真田大八
平成になって出された諸書、及び サイトに真田大八が「片倉守信として 仙台に生きた」と記されているのは 間違いです。
ウィキペディアの「真田守信」の項も 間違いです。デタラメな情報を基に記されているサイトは 他のページも史実に基づいていない可能性有り。
2,016年、守信の墓石を大八としていた間違った案内の看板が白石市教育委員会によって、訂正されました。
又、大河ドラマで「伊達政宗が幸村の妻子を保護した場面」は フィクション(作り話)であることも 判明しました。
真田守信と真田大八は 全くの別人です。ニセの子孫の言い伝えよりも 歴史学者或いは 家系の専門家の説が正しいのは言うまでもありません。
真田大八は 真田幸村の二男で 慶長十六年(1611)に九度山で生まれる、母は 竹林院。
慶長十九年(1614)五月五日、京都にて 石合戦の遊びで 石に当たり、あたり所が悪く 死亡してしまった(数えで4才)。
この事は 真田の正史 及び 玉露叢にも記されていることである。
理由としては ① 真田の菩提寺でもあった 蓮華定院は 「真田大八 死す」と云う事を 噂では 過去帳に記しません。
噂で 過去帳に記せば 気に食わぬ人は 皆 死んでしまうことになるからです、それでは お寺の権威が保てません。
② 夏の陣時「幸村の子 5人の保護」は、有りませんでした。阿梅一人が 略奪されたことが 真田の正史及び片倉代々記 及び仙台叢書に記されています。
③夏の陣直後に家康の命により 城を抜け出したした 幸村の妻 竹林院及び娘が見つけ出された時、3才の大八は 居なかった、
この時既に 片桐など豊臣方の重臣から大阪方の大将 真田幸村の子供の人数及び男子の事を把握していた家康は 竹林院が所持していた 黄金等を
取り上げるに留め、 それ以上の捜索を命じず、妻子を許した。家康の前に連れ出された竹林院が大八は 夭折したことを伝えた、と云う事です。
* 平成28年の大河ドラマ 真田丸 放映により、真田研究が深まりました。仙台の幸村の子孫と称する方が諸書に記述した
「幸村の子供達が片倉氏に5人保護されて仙台へ」と云う説に対して
宮城県、及び仙台市及び近隣の市の教育委員会の責任者は、
「5人の保護の記録はないです。「老翁聞書(仙台叢書の中にある)」で確認できるのは阿梅だけです。
4児を預けてたというのは、以前の説と考えてください。
調査研究が進んだ現在、この説の成立は難しいと思います」と云う認識です。
* 真田幸村の直系子孫と称する人は デタラメな「仙台人名大辞書の真田の項」に
基づいているので、それは間違いです。
その人は 真田大八の子孫ではありません。
尚、平成27年末に宝島社から出版された「真田幸村の真実」と云う本は 真実とは名ばかりで 間違いが多く記されています。
例えば、
① P 20の仙台真田家の秘宝「真田幸村所用の南蛮鎧」は ニセ物である事が判明しました。
② P 27の真田大八が保護された経緯が記されている家系図は
江戸時代の人が作成したものではない事。
その系図に記されている真田の「真」の字が、新字で 記されています。江戸時代の人は 旧字の「眞」を使用していました。
③ 「保護された経緯」とあるが 上記したように保護ではなく、略奪(乱取)であった。そこも間違って伝わっています。真田大八は略奪もされていない。
④ P 67の「西村孫之進(景国)こそは、幸村二男の真田大八を白石まで 護衛してきた武士なのである」と、記されているのも間違いなり。
既に大八は 亡くなっているし、西村孫之進が 護衛して送り届けたのであれば、その時点で 真田幸村の娘である事が
分かることになります。
しかし、片倉代々記には「誰の女なるか知らず」と、記されています。よって、「白石まで護衛してきた武士」と云うのは
間違いです。
阿梅が生存していることを夏の陣の十数年後に知って、片倉氏に面会した為に
阿梅が 幸村の娘という事が証明され、
その後、阿梅が片倉重綱の後妻に 入った関係で 片倉氏の家士になったのです。即ち、護衛は無かった。
片倉代々記に「三井奉膳等これなり」と、記されています。
⑤ P 96の「大阪城落城の前日に片倉重綱に引き取られ、17歳の時に重綱の後室となる」と、記されているのも間違いです。
重綱の正妻が亡くなったのは 1626年ですので、その後に後妻に入ったわけですので 阿梅は
25歳位です。
正妻がいるのに後妻に入るわけがありません。これも片倉代々記に記されていることです。
⑥ その他 間違い多数あり。 真田大八の子孫は 居ないと云う事です。
*多数の間違いの言い伝えにより、夏の陣から250年経った明治時代になり、建てられた 墓石も 間違って「幸村十世」などと彫られたのです。
* 真田大八が 片倉守信でない理由のサイトは ここをクリック
幸村の二男 真田大八は夭折していた事に付いての記事 91ページ(真田幸村、1966年発行、人物往来社、島村計一郎 著)
前のページに戻る
名字の最初に戻る