名字 |
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解説 |
肥後国菊池郡より起こる、和名抄に久久知と註す。 安倍氏の族なる久々智氏と縁故あるべし。 菊池 菊地もククチ(くくられし細い土地)より転ず。 |
ここでは 肥後の菊池氏について記します。
菊池のルーツは 諸説あり、 即ち、藤原隆家流説、藤原伊周流説、藤原隆宗流説、紀氏説、九州の土豪説、等々。主な説でも5つ有り。
しかし、
家系大辞典の著者 太田亮 大先生は、の発祥初期の家紋は、「鷹の羽」ではなく、 「日足」であるからして、高木、大村、草野と
同族にして 大宰府官たりし 紀氏である」と結論づけております。
大村については
藤原流 大村 - - 「肥前大村氏は 明白に大村直の後にして、後に紀朝臣と云い、藤津庄の庄官にして、又 彼杵郡の郡領を世襲し、
更に 彼杵郡が摂関領となり、再転して、東福寺領となるや、一族多く其の地頭たり。これ大村伝説に、
藤津 彼杵 二郡の地頭と伝えるものにして、その証拠後文にあり。然るに大村氏は、菊池 高木などの諸氏と
同様、後世 と云い、途中 関白の後裔と伝え、更に戦国の頃、有馬氏(古くは平姓)より養子するや、
その系と混淆して
藤原純友の後裔と称するに至れり」と。
草野について
藤原北家道隆流説 -
- 観興寺所載
草野系図に
「道隆(中関白)-伊周-隆家-文家-文時(権中納言、太宰府に流さる)-文貞(高木肥前守)-永経(草野武井城主
元祖)」と。
藤原北家中関白流 -
-
太宰管内志に
関白道隆-太宰帥文家(隆家)-太宰帥文時-中将文貞-太宰大貮季貞┬貞永(筑前守)-宗貞-宗家(高木大夫、肥前守)と。 |
-家久(従五位下、左衛門尉、上妻と号す)┬隆定(従五位下)
├隆則┬経家
│ └則隆(号
)
└政則
└隆家(太宰権帥)┬良頼
└正則(対馬守)-則隆(大夫将監)
└政則(被流筑前国、対馬守)
藤原政則は 大宰府の府官の名簿に無く、政則と蔵規が同一人物と言う証拠もありません。
仮に同一人物でも 僅か、一代遡るだけで その先は 全く不明です。
勿論、志方先生も 菊池則隆、或いは その父とされる政則は 藤原隆家の子ではない、と主張しています。
その部分は 正しいと思いますが、志方先生にも間違いがあると思われる部分があります。
志方先生は 刀伊 撃退による恩賞名簿に藤原政則、或いは蔵規の名前が無いことについては、
「督軍の地位にあった以上、先にしるした奮戦有功の将士の中に、彼の名の見えないことは 当然であって、しかも それらの人々が、
殆ど、前府官、或いは 下級官であることは 注目されて良い」と記しています。
しかし、同じ地位にいた「少弐で
平致行」は 戦功者の中に入っており、その部分は 当を得ていないものと思います。
只、蔵規の名は 小右記や御堂関白記の中には 見えます。しかし、両書共に名前だけで藤原の名字は記されていない。
明治以後出された小右記の解説本等は 推測を入れて、カッコを付けて 藤原の名字(氏、姓)を表示している。
尚、
日本紀略には 藤原蔵規、太宰大監(長和四年・1015年)と、あることはあります。
又、鎌倉時代に記された「除目大成抄」によると 藤原蔵則は 刀伊 撃退の恩賞として 「対馬守」となっております。
はたして 蔵則は 則隆の父なのか、と云う事ですが、
肝心の則隆は 春記(藤原資房、1007~1057年)には 藤原則隆と名字も記されているが、この則隆は 平則高とも記されており、
中央の摂関流の藤原一族の間では よく知られていないことが分かります。
藤原則隆が摂関流の一族なら名字、名前を間違えられることは 有り得ません。春記には はっきりと「隆家の郎頭」と記されております。
従兄弟や又従兄弟 どうしで 結婚している環境では 同族の情報は あっという間に伝わり、一族であれば 名字を間違えることは 絶対に無い。
春記を書いた資房の先祖(実頼)と 隆家の曽祖父(師輔)とは
兄弟の関係である。よって、則隆は 隆家の子でない事は明白である。
勿論、室町時代初期の菊池武朝申状にある「中関白道隆四代の後胤」と、あるのは 間違いであることは言うまでも有りません。
あとは ①藤原則隆父子が1000年前後に既に大宰府近辺に土着していたのか、或いは ②平安時代初期に、いわゆる藤原氏から分かれた子孫が平安時代の
中期に京都から大宰府近辺に下り、藤原隆家の郎頭に なったのか、と言うことでしょう。
そして、大宰府近辺から肥前に移り、肥後に移って 菊池を称したものと思います。
しかし、②の公家が 隆家と共に大宰府に下ったとしても 「刀伊の入寇」に際して 外国軍隊(海賊・武装集団)を撃退できる能力があったか。
と云う事になります、刀伊の賊は 「兵船五十余艘」ですから、船に30人乗っていれば 1500人、50人なら2500人の集団となります。
血を見て驚いてしまう公家さんが 薙刀、槍を振り廻す、ましてや、兵士の棟梁になれるわけが有りません。
しかも、バックに足利家を一族にしています。
それらを考えれば ②は 無くなります。50年、70年以上前には 大宰府近辺に土着していた、と云う事です。
尚、藤原則隆の先祖は 家紋等から分析すると「紀氏」となります。
さて、 及び 藤原政則を家紋からルーツを探ると
上記 上妻の系図で分かるように 政則の祖父 隆宗は 家紋を桧扇を使用していたことになります。
*桧扇は 日扇と記す場合あり。
国史に「則隆の6代の孫
隆直、出陣の時、霊鷹冑に止まり、羽毛二枚を落とす。故に取て吉瑞を祝し、揃鷹の羽を紋とし、違鷹羽に改む」とあり。
平安末期に家紋が変わりました。
又、一本菊池系図には 源為朝に仕えた肥後守隆直の時に鷹羽紋を使用していた事が記されている。
菊池風土記によると 改紋は 1185年とのことです。これは平安末期であり 合致しています。
これにより何がわかるかと言うと、政則の子 則隆の頃は まだ「日足・桧扇」の紋を使用していたと言う事です。
桧扇の紋は 九州に渡った「紀」の紋です。見聞諸家紋には 「紀氏 (稙田衆)」とあり。
稙田衆とは 豊後国大分郡稙田郷、後の稙田(ワサダ)荘に住んだ紀を指す。植田と間違って記す書物あり。
政則が藤原隆家 或いは その一族の子供であれば 「藤」の紋、或いは 藤原の嫡流 近衛の牡丹紋を使用していたはずです。
最高貴族の家紋を変えるとは 考えられません。
と言うか、藤原を名乗ることは 許されても 同じ家紋を使うことまで許さない場合があるのです。
今風に言えば 「名字は まねても 家紋は ダメだよ」、と言うことです。家紋まで許しては 郎党が摂関家の一員となってしまうからです。
尚、勿論、紀貫之などもいる「紀」も 一流の名族です。
又、当時から千年を経た平成の時代には「紀」を名字とする家は 500軒もなく、千鹿野先生が著わした「家紋総鑑」には紀で日足を使用している家は 載っていませんが
菊池を名乗り「日足」の紋を使用している家が載っています。家紋総監の797ページ(十二
日足、十六 日足の菊池さん)(「八つ日足」の草野さん等)。
これらの菊池さんは
平安時代に「鷹羽」紋に変える前に先祖が 分かれた家の子孫と思われます。
又、「扇に鷹羽」のさんは、本家が使用していた桧扇の紋の一部を残し、鷹羽を加えたものと思われます。(121ページ)。
昔の名族の子孫は 先祖の痕跡を残すのが慣例となっておりました。やはり名族 上杉氏は 源流である藤原の痕跡を残した家紋を使っています。その例。
よって 家紋からすると 政則は 「紀」です。菊池の先祖は
紀氏である。
高木、草野、大村、上妻、宇土などは 菊池の一族です。
又、同族である「宇土」は、中関白 道隆の後裔と伝えられているが、建久6年3月文書に「宇土権介紀朝臣 判」とあり。
に連なる同族の子孫が 言い伝えを基に 明治になって 系図を作っているから 皆 中関白を絡ませた系図になり
電話も無い時代ですので その整合性が取れておらず 皆 微妙に違うものと思う。
言い伝えよりも
当時の石碑、古文書、当時の縁起が 正確なのです。これは1億人のルーツを手がけてきた鎌足
孫45代の実感です。
『菊池風土記』は 1794年の渋江公正の作であり、藤原隆家が生きた時代から8百年が経過しています。
そして更に後世の人が それを基に系図を作れば 可なりの誤りが生まれます。
その証拠に、政則の父に関して 複数の菊池系図、と同族の高木、大村、草野、上妻系図など それぞれ違う。
同族でありながら これは おかしなことである。
又、鹿児島市立の西郷南洲顕彰館 館長が提示された菊池系図は 政則の父は 隆家の子 経輔になっています。
藤原隆家の子である経輔にも正則と言う子もいない。勿論、文時、政則と言う子もいない。
正式な藤原系図には 経輔の子は 9人いて、師信、長房、師家、師基、家平、 増誉、仁恵、璽覚、隆観である。
そして、二男の政則(対馬守)は「被流筑前国」と記されています。長男は 文時で 「被流大宰府」と記されております。
いくつかある系図のそれぞれが 異なる。菊池系図自体でも 諸説があると云う事であり、同族の系図が違うのも 当然である。
尚、東京大学史料編纂所が出した「読史備用」には ミスプリがあります、例えば830ページの清少納言の父「元輔」の父を「顕忠」と記されているが
正しくは 「春光」である。この間違いは 同時代に藤原元輔という人物がおり、清原元輔と全く同じ字の人が居た為である。
の先祖のミスプリも、 諸説あることから その一説を採用したに過ぎず。
専門書は 3つ、4つを照合すると 正解が得られるというものです。勿論、姓氏家系大辞典にもミスプリはあります。
さて、を古文書などから ルーツを探ると
延久4年(1072年)、藤原則隆(菊池家初代)が創建した菩提所 円通寺(菊池市)縁起には 則隆を「鹿島大夫将監則隆」と載す。
これについて 姓氏家系大辞典の太田先生は
「しからば この人は 肥前鹿島の人にて、益々 高木、大村氏と同族なるを推すに足るべし。けだし、これらの家は
大宰府 府官たりし、紀族にして、肥前より起こり、の祖は 肥後に移りしもの。従って、それより前、《天慶の頃、肥後国司となり、
七大社を造建し、七大寺を草創せし》と伝えられる《尾藤少卿 紀隆房》とも関係あり。殊に円通寺より一層菊池氏と関係を有する輪足山東福寺
の縁起にも《天慶元年、国中を勧進しければ、時の国司 尾藤肥後守隆房、大檀那となり、ついに大願成就す》と。
而して が最初の通字なる隆の字(則隆、政隆、保隆、経隆)は、この隆房の隆をうけしものと考へべし。
而して 菊池氏が その実 紀なるに藤原氏と云うに至りしは、隆房が既に明白に紀姓なるに関わらず、その称号を尾藤と云いて、既に
藤原姓を冒せしに起因すると考えらる。然らば 後にが その祖と云う道隆、隆家など云う人は、その実、この隆房に当たるべし。
尾藤少卿の少卿なる語は 太宰少弐の唐名なり。蓋し、太宰府官たりし紀氏が、何らかの縁故によりて藤原姓を冒し、肥後に移りて
肥藤と称せしを、後に尾藤と書きしものか。尚、少卿は 少弐の唐名なれど、その実、隆房は
少監程の人にて、肥後国司となりしものなるべし」と記しています。
尾藤は 紀氏の祖である武内宿禰の生母である黒尾大明神(武雄市朝日町中野黒尾にあり)の尾と、その後 興った藤原氏の藤から来ると考えられる。
或いは 鷹尾八幡宮(今、福岡県柳川市大和町鷹の尾)の「尾」に関係し、平安中期に藤原を称し、子孫が大宰府と関係を持ち、
京都から藤原隆家が太宰の帥として 赴任した時に多いに活躍し、郎党になり、則隆の時、第一の者と認められ、やがて、
肥前鹿島の将監となり、更に後年、肥後に移ったものと思われる。
*鷹尾八幡宮は 紀氏と関係の深い神社である、中央から 紀公昌が下っております。
「康和元年 江波大納言の男少将 紀公昌 大宮司職となり、山門郡を監す」と伝う。
*円通寺については
円通寺は、延久年間(1069~74年)に初代の菊地則隆による創建と伝えられています。
寛文7年(1667年)に著された「円通寺中興記并縁起」では、円通寺の創建について次のように書かれています。
「天長4年(827年)、淳和天皇が霊夢によって京都に大宝山円通寺を建立、正暦3年(992年)に一条天皇が愛宕郡に移しました。
そして、延久2年(1070年)に則隆が同寺を参詣したところ、その荒廃に驚き、肥後国に移すことを朝廷に願い出ました。
朝廷の許しを得た則隆は、本尊と僧侶をともない肥後国におもむきました。翌年、則隆の子・経隆が中心となって郡岩本村に建立し、
京都円通寺にならい十二坊を築きました。寺領として岩本荘が寄進され、代々の信仰を得ました」と。
又、江戸時代に編纂された「肥後国誌」は、延久年中に菊池則隆が同寺を創建したと記し、開山については不明としていますが、恵顯法印による
開山との説を記載しています。
の保護により栄えた円通寺でしたが、菊池が衰退し、戦乱が長引くにつれて荒廃し、わずかに観音堂が残るのみとなりました。
江戸時代になり、寛文7年(1667年)に竜田山泰勝寺(臨済宗)二世の春山座元が再興し、泰勝寺の末寺としました」と。
以上の事等を考慮すると、都との繋がりがある則隆らは 既に大宰府近辺に土着しており、肥前に移り、その後、肥後に下ったものと思われる。
尚、菊池市の市史の系図にも 矛盾があります。
その系図と 1019年の刀伊の入寇時の人物が違います。
風土記所載菊池系図の経隆の譜には「若宮、三郎、肥後守、寛仁年中 異賊襲来の時、紫糸鎧弁笠を着、白葦毛の馬に乗り
博多警固松原を打望み、防戦の時、賊の大将網?箭鋒を畏れず、仍りて 足裏を射て討ち取り、九州兵の頭となる。因りて宣旨を下され
錦旗を賜い訖る。出田村に於いて 若宮と崇尊し、之を祭る」とあり。
これによれば 異賊を撃退したのは 「経隆」となります。
尚、寛仁年中となると 1020年頃と言うことになり、「経隆」は既に 若武者であり、その爺さん(政則)は 950年頃に生まれていることになります。
菊池風土記の中にも矛盾 或いは ミスプリがあります。
そのミスプリと思われる事について
市の観光協会から以下のような回答を頂いております(2013年8月9日)
『菊池風土記』の記述は 経隆で間違いないが、その内容は事実と異なる、という考えに至ります』と。
以上に記したように 政則は「紀」であるが 既に紀隆房が尾藤とし 藤原を称しているわけですから 政則は 藤原政則で 良いと思います。
しかし、隆家-道隆と 遡る系図を作るのは 誤りです。 勿論、菊池氏流と云う西郷隆盛は
鎌足に遡るはずがありません。
文責 藤原鎌足 孫45代 藤原三能。2013年11月10日記す。
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