島津今和泉家の系図
忠郷=忠温=忠厚−忠喬=忠剛┬忠冬
├忠敬=忠欽(久光の五男)
├久敬
└篤姫(徳川13代将軍 家定に嫁す)
* 忠郷は、薩摩藩主 島津吉貴の六男、忠剛は、藩主 斉宣の七男であり、斉彬の叔父。
*
篤姫が将軍家に嫁すにあたり、幕閣や御三家の中には 外様の、しかも分家の姫を御台所に迎えることに反対の意見あり。
島津は 関が原では 西軍であり、敵方であった、その敵の姫に譜代の重臣の婦人は 頭を下げなければならない。
しかし、11代将軍 家斉の御台所は、薩摩藩主 重豪の三女 茂姫(広大院)であり、8代将軍 吉宗の養女(竹姫)が
薩摩藩主 継豊の継室(正室 死亡による)として島津家に嫁している。
*各時代の主な将軍の母親
*小松尚五郎(清廉・きよかど)の事
小松清廉は 天保6年(1835年)、薩摩国喜入領主・肝付兼善の三男として生まれ、吉利領主である小松家の養子となって
家督を継いだ。通称は尚五郎、帯刀。官位は玄蕃頭。死後、伯爵を賜う。
帯刀とは官職名から来る呼称で「タテワキ」と読みます。
律令時代に、刀を帯び、貴人に供奉することを職とする 大刀佩部(タチハキベ)に関係しています。
尚五郎の場合は 直接その官職名には 関係ありませんが、祖父 清穆(きよあつ)も帯刀です。
尚五郎は 1861年、島津久光にその才能を見出されて側近として取り立てられ、大久保利通と共に薩摩藩の藩政改革に
取り組んだ。翌年、久光の上洛に従って上洛し、帰国後は家老となる。そして、主に京都で行動し、朝廷や幕府、
諸藩との連絡・交渉役を務めた。この京都で行動中、土佐藩士の坂本龍馬と親友となり、龍馬がお龍を妻として娶った時、
その世話役を務めている。その後、討幕運動を推進する。
大政奉還を前に新政府の人事構想が話題になったとき、坂本龍馬が推薦した人物5人の中の1番目に小松清廉の名があるなど、
人望も厚く、大久保利通や西郷隆盛からも大変評価され、将来を期待されていた人物であった。
そもそも下級武士に過ぎなかった西郷隆盛や大久保利通、一介の浪人であった坂本龍馬が幕末 あれだけの活動が出来たのも、
薩摩藩家老という地位を持った小松清廉の支援や協力がなければ、成し得なかったとも考えられ、明治政府樹立に向けて、
小松の存在は 非常に大きかったと考えられる。
明治維新後は新政府において参与や外国官副知事を務めた。フランス政府が江戸幕府の借金を明治政府が返さないなら
横須賀造船所を差し押さえると主張した時、小松清廉と大隈重信はイギリスから資金を借り フランスに返済し窮地を脱した。
版籍奉還にも貢献し、真っ先に領地を返上したが、明治3年(1870年)に36歳の若さで病死した。
その子 清直。 家紋は 抱き鬼菊の葉。
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