無理に藤原氏にしてしまった菊池系図

 

この系図は 何を基に作ったのであろうか。書いた人は大正時代前後に生まれた人です。何故ならば 戦前の旧字と 新字が まざっているからです。

隆家の隆は旧字であり、その隣の道頼のヨリは 新字です。旧字は であり、その漢字のつくりである右上は 刀、新字は単に頁。

又、以下の菊池氏の代々の紹介ページを見ると

http://wwwc.dcns.ne.jp/~m.t-kiku/kikuchisinosyokai.html

初代 則隆の父は 藤原政則となっていますが、その政則は 藤原隆家の子として 997年に生まれていることになっています。

隆家は 関白 道隆の子であり、道隆の弟は 関白 道長です。

その有名な関白家 道隆の子 隆家の家系図には 政則は 載っていません。

菊池系図には 出ているが 日本の中央の系図には 出てこないと言うことは 「どちらが正しいか」と云う事になります。

しかも、隆家の子には  経輔の他に長男 良頼がいて、中納言として 政治に参加しています。

その良頼が生まれたのは 1002年です。しかし、政則は その前の997年に兄貴として生まれていることになっている。

関白に繋がる家の長男誕生となれば 当然 政則は 家族からも 周りの人からもお祝いなど それなりの扱いを受け、系図に載るのは 当然である。

しかし、中央の系図にはない。戦国時代なら 力関係で 長男が どこかに人質に出されることは あるが、当時は 貴族社会であり 摂関家の権力は 揺るぎがない時代です。

又、武士の時代でもないので 側室の子でも どこかに人質に出すことは 考えられないし、隠し子とする必要も無いし、ラジオも無い時代であり、遠方からのニュースも無く

小さな情報も たちまち 話題になり、天皇にも 伝わる時代です。

更にまた 九郎、十郎なら 誰かに 譲ることは 考えられるが 長男となれば そんな事は 絶対にない。

又、弟が大納言や中納言になっているのに長男が地方の牧場の管理人(蔵規)のはずがない。

即ち、以上の複数の理由により 政則は 藤原隆家の子ではないと言うことです。この菊池系図が間違っていると言うことになります。

有名貴族につなげると ウソが ばれてしまうと云うものです。当時の日記 春記を見れば ハッキリ分かります。

しかし、全くの平民が 官位や官職を 貰えるとは考えられないので 政則もその子 則隆も 藤原氏と 関係が有ったものと思われます。

又、藤原隆家の子である経輔にも正則と言う子もいない。勿論、文時、政則と言う子もいない。

正式な藤原系図には 経輔の子は 9人いて、師信、長房、師家、師基、家平、 増誉、仁恵、璽覚、隆観である。

こういう系図があると 誰でも書き込めるウィキペディアは 吟味もせずに 書き込まれるのです。

国会図書館の係員も 仰っていましたが 誰でも書き込めるウィキペディアには 間違いがあると。

─────────────────────────────

* 真田幸村の子孫を称する人の系図もデタラメです。

NHKエンタープライズの漢詩紀行100選には 間違い 及び不適切な部分が多くあり。


名字の最初に戻る