天地人・直江兼継
直江のルーツ
◎神姓 − − 越後国中頚城郡の直江(直江津)より 起る。神(ジン)姓の家なり、とぞ。
又、中原にて、樋口兼光の後なり とも云う。兼続は、樋口惣右衛門兼豊の養子の為。
系図は、直江家系に「景綱(初め 神五郎実綱、後に与兵衛、大和守。代々 直江の荘 与板城主にして
武略あり。長尾為景、輝虎の二世に仕う。飯沼頼清を破り その邑を収む、晩年 入道して 酒椿斎と号す。
天文五年三月五日卒、歳七十余)−信綱(実は 長尾平太景定の男、初め 神五郎、後、与兵衛。天正十年
十月一日、春日山館に於いて 毛利奈左衛門秀弘に殺害せらる。その室 宝林院は、後に 兼続に配す。
ェ永十四年正月四日卒。歳 八十一。米沢の林泉寺に葬る)−兼続(実は 樋口伊予守兼豊の男。初め 与六、
少(ワカキ)より輝虎《後の謙信》に近侍す。信綱の殺害さるるや、命により この家を継ぐ)」と。
兼続の子 景明(早世、歳 十八、元和元年七月十二日)。その後 兼続、養子を迎えず 直江家 断絶。
家紋、兼続以前の直江家と兼続、景明が使用した紋とは 若干の違いがある。
兼続の紋は 「三つ盛り亀甲に花菱、又、亀甲に花菱」。
尚、後年 描かれた 米沢市の博物館所蔵の直江兼続像の家紋は 花菱でなく 「三つ葉」となっているのは
模写を間違えた可能性あり。
又、直江氏が 鎌足から始まると云う説があるようだが それは あくまでも説であり、藤原の誰から別れたかも
不明であり、全くの「と云う」と言う世界である。直江家系に ハッキリ「神」と記されている。
尚、越後にある墓石に誰々 と、記されているのは 殆どが 上杉氏である。
例、「従三位中納言藤原弾正少弼輝虎」とあるのは 上杉謙信の事であり、
「中納言藤原景勝」とあるのは 上杉景勝の事也。*上杉は 氏の為。
<大阪の陣に関して>
元々 関東管領家及び奥州管領上杉家は 足利幕府の管領であり、東国では 2(将軍家に次ぐ)の地位にありまして
武田や小田原北条に侵略される土着の守護を守り、太平を築く立場にありました。
しかし、関ヶ原の戦い後は、既に 関東管領でもなく、家康が所領を確定し、各大名間の争いは 江戸幕府が処理することになるようになりました。
よって、米沢に移った家は 自国の民 及び所領を守ることが「義」に変わっております。
京都の天皇家から秀忠が二代将軍を認可された以上、上杉景勝がそれを否定する理由が無いのです。
本流の関東管領上杉家は 足利時代の235年を通して 幕府と深いつながりを持ち、奥州管領深谷家の孫は 家康が関東に移封された時に
既に 家康に仕えております。幕府との繋がりを持つことを代々 重要視してきました。
たかだか 秀吉の時代は 15年です。
よって、徳川幕府が出来れば 繋がりを持とうとするのは ごく自然のなりゆきです。ましてや 力関係が歴然とした時点では お家取り潰しを
避けねばなりません。
秀吉・三成も無く、高台院(ネネ)もいない、大阪城。 既に絆も薄れております。
お家の為には 「率先して 大阪の陣に参陣するも やむ無し」で あったことでしょう。
*関東管領家は 謙信以前は 山内上杉家であり、謙信から長尾が上杉家を継いだのは ご存知のとおりです。
奥州管領は 深谷家(約220年間)が 足利時代初期に 二代に亘り補されております。
<関ヶ原前後の事>
討伐から一転して引き返して関ヶ原に向かう家康に襲いかからずに 攻められたら撃退に徹したことが
戦後処理の明暗を多いに分けました。
西軍に与した、同じ五大老の一人 宇喜多秀家は所領没収のうえ、八丈島に流され、お家断絶、
又、四国の覇者、長曾我部盛親も所領没収のうえ、お家断絶、代わりに 土佐で有名な 山内一豊が領主となっております。
は なんとか、三十万国を維持できました。
百二十万石から4分の一ですから 物凄い、今で言えば 大リストラをせねばならなかったわけです。
大変な苦労があったことでしょう。
鳩山さんが目標にしている温暖化ガス25%減なら4分の3残るわけですから比較になりません。
その後、は お家騒動を理由に更に十五万石に減らされますが 後世、有名な 上杉鷹山が出て 藩を立て直したことは
周知の事実です。
<と長尾の関係>
鎌倉時代末期の上杉頼成の妻は 家老である長尾景基の娘であり、頼成の三男 藤景、四男(?) 藤明は、
長尾家に養子に行きます。
1,350年頃、は 鎌倉の管領屋敷に居り、 関東管領として政務を行っていました。上杉の支族が越後に移ると
長尾も同行し、戦国時代にその一族の長尾為景が春日山城を改修し、やがて長尾景虎(上杉謙信)へと繋がっていきます。
よって、お分かりのように 謙信が出る前の約200年も前から上杉は 関東管領であったと云う事です。
ここが天下取りをめざし 上洛に固執した、 一つ二つの国主 今川義元や、武田信玄、織田信長など と、違う所です。
謙信が活躍した頃は まだ大平をもたらした家康も信長の人質・或いは その部下みたいなものであり、
足利将軍を強くする事が大平への道と考え、室町幕府再興に力を注いだのでした。
尚、管領とは 鎌倉時代であれば執権です。
即ち、室町の管領は 細川氏等であり、関東の管領は と云う立場です。
上杉の歴史は 更に遡ります、藤原重房が初代となっています。人名辞典に出てくる人です。
上杉憲政が長尾景虎にの名跡と関東管領職を譲ったのは 昔からの血縁関係も あります。
尚、山内上杉家の山内(ヤマノウチ)、及び長尾氏の長尾は、いずれも 鎌倉の地名です。
鎌倉の有名な名月院は 関東管領 憲方の菩提寺です。
又、謙信は 名前を景虎、政虎(上杉憲政の政)、輝虎(足利義輝の輝)と改名しています。
尚、謙信亡き後、景勝と争った景虎は 後北條氏からの養子であり、謙信の若き頃の名前を貰います。
【後継者】
は 太田道灌(扇ヶ谷上杉家の家老)が築いた江戸城、河越城を後北條氏に奪われます。
管領屋敷も鎌倉、平井(上州)、春日山城へと移転をよぎなくされました。小田原北条の力に対抗できなかった為。
しかし、謙信は 1561年に10万余の軍勢を率いて 小田原城を囲みます。
又、の家臣であった忍城主の成田氏が後北条に付くと 謙信は、忍城も攻めております。
又、1571年、元奥州管領家で 分家の深谷上杉家が後北条に付くと深谷の町を焼き払っております。
いかに小田原北条を敵視していたかがわかります。
跡目を景虎に継がせれば 家は 小田原北条の軍門に下ることは 目に見えていると言えましょう。
そんなことを謙信が望んでいたはずがありません。血脈的にも 景勝が 正統な後継者だったわけです。
【敵に塩を贈る】
『信州問屋由来記鑑』(1795年・ェ政7年)によれば、駿州の今川氏と相州の北條は、甲州の武田勢を
搦め手から謀って、南塩の「塩の道」を絶った為、甲州・信州の民百姓は塩不足におちいりました。
川中島で武田信玄と前後5回にわたって戦いをした謙信は、「争うべきは弓箭(ゆみや)にあり、
米・塩にあらず」として、越後 糸魚川の浜塩(北塩)の流通を止めませんでした。 これが後に
「敵に塩を贈る」と云う美談になりました。
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