源義経等の系図
清和 − − 清和天皇皇子、長猷 長淵 長鑒 長頼 及び載子の四皇子、一皇女を初めとして、
同じく皇子、貞固親王の御子 国淵、
貞元親王の御子 兼忠・兼信、貞保親王の御子 国忠 国珍 基淵、貞純親王の御子
経基 経生、貞数親王の御子為善、貞真親王の御子 蕃基 蕃平 蕃固 元亮など、
諸皇孫の後なり。 かく清和にも、その流多けれど後世栄えたるは、
経基王の後にて、他は殆ど現われず。
┌明国−行国−頼盛−行綱−定綱−光綱 |
*義仲の子 義高、東鑑巻三に「元暦元年四月二十一日、逃亡。同
二十六日、入間河原に殺さる」とあり。
梶原景時の系図(、丸の内に四ッ石、矢筈)
桓武平氏鎌倉氏流、景時┬景季
├景高
├景茂
├景国
├景宗
├景則
└景連
景時、頼朝に重んじられ、一族幕府に勢力を振るったが頼朝の死後、退けられて駿河に戦死す。
玉海、正治二年正月二十九日條に「景時、景茂、駿河高橋邊に於いて自害、景季、景高等、討伐せらる云々」とあり。
又、下野国の宇都宮に「梶原一家滅亡の後、景季の男 駒菊丸、十一歳にして、当家に来り、家臣となり、
梶原平太夫景氏と云う」とあり。
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