ルーツ を探る

自分のルーツ(先祖)を探すには 地元の役所で 除籍謄本をとりましょう。

保管期間は 役所によって多少ちがいますが約80年です。

両親2人、祖父母4人、曾祖父母8人、高祖父母16人、その前32人ぐらいの名前がわかります(うまくいけば)。

また その全ての姓(血の繋がりのある尊属)の除籍が請求できます。父系も母系も、代を遡って除籍が有る限り遡れます。

除籍に記された本籍を次々にたどって行けばルーツに近付くと思います。

又、転籍していれば、転籍元に除籍を請求しなければなりません。 もっと詳しい除籍謄本について。

別の方法としては 檀家になっているお寺の過去帳を見せてもらうことです。

死亡年月日、俗名、戒名が記されていますので お寺さんが暇な日時にお願いしましょう、彼岸、盆、仏滅の日は はずしましょう。

友引の日は 告別式は無いので その日が平日なら暇と言えますが、暇を利用して 何か別の用を入れている場合も有るので

必ず 住職の都合を聞いてください。

又、分家なら 本家或いは 宗家に尋ねることも重要です。

尚、お住まいの ご近所に同じ姓(名字)の家が多数あった場合に どの家が一族か、と云う事になりますが

家紋が同じこと、菩提寺が 同じ事、もし 違っても 宗派が同じ お寺である場合が極めて多いです。

又、墓石を読む場合は 石も風化していると思うので、水をたらして読むか、赤外線カメラで撮るかする。

尚、ルーツの代数の呼び名は 本人を中心に考えた時に その子、その孫、曾孫(ヒマゴ・ソウソン・4代)、5代は玄孫(ヤシャゴ・ゲンソン)

6代は来孫(キシャゴ・ライソン)、7代は昆孫(コンソン)、8代は仍孫(ジョウソン)、9代は雲孫( ウンソン)と言います。

孫をマゴと言った場合は 3代目ですが、単に「ソン」といった場合には 子孫と云う意味です。

尚、江戸時代は 武士以外は 名字を持っていなかったと云う事は 事実ではありません。

2000年頃であったか 以下のような記事が新聞に載りました。

「元早稲田大学教授の洞富雄氏が、長野県東筑摩郡北村の硯水寺で、驚くような資料を発見した。
同寺が天明三年(1783)と文化十三年(1816)に、本堂を再建するために、付近の農民から寄進を募った。そのときの寄進者の氏名が
勧進帳に記載されているのだが、何百人という農民のすべてが、自分の名字を書いていたそうである」と。
 

さて、ルーツに関しての情報ですが

そもそも日本人はどこから来たのかと言うと、大陸と地続きの頃、朝鮮半島から来た。天皇も含めて、皆、渡来人と言えます。
ネットが発達した現在、渡来人と言う言葉は、死語になっています。
「 私は秦の始皇帝の子孫だ」と誇りにしている秦さんもいます。彼らは名族です。日本人のルーツに関するニュース(日経新聞)。

尚、現代人のルーツは、昔々のその昔、アフリカで木から下りた猿から始まります。その猿がヨーロッパ大陸、ユーラシア大陸と
伝わってきた訳で、 人類 皆 兄弟と言う事になります。
最近は「アフリカだけとは限らない」と言う説が出てきたようですが。

大和朝廷の頃の姓(カバネ)のルーツに関して

天武朝に制定された八色の姓、と言うのが有ります。@真人、A朝臣、B宿禰、C忌寸、D道師、E臣、F連、G稲置(イナギ)

今でも 稲置を名字としている方は その稲置に関係しているものと思います。


四氏(源平藤橘)に次ぐのは在原、清原、菅原、大江、紀、惟宗(コレムネ)である。

在原のルーツは 平城天皇の後胤で 在原業平(平安初期)が有名である、

清原氏のルーツは 奈良から平安時代に 天皇の後胤及びたくさんの豪族が 清原真人を賜ったことによる。特に有名なのは

元輔 及びその娘 清少納言

菅原のルーツは 大和国の他 諸国にある菅原の地名による。有名な菅原道真は 出雲国の豪族 土師氏の祖である野見宿禰(のみのすくね・

古墳時代)を祖とすると云う。桓武天皇、道真の曽祖父・古人(フルヒト)に菅原宿禰、菅原朝臣を賜う。

大江のルーツは 多くの大江さんは 諸国の大江の地名より称す。有名なのは 大江広元(鎌倉時代の政所別当)である。

平城天皇の後裔と称する説もあるが、実は、10代前の音人(オトヒト)について公卿補任に「大枝音人、先祖 本姓 土師、延暦(の頃)

天子の外戚を以って、改めて大枝となす。音人に至って 枝を改め、江となす。左京の人」とあり。

よってルーツは 菅原氏と同じ、代々朝廷の文章博士となり 菅原氏の衰えに代わって大江氏が栄える。

紀のルーツは 一つに定められませんが、多くは 神武天皇・即ち、神話の世界〜古墳時代に紀国(和歌山)の豪族・紀国造が諸国に

散らばったものと思われる。そして、奈良 平安の時代に宿禰 或いは 朝臣の姓をもらい、その子孫が 紀氏を名乗るものなり。

有名なのは 平安の歌人 紀貫之なり。

そのルーツも 紀国造から始まり、武内宿禰(古墳時代の人)を経て 紀朝臣を賜り、大和朝廷の時代に至ります。

尚、岩清水八幡宮の祠官は 紀姓の人が多い。

惟宗のルーツは 秦の始皇帝の子孫 秦氏の19人、姓を「惟宗朝臣と賜う」と元慶七年(883年)の書物にあり。以後 時の流れと共に

近隣諸国に繁茂するなり。

特に有名なのは 惟宗忠久なり、鎌倉時代の初め、近衛家の荘園である鹿児島の守護職に補せられ、子孫 世襲し、庄名により、

島津氏を称す。忠久は 筑後守 惟宗広言の子である。源頼朝の子ではない。実子であれば 北條氏に殺されていたであろう。

頼朝の子 頼家、実朝のように。尚、建久八年十二月の政所下文には「右兵衛尉 惟宗忠久」とあり。よって 島津のルーツは 

清和源氏ではない。しかし、島津は 徳川三百年、及び 明治の維新に功あるにより、一般的には清和源氏と云う。

即ち、そのルーツは 清和天皇と なっている。

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尚、名前の参考として

長男を太郎、太郎の長男を小太郎、小太郎の長男を 又太郎のように呼ぶのは、中世の武士ではよくあったようです。

 

埋葬の件

江戸時代及び それ以前は 自分で勝手に埋葬できました、

しかし、●自葬の禁止 − 明治5年6月28日自葬が禁止され、これ以後の葬儀は 神官または僧侶に依頼することが決められた。
尚、土葬が禁止されたのは 市町村によって 異なりますが 昭和の戦後の事です。


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