担による厳罰を免れた。
  この忠通の子孫が五摂家になります。即ち、忠通の長男である基実の子が近衛基通になり、忠通の三男である兼実が九條兼実になります。
  そして、近衛家の分家である鷹司家が出来、九條家の分家からは二條家、一條家が出来ます。
  そして、九條兼実の玄孫が鎌倉時代の四代目の将軍となります、即ち、九條頼経です。これが摂家将軍です。実権は 北條氏。

 

昔の金環日食の一例
「寿永二年閏十月一日(1183年11月24日)、水島にて源氏と平氏と合戦を企つ。城の中より 勝ち鼓をうって ののしりかかるほどに、
天俄(にわか)に曇りて、日の光も見えず、闇の夜の如くなりたれば、源氏の軍兵ども日食とは知らず、いとど東西を失いて、舟を退いて
いず地ともなく風に従いて のがれゆく。平氏の兵(つわもの)どもは かねて知りにければ、いよいよ時(の声)をつくりて、重ねて攻め戦う」と。

木曽源氏が水島(現在の倉敷市玉島)合戦で金環日食と云うものを知らなかった為に破れた戦。源平盛衰記の記述。

 

保元の乱の功により 清盛は 播磨守となり、播磨(播州)は 今の兵庫県である、神戸と云う港もあり、大国である。
国には ランクが4段階あり、一番上は 大、その下に上中下がある。
大和、武蔵 は 大国。山城、尾張、筑前、筑後は 上国。崇徳上皇が流された讃岐も上国である。
中国は、薩摩、安房、佐渡などである。下国は、和泉、飛騨、壱岐、対馬などである。

清盛が得た播磨国は、太宰大弐(だいに)がいる筑前国より ランクが上であることが分る。

 清盛の太宰大弐が 最高位のように放映されているが 実は大弐は 次官である。その上の位は 長官である 帥と云う位がある(名誉職)
又、同じ次官であるが少弐と云う位もある。実権は 時代により異なるが 大弐 或いは 少弐が握る。
因みに四等官は、帥、弐(すけ)、監(じょう)、典(さかん)、である、尚、役所によって文字を異にする。

  「へいしょうこく きよもり」 とは 漢字で書くと 平相国清盛になります。「相国」とは 中国では 宰相を意味し、日本では 左右の大臣、及び太政大臣の唐名です。
尚、大相国と云うと 平清盛を指します。大織冠と云うと 藤原鎌足を指します。

「スケ殿」と 頼朝は 呼ばれているが このスケとは何か。
まだ、伊豆に流される前の12歳の時に右兵衛権佐(ウヒョウエ ゴンスケ)による。
権とは 権大納言のように 既に佐や大納言の地位が定員で 満たされている場合に 権を付けて 増員する為の便宜策。

尚、スケベエとは 漢字で書くと 助兵衛とも介兵衛とも書く。
武士の時代になり 男の名前には「〜兵衛」「〜介」と言う名前が付けられた。
室町時代までは 「スケノヒョウエ」と 読まれたが 戦国時代になると「ひょうえをベエ」と読むようになり
後藤又兵衛のような豪傑が出る。
江戸 明治になり、「助兵衛」のありふれた名前から「呑み助」とか「飲兵衛」と 呼ばれるような男がたくさんおるようになり、
昭和になって セックス好みの男を表現するのに「スケベエ」と言うようになる。
そして 、略されて スケベ=エッチ(H)となった。
奈良平安の頃はスケベ=エッチとは 全然関係ない事であった。
律令国家の時代のスケとは 次官であり、長官の次と云う意味である。
神祇官のスケは、副と書き、省では輔、弾正台では弼、と書きます。
江戸時代の将軍に次ぐ 大老であった 井伊直弼のスケは 「弼」と書き、納得がいくものと思います。
兵衛府・衛門府では佐、国では介。と書き、藤原を助けるナンバー2の藤原さんは 佐藤さんです。
佐藤のサは 助けると云う意味です。
尚、大宰府では大貮・少貮がスケ殿です。 

鹿ケ谷での謀議を密告したとされる源行綱(摂津国の多田に住し 多田源氏の嫡流、多田行綱とも名乗る)、と 源頼政(源三位)とは 一族である。
頼政のお爺さんである頼綱(左衛門尉、多田に住す)から分かれる。多田源氏も元は清和源氏であり 清和天皇の子孫である。
頼朝も清和源氏であるが、平安中期(藤原道長の頃)の源頼信が河内に住し為に河内源氏と称されるようになった。

 

「日本一の大天狗(だいてんぐ)後白河法皇」による 目まぐるしく変わる追討令

源頼朝追討令←治承四年(1180年)清盛が出させた。
平氏追討令←寿永二年(1183年)、木曽義仲が出させた。
源頼朝追討令←寿永二年(1183年)、木曽義仲が出させた。
木曽義仲追討令←寿永三年(1184年)、法皇の住まいである法住寺殿を攻撃し、法皇を幽閉した為、法皇自らが出す。
壇ノ浦の戦い(寿永四年三月)等で平氏滅亡。
源頼朝追討令←寿永四年(1185年)、義経が出させた。
義経追討令←文治元年(1185年)頼朝が出させた。
奥州の藤原泰衡追討令←文治四年(1188年)頼朝が出させた。これにより泰衡、義経を殺す、その後、頼朝は 泰衡をも攻め滅ぼす。

 

           

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*NHK 大河ドラマ「平清盛」へ

過去のNHK大河ドラマ

坂本龍馬/ペリー来航

天地人・直江兼続

篤姫

風林火山

功名が辻

義経

新選組 

宮本武蔵

 *「利家と まつ

北條時宗

葵三代

元禄繚乱 

 


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