仙台真田家・仙台真田氏
真田守信は、真田幸村の子ではなく、幸村の叔父さんである隠岐守信尹の子の政信(内記)の子です。
① 仙台真田家2代目の辰信が延宝6年(1678)に記した家の書置きには
守信の父は
「内記(政信)」となっております。
② 1730年頃記された伊達世臣家譜にも「政信の子、沖の允(おきのじょう)守信」となっています。
https://www.myouji.org/dateseshinkafu.htm
③ 白石城主の子孫で 片倉氏 第15代当主・男爵
片倉信光氏が 昭和17年に発行した
「真田幸村の後裔を探る」(東京帝国大学史料編纂掛編集)でも
片倉守信は
https://www.myouji.org/sanadayukimuranokouei0saguru.htm
④ 家系の専門家が記した宮城県姓氏家系大辞典、1994年
角川書店発行、 694ページの真田の項に
「政信の子 守信は 父の死後、白石の片倉家に身を寄せた」と有り。
⑤ 新編 姓氏家系辞書、2001年秋田書店発行、642ページの真田の項に
「幸村の子 大助は 大阪落城の際、秀頼に殉じた、従ってこの系は絶えた」と有り。
尚、昭和8年に出た仙台人名大辞書の真田の項の内容は
間違いと判明している事でもあります。
以下のページの下の方をご覧ください。
https://www.myouji.org/sendaijinmeidaijisyo.htm
仙台人名大辞書の後継である 仙台郷土研究会の
渡邊洋一会長も真田の項は誤謬としている事なのです。
また、蔵王町にある真田幸村の子孫と刻まれている墓碑は
間違いと判明しています。
https://www.myouji.org/sendaisanada-bohi.html
特に、パンフレットに載った家の書置きは 延宝6年(1678)に記されており、延宝6年と言えば、既に幸村の女子は幸村人気で
次々と大名に嫁ぎ、阿梅の夫 片倉小十郎も 幸村寺(月心院)の建立を許可しており、50年後に書かれた家の書置きから
幸村の名を消さねばならない状況ではなくなっておりました。即ち、真実が記されております。
また、仙台真田家の昭和生まれの子孫は、「伊達家と口裏を合わせて 幸村の名を消し、内記としたのだ」と
主張しているが、家の書置きと 伊達世臣家譜では 作成された年数が50年以上の差があり、辰信は 亡くなっており、
口裏を合わせようも無い事ですし、家譜には 「幸村の女(阿梅)を虜にし」と記されていて、幸村と言う文字が入っている。
即ち、昭和の子孫は ウソを言っているのです。
尚、信州真田本家の当時の左衛門佐伝記稿には「幸村の二男
大八は夭折」と記されています。
名字の最初に戻る