会津の西郷 と 薩摩の西郷氏の事

西郷を語る前に 西郷氏の先祖 菊池氏について。

菊池氏のルーツは 諸説あり、 即ち、藤原隆家流説、藤原伊周流説、藤原隆宗流説、紀氏説、九州の土豪説、等々。主な説でも5つ有り。

しかし、
姓氏 家系大辞典の著者 太田亮 大先生は、菊池氏の発祥初期の家紋は、「鷹の羽」ではなく、 「日足」であるからして、高木、大村、草野と
同族にして 大宰府官たりし氏である」と結論づけております。

「肥後国の木庭氏系図によれば、大夫将監 則隆の菊池拝領を一條天皇の長徳二年(996年)とす」と、太田亮 大先生の姓氏家系大辞典にあり。

尚、則隆の父 政則は 長徳四年(997年)生まれ(菊池氏の代々の紹介ページ)と なっております。子供の方が先に生まれていることになります。

http://wwwc.dcns.ne.jp/~m.t-kiku/kikuchisinosyokai.html

又、「菊池則隆は、延久4年(1072年)に肥後に下る」ともなっております。

どちらが正しいか。菊池氏 千年の謎をときました

さて、西郷氏について。

平安中期の 菊池則隆の二男 西郷政隆の西郷家と 鎌倉時代 中期の菊池8代の能隆の二男 隆政とは、別流とも考えられます。

又、菊池16代 武政の弟は 西郷右馬介となっております。

家紋に関しては。

 一本 菊池系図には 源為朝(1177年没)に仕えた菊池肥後守隆直の時に鷹羽紋を使用していた事が記されている。

以上の事を考えると この肥後の菊池氏 5百余年の間には 何人かが分家に出ている可能性があります。

以上の事を頭に入れて、両西郷氏の事を記します。

会津の西郷氏の家紋は 「角九曜」である。西郷隆盛の江戸時代の家紋は 三つ葉菊 或いは 鷹羽」。明治以後は「抱き菊の葉に菊」。

「家紋が違えば 別流である」、一般的には そうなのです。

しかし、家紋の変遷からして、この両者は 昔々は 同族です。

戊辰戦争で 自刃した 西郷頼母の家族の無念を思うと 同族扱いしたくはないですが 西郷隆盛が菊池氏流と言っていたことを考慮すると

同族です。同族でないと判断する材料がないのです。

尚、会津の西郷氏は 三河の西郷氏の分家筋です。

三河の西郷氏は 南北朝時代に西郷盛正が肥後国を去って、三河国の八名郡に住した事から始まります。

太田亮 大先生が著した姓氏家系大辞典によると、「この氏の出自に関して寛政時代に幕府に提出した家譜には『菊池族 西郷の後にして、

弾正左衛門忠昌に至り、大内杢助惟時の男 左近将監信治を以って嗣とし、源氏に改む。その四代 弾正左衛門盛正、東八名郡に移り、

その地を西郷の庄と名づく。云々。家紋、並び鷹羽、、桐』とあり」なのです。

江戸時代の初め、西郷新兵衛元次の次男 近房が やはり保科家の分家に養子に入るが

保科家に跡継ぎが出来たので 西郷氏に戻ります。但し、家紋は 保科家の家紋を引き継ぐので 角九曜です。

(明治になって西郷頼母が保科に改名したのは 始祖のいきさつを知っていた為か)

程なく 保科家の本家の正之は 寬永十三年、山形に移り、その後 会津に移ります。その時に西郷近房も 家老として 移ります。

系図は

 近房―近方―近張―近致―近寧―近光―近思―近悳(ちかのり)=四郎

尚、通称は 代々 頼母 或いは 頼母助。

只、西郷新兵衛元次に至る室町時代 及び戦国初期の系図は ハッキリしない部分があります。

ウィキペディアの西郷氏の系図の中には 4代略が2回もありますが、姓氏家系大辞典によると「信治」の四代の孫が「盛正」となっていますので

実際には 3代略であり、「その七代の孫 正員」となっているので 「盛正」と「正員」の間には 6代いることになります。

3代と6代で9代です。 9代 となると。約、300年が不明と言う事になります。他のサイトの系図も 点線になっており、その部分は 不明です。

しかし、何はともあれ 菊池氏流に変わりはありません。


一方、薩摩の西郷氏のルーツも 諸説あります。

1、酒井氏説

延暦の頃(奈良 平安)、豊前国宇佐郡の酒井郷より 起こった酒井勝の子孫が大隅国の桑西郷(くわのさいごう)に移住し、西郷を名乗った。

桑西郷は 今、隼人町小田に上西郷、下西郷の小字あり(鹿児島県の地名辞書)。

鎌倉時代の御家人交名に「国方、西郷酒大夫末能」とあり。   *酒大夫とは 酒井大夫の略なり。

姓氏家系大辞典を著した太田亮 大先生は、「国分郷上井村 韓国大明神記録に西郷大膳あり」と記し、

「後世 島津氏に仕え、維新の際、西郷隆盛、従道 兄弟あり」と記しています。

 

2、菊池氏流

そもそも この菊池は 藤原氏流、紀氏流等 諸説がある。藤原道隆、伊周、隆家の子に文家 及び政隆、或いは 則隆と云う子はいない。

又、藤原隆家の子である経輔にも正則と言う子もいない。勿論、文時、政則と言う子もいない。

則隆を摂関流の藤原則隆とするのは 間違いである。1040年当時の日記(春記)が証明しています。

又、ウィキペディアの西郷隆盛の系図では 吉之助隆盛(隆永)は 藤原鎌足から数えて 47代となっていますが この代数は 明らかにおかしい

「隆」の字の付かない 誰かが 余計に入っているものと思われます。隆盛は 41~42代のはずである。5代おかしければ 約 150年ですから

明治~平成がすっぽり入ってしまう 長さです。そもそも藤原隆家に遡っていること自体が誤りです。

 「西郷隆盛の甥である西郷従徳(親父は元老で元帥海軍大将、従兄弟の大山巌は元帥 陸軍大将)が当時の人脈を駆使して ルーツを調べさせたが

室町 鎌倉と遡ることは 出来なかった」と。隆盛の地元である 鹿児島県の西郷南洲顕彰館 の館長から回答を得ています。2013年6月19日。

当の子孫に分からない先祖を 赤の他人が どうしてわかるのでしょうか。

江戸時代の西郷隆盛一族の墓石には 藤原隆盛のように本姓を表わす文字が無い。
征夷大将軍 源家康は、徳川家康であり、藤原昌宣は、近藤勇である。

又、例えば 昔は 系図は 身分証明書のようなものであり 重要なものでした。
家康が三河から不慣れな関東に移動してきた時に、幕府の足固めとして 八王子に関東代官 18人を置き、甲州から武田の残党や
幕府に不満を持つ者を取り締まりました。
嘗て、小田原城が落ち、たくさんの浪人が出ましたが、その時に 藤原流の岡上甚右衛門と云う者が居りました。
甚右衛門は しっかりとした系図を出したものと思います。
単に藤原流と云うだけで 代官の一人に選ばれたのです。
ましてや、藤原鎌足の子孫の西郷となれば 島津氏は もう少し 優遇したものと思います。
今で言えば 「東大出の元 どこどこの人」と言う事です。そこそこの待遇で就職できるものです。
島津氏に仕えた時の西郷氏は 下級武士だった。
その時 先祖は 菊池流だけは わかっていても 藤原の摂関流と云う認識が無かったものと思います。

家紋からも西郷さんの先祖 菊池氏は 紀氏であること、

菊池氏の当時の石碑、古文書、当時の縁起からして紀氏であり、藤原氏でないこと。

「さつまの姓氏(川崎大十 著)」は 発行当時 出典が示されない部分が多くあり、問題になった本であること。

その他 複数の事項からして 西郷隆盛の始祖は 藤原鎌足ではありません。

ウィキペディアの西郷隆盛の系図は 始祖を藤原鎌足にしています、これはあきらかな間違いです。

又、西郷南洲顕彰館の館長からの情報では、先祖は 1700年頃 肥前国島原藩の【「東肥西江」(雲仙市西郷)】を去り、薩摩国の島津に仕えた」とのこと。

西郷家に関しても 鹿児島の地元と熊本の菊池市の見解は 違っている。

これもまた おかしなことである。
尚、
隆盛が自分は 菊池の子孫と知っていても 鎌足の子孫とは 思ってなかったので 「藤原源吾」でなく、「菊池源吾」と名乗ったものとも思われます。

鎌足に遡る家系図を島津公、や 会津公に見せれば 歴史は変わっていたかも知れません。

会津公も一目おき、あそこまでの徹底した会津戦争にならなかったかも知れません。

藤原の時代には 先祖は 数々の天皇を出し、政をやって来た家なので。

さて、

姓氏家系大辞典を著した太田亮 大先生は、「菊池氏の菩提所 円通寺の縁起には 則隆を『鹿島大夫将監則隆』と載せたり。しからば、

この人は肥前の鹿島の人にて、益々、高木、大村氏と同族なるを推すに足るべし。蓋し、これなどの家は 大宰府の府官たりし 紀氏族にして、

肥前より起こり 菊池氏の祖は 肥後に移りしもの 云々」と記す(昭和の初め)。

しかし、平成になって、ネットが普及し、多くの情報が得られるようになった事もあり、熊本県の菊池市の菊池観光協会によると

西郷吉之助は 安政の大獄で「菊池源吾」と改名して 奄美大島の龍郷町に潜居したと言う。そして、大島で 2回目の結婚をし、

出来た子に 菊次郎(昭和3年没、外交官・京都市長)、菊子と名づけたと言う(庶子扱い、3番目の妻が正妻で その子が寅太郎)。

これは 吉之助が菊池氏の後裔の為、それぞれに「菊」の字を付けたと云う。     * 菊池は われのミナモトが「菊池源吾」です。

そして、菊池観光協会が公表している「西郷家略譜」は、「さつまの姓氏(川崎大十 著)」に出てくる系図の人名と ほんの一部 違いがあるが

ほぼ合致している。尤も、「さつまの姓氏」は 平成時代の本なので 「西郷家略譜」を参考にしていれば 同じになり、印刷ミスで ほんの一部の違いが

生じた可能性も有ります。

しかし、この増田又彦氏が著した「西郷家略系」に対しても 異説があることを記した上で その系図を載せます。

誰でも書き込めるウィキペディアには 間違いがあると 国会図書館の係員も 仰っていましたが 不確実なものは 公表しないのが一般的です。

異説があることを明記して 載せる必要があるものと思います。

菊池則隆┬経隆(菊池氏)
      └政隆―隆基―隆季―隆房―基宗―基哉―隆邑―基時―隆任―隆古=隆政―隆連―隆政―隆国―武治―隆朝―政隆―隆継┐
        ┌―――――――――――――――――――――― ――――――――――――――――― ――――――――――――┘
        └隆永―隆国―政隆―隆盛―隆定―敏武―隆純―昌隆=吉兵衛―覚左衛門―吉兵衛―龍右衛門―吉兵衛―隆盛―寅太郎    

* 系図で=は 養子を意味します。

* 藤原隆家は 大宰権帥を拝命して大宰府に下り、在任中の寛仁3年(1019年)4月 、当地で刀伊の入寇を撃退し武名を挙げた人です。 

http://www.kikuchikanko.ne.jp/modules/group/index.php?lid=109     (菊池観光協会のサイト)

尚、当サイトの菊池氏自体の系図には 間違いは ないものと思います。帝国大学、現在の東京大学史料編纂所発行の「読史備要」とも一致しているので。
(西郷氏については 記載なし)

 

*最終結論として 九州各地にあった西郷の地に住した「流派に属さない西郷さん」が 島津家に仕え、西郷隆盛に繋がった可能性も無いではありませんが

  維新の三傑の西郷さんが 「自分は 菊池氏流」と、言っているわけですから、敬意を払って 菊池氏流とします。よって、会津・島津の西郷氏は 同族なり。

* 系図の途中に間違いがないと言っているわけではありません。「菊池氏流で 同族」と言うことです。       文責 藤原鎌足 孫 45代 藤原三能


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