清少納言は 天皇家の血筋

            清少納言の名前の由来                                  

千年の謎に挑む
小生が このページを書く きっかけになったのは 漢文の「香爐峯雪撥簾看」の読み方を調査している時に清少納言も白楽天の有名な その一節を
枕草子の中に記した事でした。
そして ネットを見て、 我が家の伝承と食い違いが有り、 何と清少納言の名前の由来が一定していないことに驚いたのです。
と言うのも 私の家では 先祖代々 伝わってきたのは 「親父の官職名から」と言うものでした。
皆さん方が 私の系図を御覧になれば 私 三能の33代前の父は 説孝(トキタカ)であり、その弟 宣孝は 紫式部の夫である事も
お分かりになるものと思います。
清少納言と同じ時代を生き、公家として 同一社会を生きてきたので、清原元輔も信義の父 藤原元輔も皆 顔見知りだったはずです。
尚、有名な道長は 良門の兄である良房(冬嗣の子)の子孫です。その系図
又、紫式部の先祖は 良門の長男である利基です。その弟が高藤です。即ち、皆 一族です。
高藤は 内大臣であり、醍醐天皇の祖父です。
 

解       説

清原 元輔・清少納言の生涯       西暦

亡き 角田文衛文学博士は 少納言 藤原信義と再婚したので、夫の官職である少納言
から来ていると言う説を出している。

しかし、清少納言が藤原信義と再婚したとす る史実は無い

尚、そうであれば いつ頃したのかと言うことに なりますが、信義が少納言に
なったのが984年であり、病没したのが993年である。

清少納言が橘則光と結婚したのが981年、離婚した年は明確ではないが 10年間の
結婚生活であれば、990年以降と云う事になる。

信義と再婚と云う事は暦的には 可能であるが家庭の 事情、精神的事情を考えれば 無理である。

990年には 父 元輔は 肥後で亡くなっているし、喪が明けるのは 992年で あり、
父の一周忌もたたないのに婚儀をやるわけがない。

その前後に信義は 病気になっていて、993年には病没している。もし、信義と結婚していれば
夫の看病、及び 葬儀・服喪期間の993、4年に宮中の宮仕えに出るわけがない

990年前の再婚を考えると、離婚と言うことに対しての心の整理にも時間は必要でしょうし、

又、父、不在で結婚の儀を行うことは考えられない。

そもそも 986年の1月には 元輔は肥後守となり、 熊本に赴任している、

よって、少納言藤原信義と結婚する事は 考えられない。

そして、元輔の帰りを待って再婚は考えられるが 肥後で帰らぬ人になってしまう(990年没)

又、信義と結婚していれば 子供がいても不思議ではないが その証拠も無い。

清少納言は 子供ができる体である。

寧ろ、再婚相手の藤原棟世との間に995年 頃 に小馬命婦が産まれている事実を
考えると、少納言 藤原信義との再婚は
無かったと断定するのが自然である。

そうなると 益々、

元輔が 979年前後の数年間に少納言になった可能性が大である。

そこには官職の空白の期間があります。

紫式部 及び 和泉式部の「式部」は 父の官名からきております。

清少納言の少納言は 清原氏の初代 「有雄」の少納言から来ていると言う説を
取っている学者もいますが 有雄の極位は 肥後守である。

もしその先祖を誇りにしているのであれば 最高の役職である「肥後」を
使用するのが一般的である。父 元輔も肥後守となっているのでなおさらである。

200年も前の先祖であり、よく知らない先祖の 官名を使用したとは考えられない。

小生は 少納言の任務及び 系図の観点から上記期間に元輔は 一時的に少納言に
任じられた
のではないかと思う。少納言は 従五位下でなれる官名だからです。

元輔の晩年に生まれ、末娘として育った清少納言が善きにつけ悪しきにつけ、
生涯 彼女の意識から離れることがなかったのは、他ならぬ
元輔であったと
思われることからも父の官名を称した可能性が極めて高いと思われます。

<少納言の任務>

1》詔勅宣下を担当し、内印(天皇御璽)・鈴・伝符を請進し、飛駅の
   函鈴を 進付し、外印〔げいん〕・官印(太政官印)を管理します。

2》侍従兼帯職の為、天皇に近侍して、天皇の思慮を補う事もした。
   従五位下 相当官ながら、時には朝廷の機密にも関わる要職。

特に歌仙、文章博士、明経博士、明法博士などが《2》の任務の為に任じられた。

歌人の場合の少納言は 官舎に勤務する必要がない、例えば、大伴家持は
越中国主として 赴任している最中に少納言に任じられています(天平勝宝3)

その後間もなく京に帰還して。翌年、橘諸兄邸に聖武上皇を招き宴。その後、
新嘗会の宴で家持らの応詔歌が披露されております。

 以下は 大江広元の先祖の事が記されております。平安時代に大江に改姓。
貞観八年十月紀に「参議正四位下 行 右大辡、兼 播磨守大枝朝臣氏雄 等 云々」とあり。
これは 右大弁と播磨守を兼務しているものであり、播磨の国の国司として播磨(兵庫県)国に
赴任しているが 太政官の官舎に出勤していない事を意味します。
尚、大弁は 少納言より高位である。

以上の例で解かるように清原元輔も、貞元2年(977)、当代一流の歌人と
認められた 直後に少納言に任じられたのではないでしょうか。

そして、事ある毎に関白等に歌のアドバイスをした。《2》は、年配者である
必要があります。

平安末期の有名な少納言入道と呼ばれた藤原通憲(高階通憲・信西)は、若き頃は 天皇の秘書的役割であった
蔵人であり、やがて 院生を始めた鳥羽院の判官代となり、更には 地方の国司である日向守になっております。

即ち、中央の役人から地方の役人へ。
更には 1144年(康治三年)、38歳で少納言になっております(中央の役人)。

平信範は 45才、藤原玄上は 47才で少納言になっている、決して 若者だけが
なるとは限りません。藤原良近は 49才で「少納言の事を行う」となっております。

平信範は摂関家、朝廷の儀典についての知識がある。

藤原玄上は 琵琶(びわ)の名手。

そして、12、3才になる娘 清少納言は 父のこの少納言と言う官職を誇りとし、

やがて 三條家に仕えるに当たって「少納言」と言う名前で仕え、自他共に

その名が浸透し、定子の宮仕えにまで及んだものと思われます。

定子に仕えるに当たっての推挙も三條太政大臣 藤原頼忠と思われる。

 

<系図関係から推察する>と、

有名な婦人の場合は 系図に記載されます。

紫式部の系図には 「藤宣孝 室」とあり、宣孝の娘である賢子の系図書きには

「母 紫式部」としっかり載っています。

角田博士が唱えているように 清少納言が実際に藤原信義と再婚していれば
清少納言の系図には 「藤 信義 室」と記されるはずである。
しかし、その記載が無い。

又、橘氏の系図には 橘則長の所に「母 清少納言」とあり、則光と結婚したことがわかります。

清原系図に「清少納言と号す。定子女后の女房也。摂津守 藤原棟世の妻」とあり。

信義の場合は 系図の面からも 清少納言を妻とした証拠が見当たりません。

尚、ご存知のように系図には その人の最高官位、最高役職が記されるので
途中の官職は
省かれます。

よって、元輔の途中の官職が省かれていても 何の不思議もありません。

元輔の晩年に生まれ、末娘として育った清少納言が善きにつけ悪しきにつけ、
生涯、彼女の意識から離れることがなかったのは、他ならぬ
元輔であったと
思われることからも父の官名を称した可能性が極めて高いと思われます。
そもそも、何よりも 私は 先祖代々 そう伝わってきたと云う事です。

様々な 資料に元輔が少納言になったと云う記載が無いのは 当時の人は 元輔が
2》の 役目の少納言であると云う事を知らない人がいないほど有名なので注意書き
或いは
解説を書く必要がなかった、蛇足に等しいからではないでしょうか。

それが 300年、500年と過ぎてしまったので 今度は その事実がわからなく
なってしまった。そして千年が経ってしまった。

908年−元輔誕生

 

 

 

 

 

 

 

 

 

945年−蔵人所の下部

 

 

 

 

 

 

 

951年−河内国 権少掾・梨壺の5人のうちの一人になる

 

 

 

961年−中務省の少監物

962年−従六位下、中監物、

966年(数えの59才)−従六位上、大蔵少丞、清少納言誕生

967年−民部少丞、12月民部大丞(正六位上)、

969年−9月 従五位下、10月 河内権守、

970年

971年

972年

973年−内裏の御屏風の和歌を詠進(歌合参加が公式に確認される)

974年−正月 周防守、親子で山口へ。

975年

976年

977年−帰京して左大臣頼忠宅にての歌合に参加(当代一流の歌人となる)

978年

979年

980年−従五位上

981年−清少納言(16才) 橘則光と結婚

982年−則長 誕生

983年−この頃か 二男 季通の誕生

984年

985年−三條太政大臣頼忠家に清少納言の名で仕えたと思われる

986年−1月 肥後守、6月 法華八講(中納言義懐と掛合い問答)

987年

988年

989年

990年−元輔 肥後国にて没、83才(数え)。

991年

992年

993年−中宮定子に仕える

994年

995年−この頃、藤原棟世と再婚か、後、小馬命婦 誕生

996年−枕草子の筆が進む

997年

998年

999年

1000年

1001年−定子死去、宮仕えを辞めて棟世と摂津で暮らす。

1010年−枕草子完成 ?

 

1025年−清少納言没  ?

 

、東京大学史料編纂所が出した「読史備要」には ミスプリがあります、例えば830ページの清少納言の父「元輔」の父を「顕忠」と記されているが

正しくは 「春光」である。顕忠は 藤原元輔の父である。この間違いは 同時代に藤原元輔と、清原元輔と全く同じ字の人が居た為である。

専門書は 3つ、4つを照合すると 正解が得られるというものです。

 

いつの日か宮内庁秘蔵の資料等から我が家の伝承を裏付ける資料が出てくることを望みますが、枕草子が事実と想像とをとりまぜた複合の

世界であるので 寧ろ 「永遠の謎」となるのも一興である。              文責 藤原鎌足 孫45代 藤原三能、2011年7/24日

 

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NHKエンタープライズの漢詩紀行100選には 誤り及び不適切な部分あり。


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