家康の捜査命令で 見つけ出された人々

 

そもそも 家康が女である幸村の妻 竹林院の捜査を何故命じたか、である。

慶長20年(1615年)5月7日、道明寺の戦いで 真田幸村が西尾宗次に討ち取られ、大阪城も炎上後の命令である。

それは 幸村には 二人の男子が 居る事を家康は 知っていたからである。
片桐且元などの豊臣方の者を寝返らせて、大阪方の内部事情は よく把握していた。
二男 大八も亡くなっているはずであるが、念には念を入れて、妻子の捜査を浅野長晟に命じたのである。
そして、捕えた竹林院の口から「長男 大助は 幸村の指示通り、秀頼に近侍した事。二男 大八は 大阪の陣前に夭折していた事」を聞いたのである。
そして、実際に、竹林院が幼い男子を連れていない事、また、大助は 秀頼に殉死していたことがわかった。よって、妻女は 許された、のである。

阿梅 及び大八は 夏の陣の時 「片倉氏に保護された」と諸書にありますが、それは間違いです。

敵の大将の男子を保護などすれば 「謀反の疑い」で お家取り潰しになる状況にあった時期である。

敵の総大将である幸村の男の子を 徳川氏に黙って、保護して 仙台に連れ帰ると言う事は 有りえません。 
夏の陣の直後、娘1人が略奪された事が片倉代々記、及び 真田の正史に記載されている。
又、男の幼児では 足手まといになるだけで略奪する価値も無いので、略奪も無かった。

当時は 戦後処理は 必ず行われ、逃亡したものは 探し出されることになっていました。
秀頼の子 国松(8才)は 5月23日、六条河原で長宗我部盛親及び その男子らと共に斬首された
首実検もされるのです。伊達家の重臣がそんなことを知らないはずが有りません。

慶長20年(1615年)5月7日に大坂夏の陣で信繁(幸村)が戦死すると、徳川家康に命じられた紀伊藩主・浅野長晟は
5月19日に紀伊の伊都郡で 幸村の妻及び娘を発見し、5月20日に京都の家康に引き渡した。
この時 生存していれば 4歳位の二男(大八)も母親と一緒にいたはずである。でも 居なかった。
大八は 大阪の陣前に夭折していたからです。
この事は真田の正史に「真田左衛門佐ノ妻女」と、記されていて、男児がいれば、「妻子」となる。
当然、重要人物を家康の許可無く、匿うとか、乱取など 出来るわけがない。
尤も、夜陰にまぎれて 逃げ出す者はいたことでしょう(小物、『いつの世も女は 男の餌食になる場合があり、乱取は あったことでしょう』)。
尚、 戦後処理が済んだ 数年後の保護は ありえますが。

仙台の真田の子孫と、主張している方は 「大八が死んだと云う噂を流した」とか、「系図の偽装工作」をしたとか明治以後に言い出したようだが
そもそも家康親子は、豊臣を潰す為に「方広寺の鐘銘」で 難くせをつけて 大阪の陣を引き起こした。
そして豊臣を終わらせる為に 孫娘である千姫の「秀頼の助命嘆願」を受け付けなかったわけです。

特に家康は 歴史書(吾妻鏡など多数)をよく読んでいて、例えば 平家の滅亡は 幼い頼朝を許した事に原因があった事を熟知していた。
家康は 武田信玄との戦いでは、真田昌幸に 痛い目に合わされている、そして、関が原の戦い時には 上田城で 秀忠が痛い目に合わされた。
家康は 小早川の寝返りで やっと 勝つことが出来た。そして、大阪の陣では その息子である幸村に 苦戦を強いられた。
そう言う親子代々と言うことを知っていたので 男の子に関しては 武門の習い(幸村の子孫を断つ)を肝に銘じていた。
よって、秀頼の男の子、長曾我部の男の子など皆、首をはねた。

講談(フィクション)本にあるように 敵の大将 片倉氏に矢文で子女が保護してもらえるのなら、大八の他に長男の大助、女房も
頼んだことでしょう。しかし、幸村は そんな事がかなうはずもないので、大助に、負けが決定的になったら 秀頼に殉死
するよう命じていたのです。この事は真田家の正史『真田家御事蹟稿』の、信繁の伝記である『左衛門佐君伝記稿』に記されている事です。
この事を竹林院も承知していたから、女の子だけを 引き連れて 大阪城を脱出したのです。

よって、「矢文で 片倉小十郎に保護を託した」は 全くのフィクションです。面白おかしく広告すると 本は売れると言うものです。

NHKの真田丸で、伊達政宗による「幸村の妻子の保護シーン」は、フィクションと判明しております

即ち、子供でも 男は 生きられない時代だと云うことです。
当然、大八は この時には既に死んでいたので、考慮する必要も無く、後日、幸村の妻 及び 女子も探し出されたが許されたというわけです。
大八は居なかったので、諸書の当時の記録にも出てこないわけです。

徳川実記」には秀頼の行方を捜すよう、秀忠が命じ、およそ2年に渡り探索された事が記録されている。
大阪城炎上で 自害し、焼死したに違いないが、念には念を入れたのである。それ程 豊臣の象徴は消すことにこだわったという事です。 

尚、仙台の真田の子孫と、主張している方は 「寬永の頃、大八が仙台に生き延びていると云う噂が経ち、幕府から疑われた」と云う言い伝えがある事に関しては
それも作り話で証拠がない。竹林院が 捕縛され、家康の前で詮議を受け 許されたことで、大八の件は 落着しているので、そういう噂がたつわけがありません。

神君家康の裁定を 老中などの幕閣が覆し、調査を命じることはありません。仙台の真田の子孫と称している方の言い伝えは 史実と違うところが多いのです。


前のページに戻る

真田丸の最初に戻る

名字の最初に戻る