坂 本 龍 馬
系図
八平直海(初めて坂本を名乗る)−八蔵真澄=八平直足(山本覚右衛門の次男)┬権平直方 ├千鶴 ├栄 ├乙女 └龍馬(直柔、又、直陰)=直(千鶴の子) |
*郷士 直海、苗字 帯刀を許される。龍馬の父 直足は 長兵衛とも云う。
*系図で=(二本棒)は 養子也。
ペリー来航(1853年6月)時頃の 知られざる裏事情。
徳川斉昭のように大砲を撃って追い払うと言う行為をしていたら どうなっていたでしょうか。
それは 10年後の薩英戦争(1863年)の結果と同じようになったものと思われます。
黒船が来た当時は、それ攘夷だ、龍馬の土佐藩も薩摩も長州も、皆 攘夷を叫んでいた時代でした。孝明天皇も異人嫌いでありました。
ほんの1人、2人は 開国を主張した人もいましたが 藩 或いは 国を動かす人では 開国主義者がいなかったことは 歴史の事実であります。
島津斉彬のように開国の願望は 持っていた人もいたが 結果的には藩として 英国と一戦を交えてしまった。
薩摩は こっぱ微塵に砲台は吹っ飛ばされ 攘夷は 適わぬ事を知るのです。
幕府のご意見番 大目付 深谷遠江守盛房(86歳)は
ペリーが来る10年前のアヘン戦争の結果をオランダのカピタンや朝鮮通信使から
聞いていましたので 穏便に対処するよう阿部老中を説得したのです。
中国の清国は 英国に香港を割譲せざるを得ませんでした、日本も戦って負ければ 伊豆大島か琉球のどこかの島を割譲していたかもしれません。
当然そうなれば ワシントンから遠く離れたハワイがアメリカ領になっていることで おわかりのように極東に領土を持っていれば 日米同盟も
必要なくなっていたかもしれません。
勿論、日本の歴史も変わっていたことでしょう。
1853年当時は 安政の大獄の前ですから幕藩体制は しっかりしており、朝廷は攘夷支持の天皇でしたので 倒幕のトの字を叫ばれる前ですから
ずるずると江戸時代が続き 列強に食い物にされていたかも知れません。そして内乱状態、即ち、第二の応仁の乱が勃発し、第二の戦国時代に突入
或いは 誰か英雄が出て もっと早く近代化を推し進めて 欧米諸国に勝る強固な国になり、世界大戦を起こさせないほどの超大国として世界の
警察官をしている国になっていたかもしれません。
それは神のみぞ知るところです。
ペリーの国書を受け取るとか、 二回目の来航時に浦賀奉行などの応対は 全て上意がなければ出来ない事です。
浦賀奉行 戸田氏栄や井戸弘道に指示するのも 全て 阿部老中の指示です。
その老中も ペリー来航時は以下のように述べていました。
「幕府が開国 通商を許諾しなかった為に、もし戦争に なれば、その時は 昨年11月の上意等で命じられた通りと心得て
必死に戦闘に及ぶのは当然のことである。今になって 開国すれば 昨年の上意は 反古になり、同様に鎖国を貫いたロシアに対しても
信義が立たないので開国の許諾はしない」と云うものでした。
上記 ロシアの件は、
ロシア使節 極東艦隊司令長官 プチャーチンが嘉永6年(1853)7月 に長崎に来航したが 帰ってもらったことを指します。
ペリーが来航(1853年=嘉永6年6月3日)すると、
尾張藩主 徳川慶勝は、「祖法」である鎖国を守るべきとして、海防体制を強化する為、
大型船の建造や大砲等の購入をしました。
同じ御三家の水戸の烈公は 極端な攘夷派であり、外国船は 「大砲を打ち込んで 追い払え」と主張。
幕府のご意見番 大目付
深谷遠江守盛房とは。
深谷遠江守は 天保8年(1837年)〜12年まで 公事方の勘定奉行(今で言えば 最高裁判所長官。
勝手方は 財務大臣)を務めました。
その前は 京都町奉行。そして、天保14年(1843年)に阿部正弘が老中(25才)になると 請われて
76才で 大目付(1844年〜54年)に就任しました。
年から言えば 76では 隠居もいいところで 殆どの人は あの世に行っている年です。
弘化4年(1847年)朝鮮信使聘礼用掛、嘉永3年、琉球人参府用掛に なっております。
深谷遠江守は 87才まで 大目付と云う役を 10年やりまして 当時としては 異例の長さです。
孫のように若い阿部老中に色々 アドバイスしたものと思われます。
即ち、天保の改革が中途半端な形で終了し、幕府の財政状況の悪化や海防には 金がかかりすぎること、
アメリカとの武器の差がありすぎること、もし、戦争になり、負ければ 清国が香港(アヘン戦争、1840〜42年)を取られたように
琉球(沖縄)或いは 蝦夷(北海道)を取られたら それこそ 「幕府の権威は 地に落ちる」として 給水や病人の上陸は やむを得ないので
ここは 穏便に行くよう 老中を説得したのでした。
結果は 広く国民の知るところであります。
龍馬に影響を与えた勝海舟の海防論文
土佐藩創業以来 徳川家に恩を感じていた土佐藩が薩長に近づいた訳
幕府が第2次長州征伐で敗北して いよいよ 倒幕の気運が高まってきた時に山内容堂は 徳川宗家の行く末を案じ
徳川家の存続の為には 大政奉還こそが
徳川家存続の妙策と考えた。薩長との思惑こそ違うが容堂は、後藤象二郎の進言を受け入れ、
慶喜に大政奉還を建白した。その結果、薩摩側の倒幕の密勅工作の機先を制し、慶応3年10月14日大政奉還が実行されることになる。
坂本龍馬の酒を愛するの詩
酒は 呑む可(べ)し 酒 飮む可し,人生 只 酒 有りて 膽を開く。
醉中の快樂 人 知る無し,大地を 蓐(しとね)と爲(な)して 天を 衣と爲す。
英雄の生涯 眞(まこと)に 夢なりて,厭(あ)く迄 酒を 呑みて 美姫に 醉はん。
「難解な古文書の解読を承ります((有)オフィスコシイシ)」
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