真田昌幸、信幸・信繁(幸村)の年譜
天正元年 | 1573 | 4月12日、武田信玄が没し(53才)、勝頼が家督を継ぐ。 |
二 | 1574 | 5月19日、真田幸綱 没す(62才) |
三 | 1575 | 5月21日、長篠の戦い、真田信綱(39)、昌輝(34)の2人の兄が討死する。三男 昌幸、家督を継ぐ。 |
六 | 1578 | 3月13日、越後の上杉謙信が没し(49才)、養子の景勝が家督を継ぐ。 |
5月 上杉景虎(謙信の養子、北条氏康の七男)が挙兵し、御館の乱起こる、武田勝頼 景虎を支援の為出陣す。 | ||
この頃、昌幸が検地を行い「真田氏給人知行地検地帳」を作成す。奉行は矢沢頼綱(昌幸の叔父) | ||
七 | 1579 | 3月24日、上杉景虎が自害し、御館(オタテ)の乱 終わる。 |
9月、武田、北条同盟が破棄され 戦争状態に突入す、勝頼は 上杉景勝・佐竹義重と結んで北条氏に対抗す。 | ||
12月、武田信勝が元服する。同時に、真田信幸も元服し、「信」字の偏諱を受ける。 | ||
八 | 1580 | 正月頃、昌幸、沼田攻略の準備を開始す。 |
2月24日、昌幸、小川可遊斎の家臣を調略する | ||
3月、昌幸、小川可遊斎を降伏させ、小川城を攻略する。 | ||
5月、昌幸、駿河国の三枚橋城の普請の遅れについて、他の武田家家老とともに勝頼から叱責を受ける。 | ||
5月、昌幸、猿ヶ京城を攻略し、小川可遊斎を城将とする。この頃、名胡桃城(ナグルミじょう)も攻略し、海野幸光らを城将とする。 | ||
8月19日、北条氏政が隠居し、氏直が家督を継ぐ。 | ||
九 | 1581 | 8月、昌幸、藤田信吉を寝返らせ、沼田城を攻略す。 |
正月、新府城の普請が開始され、昌幸も普請に参加する。 | ||
3月14日、昌幸、沼田景義を謀殺す。 | ||
3月22日、遠江の高天神城が落城し、武田家臣団に動揺が奔る。西尾久作(仁左衛門)は 同城から逃れる。 | ||
6月7日、勝頼、「北上野郡司」真田昌幸に利根・吾妻郡統治の指針を与える。 | ||
11月21日、昌幸、海野幸光・輝幸兄弟を滅ぼす。 | ||
12月24日、勝頼、本拠を新府城に移転する。 | ||
十 | 1582 | 正月、木曽義昌が謀反す。 |
2月3日、織田勢の武田領 侵攻が始まる。 | ||
3月11日、武田勝頼、信勝父子が田野で自害し、武田家滅亡す。 | ||
3月12日、昌幸のもとに北条氏邦(氏直の叔父)から書状が届き、本格的な服属交渉に入る。 | ||
3月21日、上野の安中に入った織田信房が上野の武田旧臣に降伏を呼びかける。 | ||
3月、昌幸は織田信長に降伏し、岩櫃、沼田を滝川一益に引き渡す。 | ||
3月頃、昌幸は生母 河原氏と二男 信繁を滝川一益のもとに人質として送る。 | ||
4月8日、昌幸、織田信長に馬を贈り、服属の意を表す。 | ||
6月2日、本能寺の変、信長・信忠父子が自害する。「天正壬午の乱」が始まる。 | ||
6月13日、滝川一益が沼田城を昌幸に返還すると決定し、昌幸は請け取りの軍勢を出す。 | ||
6月19日、神流川の戦い、滝川一益は北条氏直に大敗し、伊勢に撤退する事を決める。 | ||
6月21日、昌幸、吾妻衆の湯本三郎右衛門尉を岩櫃城に入城させ、上野の旧 管轄地域を奪還する。 | ||
6月27日、清洲会議(織田氏の継嗣問題及び領地再分配に関する会議) | ||
6月28日、滝川一益、人質である昌幸の生母 と信繁を木曽義昌に引渡し、木曽谷通過の許可を得る。 | ||
6月?日、昌幸、上杉景勝に従属する。 | ||
7月9日、昌幸、上杉家を離反し、北条氏直に従属する。 | ||
7月25日?、昌幸は、海津城代 春日信達を調略するが 上杉家に見破られ、信達は 処刑される。 | ||
7月27日、加津野昌春(昌幸の弟 真田信尹)が上杉景勝を離反し、牧之島城から出奔する。 | ||
9月28日、昌幸、加津野昌春・依田信蕃らの説得に応じ、徳川家康に従属する。 | ||
10月、小県郡 及び吾妻郡で真田勢と北条勢が交戦する。 | ||
10月末、徳川家康と北条氏直間で和睦が成立する。上野は北条領と定められるが、昌幸は 吾妻 利根両郡の引渡しを拒絶する。 | ||
12月、北条氏邦攻撃により、上野の中山城が陥落する。 | ||
十一 | 1583 | 正月、小県郡において 武石の大井氏、丸子の依田氏が挙兵するが、昌幸は これを打ち破る。 |
2月、昌幸の生母 河原氏が徳川家康の人質となる。 | ||
2月、北条氏邦が箕輪城代となる。沼田領攻略の指揮官となり 4月から5月にかけて、沼田・吾妻を攻撃する。 | ||
4月、徳川家康が上田城の築城を開始する。その後 上田城は昌幸に譲られる。 | ||
4月、羽柴秀吉が賤ヶ岳の戦いで勝利し、柴田勝家を滅ぼす。 | ||
6月、徳川家康の娘 督姫が北条氏直に嫁ぐことが決まり(輿入れは8月)、両国の軍事同盟が復活する。氏政は家康に沼田領の引渡しを求める。 | ||
7月、沼田城を請取りに来た北条氏邦の使者を矢沢頼綱が切り捨て、頼綱が先行して 上杉景勝に従属する。 | ||
11月、秀吉、家康を通じて 北条氏直に「惣無事令」を通達する。 | ||
十二 | 1584 | この年、昌幸は いったん上杉景勝に降伏し、また背く。 |
3月、上杉景勝の支援を受けた羽尾源六郎が丸岩城・三原城(吾妻郡嬬恋村)を攻略する。羽尾城将 湯本三郎右衛門尉が応戦する(この時は真田の支配) | ||
3月、小牧長久手の戦いが始まり、秀吉が織田信雄・家康と衝突する。(11月の講和成立で信雄が秀吉に従属し、秀吉が天下人となる) | ||
4月1日、上杉家に従属していた屋代秀正と室賀満俊兄弟が家康のもとに出奔する。 | ||
7月7日、室賀正武が昌幸を暗殺しようと試みて返り討ちにあう。これにより昌幸は 小県郡を制圧する。 | ||
十三 | 1585 | 6月、昌幸、家康から離反して上杉景勝に従属する。景勝は 屋代氏の旧領の一部を真田信繁に与える。 |
7月11日、羽柴秀吉が関白になる。 | ||
7月15日、上杉景勝、昌幸に小県・吾妻・利根の三郡を安堵する。 | ||
8月、信繁が人質として 春日山城(上杉氏の居城)に赴く。 | ||
8月、第一次 上田合戦。昌幸・信幸父子は、徳川勢を撃退する。 | ||
9月、昌幸、上田城を上杉景勝に普請してもらう。 | ||
9月、北条氏邦が沼田を攻撃し、森下城が落城する。 | ||
10月17日、昌幸、羽柴秀吉に臣従を誓う。そして軍事支援の約束を得る。 |
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11月13日、家康の重臣 石川数正が秀吉のもとに出奔する。これにより家康は真田攻めを中止し、軍勢を撤退させる。 | ||
12月、天正大地震。この頃、昌幸は 佐久郡攻略の準備を進める。 | ||
十四 | 1586 | 2月、秀吉が昌幸に停戦を命じる。 |
4月、秀吉の妹 旭姫(44才)が家康(45才)に嫁ぐ。 | ||
6月、上杉景勝が上洛し、羽柴秀吉に臣従。秀吉は真田氏を家康の与力とすることを提示する。 | ||
7月、秀吉が家康による真田討伐を容認する。 | ||
8月9日、秀吉がみずから真田討伐に出陣すると表明する。 | ||
9月9日、羽柴秀吉が豊臣の姓を賜る。 | ||
10月、家康が上洛し、豊臣政権に服属する。 | ||
11月、上杉景勝の嘆願により、秀吉が真田昌幸を赦免する。この後、信繁、大阪城に出仕す。 | ||
十五 | 1587 | 3月、昌幸 上洛して、豊臣秀吉に臣従し、「豊臣大名」となる。 |
7月、北条勢の攻撃により、群馬郡の岩井堂城が陥落する。 | ||
9月、北条氏邦の家老 猪俣邦憲が箕輪城代となる。同じ頃、氏邦の家老 斎藤定盛が大戸城代となる。 | ||
十六 | 1588 | 4月、北条家臣 猪俣邦憲が権現山城を築き、名胡桃(ナグルミ)城攻撃の足がかりとする。 |
4月26日、昌幸が横尾八幡城の輪番を定め、吾妻郡の守りを固める。 | ||
7月10日、秀吉が関東 奥州国分けの上使を派遣し、「沼田領問題」の裁定に乗り出す。 | ||
8月、北条氏規(氏邦の弟)が上洛し、豊臣政権への服属姿勢を示す。 | ||
9月25日、北条勢の攻撃により、勢多郡の阿曽城が失陥する。 | ||
十七 | 1589 | 2月13日、真田信幸、家康に出仕す。 |
春頃、秀吉が「沼田領問題」の裁定結果を通達する。 | ||
7月21日、秀吉の裁定により 沼田城が北条氏直に引き渡される。但し、名胡桃城だけは 真田領として残す。 | ||
9月、秀吉、諸大名に妻子の在京を命じる。 | ||
11月13日、北条家臣 猪俣邦憲が真田領の名胡桃を攻略する(名胡桃城事件) | ||
11月23日、秀吉が北条氏直の非を弾劾し、出兵を決める(小田原征伐・関東征伐) | ||
十八 | 1590 | 3月、真田昌幸、北国勢(東山道軍)の一員として 上野に出陣する。 |
7月5日、北条氏直が降伏し、小田原城開城。(氏政、切腹。氏直、高野山にて謹慎) | ||
十九 | 1591 | 某月、沼田領が信幸に返還される。8月、信幸が沼田領で検地を実施。 |
文禄元年 | 1592 | 7月、文禄の役の動員令が出され、昌幸、信幸は 肥前の名護屋在陣を命じられる。信繁も馬廻として参陣する。 |
二 | 1593 | 8月3日、豊臣秀頼が生まれる。 |
三 | 1594 | 3月、伏見城普請が始まり、真田家も動員される。 |
11月2日、信幸が従五位下、伊豆守。信繁が従五位下、左衛門佐に任じられる。 | ||
四 | 1595 | 7月15日、関白 豊臣秀次が高野山で自害する。 |
某月、信幸の長男 信吉が誕生する。 | ||
五 | 1596 | 閏7月13日、慶長伏見大地震、伏見城の天守も倒壊する。 |
慶長二年 | 1597 | 2月、慶長の役が始まる。 |
11月、信幸の次男 信政が誕生する。 | ||
三 | 1598 | 8月18日、豊臣秀吉没す(62才) |
四 | 1599 | 閏3月3日、五大老の一人 前田利家没す。翌日の「七将 襲撃事件」により、石田三成 失脚す。 |
五 | 1600 | 6月、五大老筆頭 徳川家康が会津の上杉景勝 討伐に出陣する |
7月、石田三成が大谷吉継を誘って挙兵する。17日、大老 毛利輝元が大阪城に入り、家康の弾劾状が出される。 | ||
『犬伏の別れ』。真田昌幸・信繁は 西軍に、信幸は 東軍につく。 | ||
9月3日~8日、第二次 上田合戦。昌幸は 徳川秀忠の足止めに成功する。 | ||
9月15日、関が原で西軍、敗れる。信繁の義父 大谷吉継が討死する。 | ||
12月13日、昌幸・信繁父子、上田城を徳川方に引渡し、高野山に配流となる。その後、山麓の九度山に移る。上田領は 信幸に与えられる。 | ||
六 | 1601 | 真田信幸が信之に改名する。(信幸は昌幸・信繁の助命を嘆願し、西軍に付いた父との決別を表すために、名を信幸から信之に改めた) |
七 | 1602 | 真田信尹(信昌)・(昌幸の弟)が徳川家に帰参し、甲斐で所領を与えられる。 |
八 | 1603 | 2月12日、徳川家康が征夷大将軍となり、江戸に幕府を開く。 |
十 | 1605 | 4月16日、徳川秀忠が征夷大将軍となる。 |
十六 | 1611 | 6月4日、真田昌幸が九度山で没する(65才)。 |
十八 | 1613 | 6月3日、昌幸の正室 山之手殿が没する。 |
十九 | 1614 | 5月5日、信繁の二男 大八、京都にて夭折。 |
10月、信繁(幸村)が九度山を脱出し、13日に大阪城に入る。信繁、真田丸を築く。 | ||
11月、大阪冬の陣が始まる。 | ||
12月4日、真田丸の攻防。信繁は 前田勢の他、徳川方を撃退する。 | ||
12月11日、家康が信繁を寝返らせる為、叔父 真田信尹に命じ、万石大名に取り立てるので、大阪城を出るように折衝させるも、拒絶される。 | ||
12月19日、講和が成立し、冬の陣が終わる。真田丸をはじめ、大阪城 二の丸、三の丸は 破却される。堀も埋め立てられ、大阪城は 丸裸になる。 | ||
元和元年 | 1615 | 3月19日、信繁、姉婿 小山田茂誠に「私の事等は最早浮世にいる者とは思わないで下さい」と書状を送る(現存している最後の書状) |
4月、大阪夏の陣が始まる。 | ||
5月6日、道明寺の戦い。 | ||
5月7日、信繁、天王寺口で家康本陣を数度急襲するが、越前藩士 西尾仁左衛門に討ち取られる(46才)。 | ||
同日、豊臣秀頼、淀君が自害し、豊臣家が滅亡する。近侍していた真田大助も秀頼に殉死(14才)。 | ||
同日、信繁の三女 阿梅、伊達家の重臣 片倉重綱(重長)に乱取(略奪)される。後、重長の後妻となる。保護されたとする説は 間違いです。 | ||
二年 | 1616 | 4月17日、徳川家康が没する。 |
同年、真田信之、本拠を沼田から上田に移したとされる。又、嫡男 信吉が沼田藩主となる。 | ||
五年 | 1619 | 9月25日、信之の室 清音院殿(信綱の娘)が没する。 |
六年 | 1620 | 2月24日、信之の正室 小松殿が没する(48才)。 |
八年 | 1622 | 10月、信之、上田から松代10万石へ加増 転封となる。沼田領は そのまま。 |
九年 | 1623 | 7月27日、徳川家光が征夷大将軍となる。 |
8月18日、家老 出浦昌相が没する。 | ||
参考資料:真田幸村、人物往来社(著、小林計一郎)/真田四代と信繁、平凡社(著、丸島和洋)など。
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