白石市の当信寺にある真田幸村の娘・阿梅の墓と 真田大八と云われている墓石について

真田阿梅の墓 片倉守信の墓

白石市の当信寺にある 真田幸村の娘 「阿梅の墓と大八の墓」。実は 大八は 早世しているので右側の墓は 大八ではない。

右上の画像の左下には「片倉四郎兵衛守信」と彫られている。その画像が以下です。石は 語っています。

四郎が何故、二男 大八なのか。片倉二郎兵衛なら矛盾もないが四郎と云う事なので これは全くの別人です。

江戸時代の古文書 「伊達世臣家譜」には 「政信の子 守信」と記されています。

守信が亡くなった頃は 幸村は有名になり、片倉重長も六連銭の家紋を付けるほど誇りにしていた頃なので、

石に「真田の文字を入れられなかった」と言う説は間違いです。まだ真田に復していないから片倉なのです。

大正14年に出版された「白石町誌」には、阿梅の事は 記されていても 「大八の墓有り」とは 記していない

そもそも 大八は 真田の正史 及び 蓮華定院の過去帳に「夭折」となっていて、竹林院が捕縛された時に満三歳の子は 居なかったのです。

当然、三歳では 母親と一緒にいたはずです。また、例えば、阿梅が略奪された時に大八が居たとしても お荷物になる男の幼児では

手間ばかりかかり 何の役にも立たないので 捨て置かれた事でしょう。十五六の娘となれば、負傷した将兵の傷の手当をするとか、何かに役立ちます。

当然、敵の大将の息子となれば、生かされるはずがありません。「保護されて仙台に生きた」とは 全くのデタラメです。

それでは 何故、由緒正しい当信寺が 案内板に「大八の墓」としたのか。

それは 真田幸村は 江戸時代及び明治時代の 講談本(フィクション)に色々とりあげられました。

そして 大正時代になり 大正のベストセラーとなった立川文庫の講談本(フィクション)により 広く 国民に知れ渡りました。

それらの講談本を読んだ文豪 幸田露伴は「こうデタラメだと、いっそう おもしろい」と述べた。

大正時代は まだ真田の正史や片倉代々記が公開されていなかったので 大八死亡の事実が伝わっておらず、講談本によるフィクションにより

守信の子孫等が間違えてしまった。

そして 昭和8年の「仙台人名大辞書」へと繋がっていきました。問題は 当辞書の著者は 家系の学者でもなければ

国文学者でもなかったので 辞書に載せるべき内容が真実なのか、フィクションなのかの区別が付かず

結果として 「こうデタラメだと、いっそう おもしろい」と云う内容が載ってしまったと云う事です。

そして いつしか、蔵王町、当信寺等も フィクションを基にした墓の案内に至った。

しかし、2,016年秋、ドラマ真田丸により 研究が進み、当信寺の看板が訂正されました

町や お寺の情報を根拠として  「ニセ者がニセ物を有料展示」に使っているのは 誠に遺憾な事です。

 当然の事ですが、守信は 幸村夫婦の子供らしいことを何一つしていません、

親父の墓を建てていなければ お袋の位牌は 嫁に行った阿梅が引き取りました。壮年になった 伊達藩士が見て見ぬ振りをするはずがありません。

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国文学者でもあり、日本家系図学会の会長でもあった 丹羽基二 先生は 幸村の男系絶えた、と 記しています。

即ち、大八と 片倉守信は 別人です。

以下は家系には 関係ありませんが NHKがらみの件です。

日本の漢文の権威で 教育テレビ(以前の 3チャンネル)の講師が監修した本の間違いを訂正させました。
今も都内の御茶ノ水にある湯島聖堂(幕府直轄の学問所)にて 漢詩の講義をしています。


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