西郷どん(せごどん)
家系図
「誰も書かなかった西郷隆盛の謎・監修 徳永和喜(西郷南洲顕彰館館長)・発行 ㈱ KADOKAWA 」よりのページを画像化し、掲載させていただきました。
西郷家のルーツは 家系の専門家(太田亮 等)によれば菊池氏を遡り、紀氏です。藤原氏とするのは 間違いです。
姓氏家系大辞典(全国の市営、県営、国立図書館で見ることが可能)の著者 太田亮 大先生は、菊池氏の発祥初期の家紋は、
「鷹の羽」ではなく、 「日足」であるからして、
高木、大村、草野と
同族にして
大宰府官たりし 紀氏である」と結論づけております。
又、 「西郷隆盛の甥である西郷従徳(親父は元老で元帥海軍大将、従兄弟の大山巌は元帥 陸軍大将)が当時の人脈を駆使して ルーツを調べさせたが
室町 鎌倉と遡ることは 出来なかった」と。隆盛の地元である 鹿児島県の西郷南洲顕彰館から回答を得ています。2013年6月19日。
藤原氏としている本は 間違った本を参考にしているので 結果として 間違いとなります。
西郷隆盛が藤原氏かどうかは 江戸時代の苔むした先祖の墓石に本姓である「藤原」が付いているかどうかも 一つの判断材料になります。
隆盛のお爺さんである隆充の墓に「西郷龍右衛門藤原隆充」と彫られてあれば藤原氏の可能性は高まります。
因みに近藤勇の墓石には「近藤勇藤原昌宣」と刻まれている。
西郷南洲顕彰館館長が監修した本には「西郷家では 云々」と語り継がれていた、とか、「・・と云う説が有る」と 断定を避けているのは、この為です。
尚、小生 藤原のページは 家系に重きを置いて 掲載しているサイトの為、隆盛の事蹟などは、簡略化しています。
よって 西郷氏の出自について 詳しくは ここをご覧下さい。
菊池氏のルーツが紀氏である理由は 古文書によると以下のようになります。
延久4年(1072年)、菊池則隆(菊池家初代)が創建した菩提所 円通寺(菊池市)縁起には 則隆を「鹿島大夫将監則隆」と載す。
これについて 姓氏家系大辞典の太田先生は
「しからば この人は 肥前鹿島の人にて、益々 高木、大村氏と同族なるを推すに足るべし。けだし、これらの家は
大宰府 府官たりし、紀氏族にして、肥前より起こり、菊池氏の祖は 肥後に移りしもの。従って、それより前、《天慶の頃、肥後国司となり、
七大社を造建し、七大寺を草創せし》と伝えられる《尾藤少卿 紀隆房》とも関係あり。殊に円通寺より一層菊池氏と関係を有する輪足山東福寺
の縁起にも《天慶元年(938)、国中を勧進しければ、時の国司
尾藤肥後守隆房、大檀那となり、ついに大願成就す》と。
而して 菊池氏が最初の通字なる隆の字(則隆、政隆、保隆、経隆)は、この隆房の隆をうけしものと考へべし。
而して 菊池氏が その実 紀氏なるに藤原氏と云うに至りしは、隆房が既に明白に紀姓なるに関わらず、その称号を尾藤と云いて、既に
藤原姓を冒せしに起因すると考えらる。然らば 後に菊池氏が その祖と云う道隆、隆家など云う人は、その実、この隆房に当たるべし。
尾藤少卿の少卿なる語は 太宰少弐の唐名なり。蓋し、太宰府官たりし紀氏が、何らかの縁故によりて藤原姓を冒し、肥後に移りて
肥藤と称せしを、後に尾藤と書きしものか。尚、少卿は 少弐の唐名なれど、その実、隆房は
少監程の人にて、肥後国司となりしものなるべし」と記しています。
更に詳しい菊池族のサイトは そこをご覧下さい。
薩摩藩の武士の階級と家数(1846年頃・弘化3年)
上 士 | 御一門(4家):重富家、加治木家、垂水家、今和泉家。島津家の親戚 或いは 親戚待遇。 |
一所持(29家):外城を持つ領主。 | |
一所持格(12家):外城に準ずる領地と家臣団を持つ重臣。 | |
寄合(52家):御一門家や一所持の次男や三男が立てた家柄 | |
寄合並(10家): |
下 士 | 無格(2家) |
小番(760家) | |
新番(24家) | |
御小姓組(3094家) | |
与力(准士分)。 各座付属の士である。(※座=役所のこと) |
* 小松帯刀(家老)は「一所持」。西郷吉之助(後の隆盛)、大久保一蔵(利通)は「御小姓組」
* 西郷隆盛 略年表(12月生まれの為 表示した年より1才少なくなる場合有り)
年号 | 隆盛の年 | 出来事 |
文政10年(1827) | 12/7日、誕生 | 下級藩士 西郷吉兵衛・マサ夫妻の長男として生まれる。鹿児島城下の加治屋町。小吉、吉之助、善兵衛、吉兵衛、三助、大島三右衛門等と名乗った。 |
天保10年(1839) | 13才 | 妙園寺詣りの際に いさかいを起こした横堀三介との喧嘩で右肘を負傷。 |
弘化元年(1844) | 18才 | 郡方書役助の役につく。この役にあった時に萬福池や妹背橋の工事を指揮 監督する。 |
嘉永3年(1850) | 22才 | 「お由羅騒動」で赤山靭負(ユキエ・日置島津家の二男)が切腹。大久保正助の父 利世は喜界島へ配流され、正助は謹慎を命じられ無職に。 |
〃 4年(1851) | 島津斉興が隠居し 島津斉彬が薩摩藩 第11代藩主となる(42才)。 | |
〃 5年(1852) | 24才 | 伊集院 須賀と最初の結婚をする。その後、祖父 隆充、父 吉兵衛、母 マサが死去。 |
〃 6年(1853) | マッシュ・ペリーが浦賀に来航(6月3日)。翌年3月、日米和親条約が結ばれる。その前後の背景。 | |
安政元年(1854) | 26才 | 斉彬の江戸参勤に際し、江戸詰めを命じられ、庭方役となる。 |
〃 3年(1856) | 第13代将軍 徳川家定と斉彬の養女 篤姫(今和泉島津家の忠剛の娘)が結婚。 | |
〃 5年(1858) | 30才 | 7月、島津斉彬が急死(49才)。島津茂久(18才・忠義は明治になっての名)が12代藩主となり、父
久光が後見人となる。 11月、僧 月照の保護を藩から拒否された為、月照と共に錦江湾に入水。西郷は蘇生する。12月になると33才になる。 |
〃 6年(1859) | 31才 |
1月、藩命により「菊池源吾」と名を変えて奄美大島に潜居。(西郷氏の先祖は菊池氏の為、「菊池は われの みなもと」による) 11月、龍佐栄志の娘 愛加那と再婚する。大久保利通、有村俊斎ら若手藩士グループが「精忠組」を名乗る。 |
万延元年(1860) | 32才 | 3月、桜田門外で 大老 井伊直弼が暗殺される(桜田門外の変) |
文久元年(1861) | 33才 | 1月、長男 菊次郎が誕生。11月、島津久光からの召喚状を受け取る。 |
〃 2年(1862) | 34才 | 2月、鹿児島に帰着。大島三右衛門と名乗る。 |
3月、村田新八、森山新蔵を伴い下関へ出発、4月、久光の命令を無視し、京都へ行った為、徳之島への流罪を命じられる。 | ||
4月、「寺田屋騒動」で精忠組の多くの同志が落命する。 | ||
7月、奄美を経て徳之島に到着するが間もなく沖永良部島へ行くよう命じられる。奄美大島で長女 菊子が誕生。 | ||
〃 3年(1863) | 35才 | 7月、薩英戦争勃発。 鹿児島城下に被害が出る。 |
元治元年(1864) | 36才 | 1月、赦免召喚となり、2月に藩船・胡蝶丸で鹿児島へ戻る。3月、京都で久光より軍賦役(グンフエキ・軍司令官)兼 諸藩応接役に任命される。 |
7月、会津藩と共に京都御所を守備し、長州藩と戦う(禁門の変)。 | ||
12月、第一次長州征伐の征長総督参謀として長州藩と交渉、戦わずして帰順させる。 | ||
慶応元年(1865) | 37才 | 御家老座書役・岩山八太郎の次女 糸子と結婚。 |
〃 二年(1866) | 1月、坂本龍馬の仲介で薩長盟約を結ぶ。 | |
〃 | 6月、第二次長州征伐が勃発、薩摩藩は出兵を拒否、幕府軍が敗北する。 | |
〃 三年(1867) | 39才 | 10月、15代将軍 徳川慶喜が大政を奉還する。 |
〃 | 12月、王政復古の大号令により新政府が発足、西郷は参与に任命される。 | |
慶応四年(1868) | 1月、鳥羽 伏見の戦い(戊辰戦争勃発) | |
40才 | 3月、勝海舟と会見して江戸城無血開城を実現する | |
5月、上野の彰義隊を破る | ||
8月14日、弟 吉二郎 戦死す(現在の新潟県三条市にて)。 | ||
9月、奥羽越列藩同盟が降伏 | ||
9月8日、実際に明治と改元の詔書が出たのは慶応4年9月8日(グレゴリオ暦では10月23日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年とすると定められた。 | ||
明治二年(1869) | 41才 | 2月、霧島の日当山(ヒナタヤマ)温泉で湯治中、薩摩藩主 島津忠義の要請を受けて薩摩藩の参政に就く |
5月、函館の五稜郭が開城(戊辰戦争終結) | ||
明治四年(1871) | 43才 | 2月、明治新政府に参画 |
6月、参議に就任 | ||
7月、廃藩置県を断行。三番目の弟・信吾(従道) 陸軍少将となる。 | ||
11月、岩倉使節団派遣(米欧12か国・木戸、大久保、伊藤等)に伴い 留守政府の参議筆頭となる。 | ||
明治五年(1872) | 8月、学制発布 | |
〃 六年 | 1月、徴兵制公布 | |
7月、地租改正法公布 | ||
10月、遣韓論争に敗れ 鹿児島に帰郷 | ||
明治七年 | 3月、佐賀の乱で敗れた江藤新平が来訪 | |
6月、鹿児島で私学校を設立 | ||
明治八年 | 4月、吉野開墾社を設立 | |
〃 十年(1877) | 49才 | 1月29日、私学校生徒が陸軍の草牟田火薬庫を襲撃 |
2月4日、私学校幹部会議にて挙兵を決する | ||
2月15日、薩摩軍が熊本に向け出立(西南戦争勃発)、22日より熊本城(政府の熊本鎮台)を攻撃する。 | ||
3月27日、高瀬の戦闘で西郷の末弟(四男)・小兵衛が戦死。 | ||
3月1日、田原坂攻防戦開始(~20日)。以後劣勢が続く。 | ||
5月26日、維新の三傑 木戸孝允死す(43才、病没) | ||
8月15日、宮崎県の和田越で最後の反撃に失敗した翌日、全軍に解散を命じる。 | ||
8月18日、可愛岳を踏破して政府軍の包囲を突破、9月1日に鹿児島に帰還する。 | ||
9月24日午前6時頃、銃弾を受けた西郷が自決(西南戦争終結) 49才 | ||
明治十一年(1878) | 5月14日、大久保利通、東京の紀尾井坂にて 石川県の不平士族 島田一郎らに暗殺される(47才)。 | |
明治 三十一年(1898) | 3月2日、徳川慶喜、明治天皇に拝謁(勝海舟の懇願を受けて 有栖川宮威仁 周旋す)。 | |
〃 三十二年 | 1月21日、勝海舟没、77才。 | |
〃 三十七年(1904) | 2月8日、日露戦争勃発(~明治38年9 月5日)。 | |
〃 四十三年(1910) | 8月29日、朝鮮併合 | |
大正二年(1913) | 11月22日、徳川慶喜没 77才。 |
アメリカ本土へ足を踏み入れた最初の日本人は、ジョン 万次郎です。
2/11日の放映で 大久保正助が英語を日本語に訳した書物を提示していましたが、これは ドラマを面白くする為のフィクションです。
嘉永の時代には まだ そう言う書物は有りませんでした。実際には 万次郎が英会話書『英米対話捷径』を編集したのは 安政6年(1859)です。
そして 万次郎は 日米修好通商条約の批准書交換のために幕府が派遣した海外使節団の一人として、咸臨丸に乗り込みました、万延元年の事です。
その7年前のペリー来航により 万次郎は 中浜を名乗り、幕府の直参となり、通弁(通訳)として
活躍するようになりました。
4/8日の放映で 西郷は「大久保正助と云う忘れ物をしてきた」と言って 二人で薩摩国を出ましたが、これもドラマを面白くする為であり
実際には 藩主認可の通行手形が必要なので その場で合意しての出国はあり得ません。通行手形を持たない者は脱藩者と見なされ
牢屋に入れられます。その責めは家族にも及びます。この頃の脱藩で 有名なのは吉田松陰(22才)です。
西郷は 奄美大島の島民をさげすみ、娘たちの手の甲のいれずみを ばかにし「もっと まともな家に住ませろ」と訴えた。後年、明治政府の重鎮となった時に
「奄美の砂糖を困窮する鹿児島県士族の救済に使えばよい」と説いた。島民搾取の現実を目の当たりにしながら こういう考えだったのを知ると、
私は西郷を英雄と単純にたたえる気持ちになれない」とは
奄美大島の郷土史研究家 みのわ・ゆう氏の「近世・奄美流人の研究(南方新社)」より。
NHKの放映が正しいのか、みのわ氏が正しいのか。
尤も NHKは 最近 テレビを面白くする為、正史とは違ったデタラメを放映する。困ったことです。
武士の世を終わらせた西郷隆盛が何故 西南戦争を起こしたのかと云う疑問が残ります。
留守政府の責任者であった西郷が、「朝鮮に一人で乗り込んで 説得に行く」と云う強い意気込みが本当にあったのであれば、
友である大久保を粘り強く説得することは十分できたはずである。
逆に 大久保が言うように朝鮮を相手にしている時ではないと 納得できたものと思う。
仲が良かった人こそ、分かれるとなると憎さ百倍と云うことでしょうか。
戦後、西郷の評価は色々あります。
不平士族の処分の為に西南の役を起こしたのであれば、何も、罪のない政府の若者の大多数の命を犠牲にすることも無かったものと思います。
熊本、宮崎、鹿児島の全くの第三者、物など薩摩と政府の金など、無駄にしてしまった訳です。
本当に大久保が作る新しい世を見るつもりであったのであるなら、自分は 離島に身を隠し、再度「菊池源吾」と名を変えて
10年位住んでいれば良かったものと思う。
当然 慕ってくる年下の連中は断固として受け入れず東京へ帰えるよう命令すべきだったと思う。
また、作った私学校の校則に違反した者は 当然排除して 新政府に反抗しないように指導しようと思えば西郷ならば出来たはずである。
また、新政府に対する抗議も武装集団で行かず、何故 一人で東京に乗り込まなかったのか、という疑問も出ます。
武装集団となれば相手も警戒するし、万が一、暴発も考えられる。
西郷ほどの人ともなれば、反乱軍となり、負ければどうなるかも判っていたはずです
全く 西郷と言う人物は不可解です。
もしかすると 西郷がいなくても 勝海舟との江戸城無血開城は出来たのかもしれない。桂小五郎、山岡鉄舟なども居たことだし。
寧ろ、徳川慶喜の徹底した謹慎を高く評価すべきように思います。
何故なら、薩長の過激派からは 慶喜の首をとれ、と息巻いていた連中が居た状況下で、
戊辰戦争の直前、徳川慶喜が 夜中に密かに大阪城を抜け出して 東京に帰ったように政府と戦うつもりが無ければ
離島に隠れて謹慎していれば良かったものと思います。西郷は 10年前の前例を教訓としなかったのかと云う疑問も残ります。
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