幕末・海防・ペリー来航関係

 

文化7年(1810)2月、幕府は 会津藩主 松平肥後守容衆(カタヒロ)に江戸湾西側の三浦半島を、白河藩主 松平越中守定信に東側の 安房・上総
(房総半島)の沿岸の警備を命じた。即ち、江戸への海上入口左右の警備は、台場の設置と共に、有力な譜代大名に担わせた。

文政8年(1825)には、川越藩に相模国の海岸の防衛を命じる。

「アヘン戦争で 清国敗れる」の報が 出島のオランダのカピタンからもたらされると、幕府は 天保13年(1842)、 江戸湾の警備を従来より
いっそう強化し、再度、川越藩には 浦郷から三崎に至る三浦半島東南岸一帯の警備を命じ、
又、新たに忍藩主 松平忠國にも房総半島の富津から北条に至る西岸一帯の警備を命じた。

弘化4年(1847)には 会津藩の江戸湾警備が再開、房総半島の上総富津と竹ヶ岡に陣屋と砲台を構え 東海岸警備に就いた。
嘉永3年(1850)、幕府は 更に海防強化を命じた。彦根藩が鎌倉七里ヶ浜の八王子台場の守備を担当。

以上のように ペリー来航の50年も前、即ち、1800年代になり 外国船が日本の沿岸をうろうろするようになるに及び幕府は 「打ち払い令」と
「薪水給与令」を交互に出すと共に 海防の強化を図った。
 

「嘉永5年(1852)にオランダからもたらされたペリー来航予告情報についても、幕府が有効な対策を講じられなかった原因は、
老中阿部 正弘の諮問に対して海防掛がこの情報を軽視した為である」と言う説は 全く当たらない。
当時の幕府の財政事情 及び列島が海で囲まれており その海岸線の防衛の難しさを知らない者の意見である。
以下は 海防を任された諸藩の窮状の一つである。

【江戸湾の警備は きわめて大きな経済的負担となった。川越藩では当時2万石の加増を得ていたが、新しく警備を受けもった忍藩では
竹ヶ岡に陣屋を構えると共に大房崎に砲台を築いて、約600人の藩兵を派遣して警備を固めた。しかし、この為に藩の財政が
著しく圧迫された為、家中に対し面扶持(家族の員数に応じて米を給与する方法)を実施するとともに、領内の村々に対して
高100石につき3両の臨時課税をおこなった。このあと忍藩では幕府に対し、『相州路大和守様(川越藩)御持場は、内海 5〜6里で、
浦賀奉行と共同して警備しているのに、下総守(忍藩)持場は、内海のみで 18里、外房も入れると実に28里の場所となり、
小高の忍藩の人数ではとても厳重な警固は行き届き難い』と訴えている。この為 弘化4年(1847)警備区域は房総半島の先端 洲ノ崎から
大房崎までに縮小され、富津から竹ヶ岡までは会津藩の分担とされ、北条の陣屋に兵船50隻を常備して異国船来航に備えた】。

江戸湾近辺の海防の強化により 各藩は 嘉永・安政年間に 更に財政悪化を招きます。

又、以下は ペリー来航前夜の幕府 大目付 深谷遠江守 及び 阿部老中の困窮する武士に対する申し渡し文である。       その訳文

ペリー来航前後の期間の海防に当たった人員は 海陸御固泰平艦(横浜市教育委員会所蔵)によると「50万7千8百人余り」と記されています。
要するに全国の諸藩の武士が江戸湾を囲む地域を警衛したと言うことです。この人数は 現在のちょっとした市の人口を上回ります。
しかも、この人々は 物を生産しないので 価値を生み出さず 費用負担のみが発生します

嘉永6年(1853) ペリー来航。
幕府、川越・会津・忍の3藩を品川台場警衛を、鳥取藩に横浜の本牧警衛を、熊本・萩・柳川・岡山の4藩にも警衛を命じる
 

嘉永6(1853)年6 月、大目付 深谷遠江守等は 海防強化の為「大船製造の解禁」の上申書を出している。それに答えて 阿部老中は 同年9月、
大船建造禁止令解除。諸藩に「大船製造」の要請をしている。
しかし、諸藩は 財政事情が苦しく それどころではないので「容赦」の願いを出している。その一例 1(百万石の前田でさえもである)、

嘉永6年7月、水戸の徳川斉昭が海防参与として幕政に参加してきました。
斉昭が阿部老中(34才)に強硬な攘夷論を主張するものですから、大目付 深谷盛房(86才)は 対アメリカには 穏便に行くよう
文書を提出したわけです。

嘉永6年8月に大目付  深谷遠江守がペリー への対処は「穏便にやるように」孫のように若い阿部老中に出した 上申書。       その訳文

嘉永7年(安政元年 1854)、ペリー再来航、 日米和親条約締結

品川台場警衛に鶴岡藩・松代藩・松江藩が加わる、鳥取藩は御殿山下へ。 ロシアのプチャーチン来航(大阪から下田へ)。 日露和親条約締結。

会津藩の江戸湾の品川第二砲台場の防備は 安政6年まで続いた。

文久元年(1861 ) ロシア軍艦による対馬占領事件。日露和親条約が結ばれていたのにもかかわらずである。

江戸湾の警備は 南は 熊本藩から北は 山形藩の30藩以上に及び、その後 明治に至るまで 海防は続くのである。

尚、蝦夷地の海防は 仙台・盛岡・弘前・秋田・庄内藩等が担うことになる。

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* スターリンは 終戦後の8/18日に北海道半分を占領する命令を出した、 尚、抑留は シベリアだけでなく、グルジア
    キルギス、ウクライナ等 各地にあった。
    また、戦争は終わったというのに、1945年8月19日、満州の基地から大空へと飛び立った特攻兵たちがいた。なぜ彼らは特攻機に乗ったのか

    戦争とは 悲惨なものである。どさくさにまぎれた攻撃による悲惨。しかし、それでも、現ロシアとは 友好が望まれる。

   イギリス、オーストラリア、アメリカ、そしてオランダの各戦争捕虜たち、合計 6万とも10万とも言われております。
   これは 日本軍がタイ・ビルマ戦線で捕虜にした人々を使って作った 現在のタイとミャンマー間の鉄道(泰緬鉄道)です。
   1942年の出来事です。
   周恩来の「恨みに報いるに徳を以ってす」で 日本は 中国に救われた事を忘れてはいけません。(鎌足 孫 45代)
 


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