春記(1040年4月13日の藤原資房の日記)
前の肥後国司(藤原定任)殺人事件の嫌疑の件。
これを訳すと以下のように記されています。 4月13日、晴れ、女房、 帝の食事時、給仕せず、よって 私(資房)が奉仕した。今日 初めて平服を着た。 【朝早く、(左衛門権佐・平)定親は 仰せに依り公成の許へ向かった。しばらくして定親が帰参し奏上して云うには、「別当(公成)が奏せしめて云うには、 『定任の後家(の周辺)に嫌疑の一両人がいる。肥後の前司・後司の間で(何らかのトラブルがあり、殺害した)理由がある。 (そのトラブルの結果)皆、殆ど合戦に及んだ。この事に依り、新司である(源)為弘は、かの国(肥後)の人物である平正高に語り付け、 (正高)を上洛させ、その時に定任を殺したのか。すでに その疑惑が有る。件の正高は、平則高(五位)の子である。 件の父子は(太宰の権帥・藤原)隆家の郎頭である。この度、運上物の押領使として上京 云々』】と記されております。 この日記を書いた資房は、藤原則隆の事を「平」と記しており、これは 摂関流の一族でないことが分かります。一族であれば名字を間違えるわけが有りません。 名前も蔵隆を正高、則隆を則高と簡単な文字で記している。 尚、「正高は、平則高(五位)の子である」と親子の関係に言及しているところを見れば、隆家の子であれば 「郎頭(郎党)」でなく、「隆家の子」と記されるはずである。 この二点からして 則隆は、藤原隆家の子である経輔の子でもなく、 |
NHKエンタープライズの漢詩紀行100選には 間違い 及び不適切な部分が多くあり。
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