西郷隆盛のルーツ
結論から言えば 西郷隆盛の江戸時代初期から室町時代の先祖の名前が定かではありません。
ウイキペディア等 複数のサイトの系図は 間違った情報を元に作られています。
何故ならば 「西郷隆盛の甥である西郷従徳(親父は元老で元帥 海軍大将、従兄弟の大山巌は元帥 陸軍大将)が
当時の人脈を駆使して ルーツを調べさせたが室町 鎌倉と遡ることは 出来なかった」と。
隆盛の地元である 鹿児島県の西郷南洲顕彰館 の館長から回答を得ています。2013年6月19日。
当の家族及びその子孫が調べて分からない事が どうして あかの他人がわかろうか。
尚、隆盛は 奄美大島に流された時、菊池源吾と名乗りました。これは自分の源はと云う意味が入められています。
要するに「島津に仕える前が不明な菊池流の西郷氏」と言うことが正しいものと思います。
この菊池の初代は 菊池則隆です。その則隆の父 政則の父が誰なのと云う事です。
政則の父については 太宰の権帥 藤原隆家と云う説があるが、と同族である 高木、大村、草野など、それぞれで
政則の父が違っている。鎌倉、室町時代のそれぞれの子孫の方が 独自の系図を作ってきたので それらが昭和の時代に伝わってきました。
しかし、それらの時代の子孫の方が平安時代の当時の古文書を見ていれば そう言う独自の系図は 作らなかったと思います。
勿論、さつまの姓氏の著者 川崎大十 さんも、この春記を見ていれば のルーツを藤原隆家に繋げることは無かったと思います。
京の都から遠く離れた九州の地にいては その春記と云う古文書の存在自体を知るはずもありません。
その春記によれば 則隆は、藤原隆家の子でなく、郎党と言うことが ハッキリ分かります。隆家に繋いで鎌足に遡る系図は誤りです。
要するに菊池氏は 「紀氏改めの藤原さん」です。これは島津氏の「惟宗 改めの源氏」と同じです。
春記(1040年4月13日の藤原資房の日記) |
前の肥後国司(藤原定任)殺人事件の嫌疑の件。
これを訳すと以下のように記されています。 4月13日、晴れ、女房、 帝の食事時、給仕せず、よって 私(資房)が奉仕した。今日 初めて平服を着た。 【朝早く、(左衛門権佐・平)定親は 仰せに依り公成の許へ向かった。しばらくして定親が帰参し奏上して云うには、「別当(公成)が奏せしめて云うには、 『定任の後家(の周辺)に嫌疑の一両人がいる。肥後の前司・後司の間で(何らかのトラブルがあり、殺害した)理由がある。 (そのトラブルの結果)皆、殆ど合戦に及んだ。この事に依り、新司である(源)為弘は、かの国(肥後)の人物である平正高に語り付け、 (正高)を上洛させ、その時に定任を殺したのか。すでに その疑惑が有る。件の正高は、平則高(五位)の子である。 件の父子は(太宰の権帥・藤原)隆家の郎頭である。この度、運上物の押領使として上京 云々』】と記されております。 この日記を書いた資房は、藤原則隆の事を「平」と記しており、これは 摂関流の一族でないことが分かります。一族であれば名字を間違えるわけが有りません。 従兄弟や又従兄弟 どうしで 結婚している環境では 同族の情報は あっという間に伝わり、一族であれば 名字を間違えることは 絶対に無い。 春記を書いた資房の先祖(実頼)と 隆家の曽祖父(師輔)とは 兄弟の関係である。よって、則隆は 隆家の子でない事は明白である。 名前も政隆を正高、則隆を則高と簡単な文字で記している。身内で無いので文字の当て字は よくあることです。 尚、「正高は、平則高(五位)の子である」と親子の関係に言及しているところを見れば、隆家の子であれば 「郎頭(郎党)」でなく、「隆家の子」と記されるはずである。 この二点からして 則隆は、藤原隆家の子である経輔の子でもなく、 |
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