楫取 素彦と吉田松陰の年譜
年 | 楫取 素彦 | 吉田 松陰 |
文政12年3月15日(1829年) | 松島瑞蟠の二男として誕生す。幼名は久米次郎。 | |
文政13年8月4日(1830) | 杉家5代目当主 百合之助 常道の子として誕生す。杉寅之助と称す | |
天保5年(1834) | 叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となる | |
天保11年6月15日(1840) | 明倫館儒官の小田村吉平の養嗣子となり、小田村伊之助と改む | |
弘化元年9月(1844) | 明倫館入学(16歳) | |
弘化4年(1847) | 小田村家の家督を継ぎ、明倫館の司典助役 兼 助講となる | |
嘉永元年(1848) | 萩城の城番を勤める(20歳) | |
嘉永2年 | 明倫館新築落成、講師見習役となる | |
嘉永3年(1850) | 大番役となり、江戸桜田藩邸に向かう | |
〃 8月23日 | 寅次郎、4ヶ月間の九州遊学の為 萩を出発 | |
嘉永4年2月12日(1851) | 寅次郎、藩主・毛利敬親に「孫子」を講義する。(21才) | |
〃 2月20日 | 明倫館兵学師範として文武を盛んにする方法「文武振興」を提出す | |
〃 3月5日 | 藩主・毛利敬親の東幸に従い萩を出立する | |
〃 4月27日 | 江戸の藩邸にて兵書の講義を始める | |
〃 5月 | 遊学の吉田大次郎(寅次郎)と会う | |
〃 7月22日 | 藩から東北遊歴の許可を受ける | |
〃 7月29日 | 佐久間象山塾に入学する。 | |
〃 12月14日 | 寅次郎 藩からの過書手形の下付を待たず脱藩し東北遊歴の途につく | |
〃 12月19日 | 寅次郎、水戸に滞在し(翌年の1月20日迄)、会沢正志斎や豊田天功ら水戸藩の学者に教えを受ける | |
嘉永5年4月10日(1852) | 江戸の桜田藩邸に待罪書を提出、帰国の命が下る | |
〃 5月12日 | 寅次郎、萩に到着し 杉家にて謹慎する | |
〃 12月8日 | 寅次郎、脱藩の罪により士籍及び家禄を没収される | |
嘉永6年1月16日(1853) | 寅次郎に諸国遊学の許可が下る(藩からの要請ではない) | |
〃 4月 | 萩に帰国して明倫館に入る | |
〃 6月3日 | ペリー来航 | |
〃 6月4日 | 寅次郎、佐久間象山と共に米艦隊視察のため浦賀へ到着する | |
〃 6年7月 | 寅次郎の妹 寿子と結婚す | |
〃 9月18日 | 外国渡航を決意し 長崎停泊中の露国軍艦を目当てとして江戸を出発する | |
〃 10月19日 | 寅次郎が熊本に至り 横井小楠を訪ねる | |
嘉永6年 | 再び江戸に派遣され 藩邸の有備館の稽古掛に就く | |
嘉永6年11月(1853) | 江戸湾警衛の為、三浦半島の防備に就く | |
〃 11月24日 | 寅次郎と肥後藩士 宮部鼎蔵が萩を出立する | |
〃 12月27日 | 寅次郎 江戸に至る | |
嘉永7年1月14日(1854) | ペリー率いる軍艦七艘が前年の国書の返答を受ける為 江戸湾に再び来航する | |
〃 3月27日 | 寅次郎、金子重輔が下田に停泊中のペリーの旗艦「ポウハタン」に乗艦し海外に渡航を企てるも拒否される | |
〃 3月28日 | 寅次郎、金子重輔が下田の番所に自首し、長命寺に拘禁される | |
〃 4月6日 | 佐久間象山が長州藩士・寅次郎の密航事件に連座し捕縛される | |
〃 4月9日 | 日米和親条約の締結と下田、箱館の開港を全国に向けて発表す | |
〃 4月15日 | 寅次郎、金子重輔が伝馬町の獄舎に入れられる | |
〃 4月29日 | 京都所司代、日米和親条約の締結と下田。箱館の開港を孝明天皇に上奏する | |
〃 9月18日 | 幕府が寅次郎、金子重輔、松代藩士・佐久間象山らを自藩幽閉処分とする | |
〃 10月24日 | 寅次郎が萩に到着し 野山獄に入れられる、獄中 幽囚録を著わす。 | |
安政2年1月11日(1855) | 金子重輔、岩倉獄にて病死。(25歳) | |
安政2年4月(1855) | 萩に帰国し 明倫館に戻り、舎長書記兼帯にて講師見習を勤める | |
〃 12月15日 | 藩主 毛利敬親が吉田寅次郎に野山獄を出獄し実父・杉百合之助邸の幽室に蟄居を命じる。 「公儀より御引渡しの身柄に付き、随分念を入れ蟄居申付け、他人相対差留められ候事」とあり、 (家族以外の人との接触は厳禁であった)。 |
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安政3年2月(1856) | 相模国の宮田陣屋の番手となる | |
〃 7月29日 |
鳥山新三郎、寅次郎入獄(伝馬町・1854年)の際金品を贈り慰問した為、嫌疑を受け幽囚 (すぐに許されたが、その後、江戸にて病没。38歳) |
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安政4年4月(1857) | 帰国し、明倫館の助講となる | |
〃 6月 | 明倫館の講師本役となる | |
〃 9月4日 | 寅次郎が久保五郎左衛門の松下村塾を継承する(27才) | |
〃 9月 | 伊藤春輔(後の博文) 松下村塾に入門する | |
〃 11月12日 | 長州藩士・入江九一が松下村塾に入門する | |
〃 12月5日 | 寅次郎の妹・文が久坂玄瑞に嫁ぐ | |
安政5年4月13日(1858年) | 高杉晋作が遊学認可の周旋を寅次郎に依頼する | |
〃 6月19日 | 大老 井伊直弼 日米修好通商条約を締結する | |
〃 7月20日 | 長州藩が寅次郎に山鹿流軍学を教授する事を許可する | |
〃 9月24日 |
寅次郎が「西洋歩兵論」を著す。 (安政5年9月、寅次郎が現行の和流兵法を破棄し西洋の組織的歩兵制を採用する事、又 歩兵には 足軽以下農兵をあてることを主張した論文。この考えは寅次郎死後、門下生の高杉晋作が奇兵隊を 組織する根拠の一つとなっていく)。 |
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〃 10月23日 | 寅次郎が同藩 直目付・清水新三郎に書を送り、京情の切迫を告げ回天立策の急務を説く | |
〃 10月 | 山県狂介(後の有朋)が松下村塾に入門する | |
〃 11月6日 | 寅次郎が同志十七名と血盟して老中・間部詮勝の要撃を計画する | |
〃 11月 | 藩命により松下村塾の閉鎖(藩にとって危険な為) | |
〃 11月29日 | 周布政之助が寅次郎の出発を阻止する為 藩主に請い、叔父玉木文之進の家に幽囚する(助命の為) | |
〃 12月5日 |
寅次郎を再び野山獄に投獄する旨の藩命が下る。しかし、父の看病の為、入獄延期になる。 |
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〃 12月11日 | 高杉晋作・久坂玄瑞・飯田正伯・尾寺新之丞・中谷正亮が連署して寅次郎に義挙の非を告げる | |
〃 12月24日 | 長州藩士・桂小五郎が寅次郎を訪ね江戸の情勢を報告する | |
〃 26日 | 寅次郎、野山獄に入る。 | |
安政6年5月25日(1859) | 長州藩が幕命に従い寅次郎を江戸へ東送し、其父 杉百合之助、兄・梅太郎の職を解き、謹慎を命じる | |
〃 6月25日 | 寅次郎が江戸に到着し桜田藩邸の牢に入れられる | |
〃 7月9日 | 寅次郎が江戸伝馬町の獄舎に入れられる | |
〃 9月 | 明倫館の助教役と五科総督(塾長)として周防国三田尻越氏塾を兼任 | |
〃 9月5日 | 寅次郎が評定所にて訊問を受ける | |
〃 10月26日 | 寅次郎が「留魂録」を作る | |
安政6年10月27日 | 寅次郎 江戸の伝馬町の獄内にて処刑される、満29才と2ヶ月。 | |
〃 12月 | 儒官から抜擢され 毛利敬親候の侍講に就く | |
万延元年2月(1860) | 明倫館の直轄 山口講習堂の文学用掛を兼務す | |
〃 3月29日 |
手廻組に加えられ側儒役に就任。松下村塾の事まで手が回らないと 尾寺新之助に書簡を送る。 |
以下は当時の出来事 |
〃 4月9日 | 伊之助の建白が叶い、お舟方以外の者も越氏塾 入塾許可となる | |
文久元年9月16日(1861) | 藩主 毛利敬親候に従い江戸に上る | |
文久2年6月2日(1862) | 敬親候に従い江戸を発して京都に入洛。 | |
〃 10月 | 京都にて「学制講草稿」を藩に上申す、その後、教育現場から離れる | |
〃 12月 | 藩是「破約攘夷」の説得の為、長府、岩国の支藩に赴く | |
文久3年2月(1863) | 藩主と共に萩に帰国す | |
〃 9月 | 側儒役より奏者格を以って藩主の御内用掛となる、又 奥番頭に就く | |
〃 9月8日 | 藩主の直書を持ち、広島藩に赴く。敬親候より賞として金一封を賜る | |
元治元年3月11日(1864) | 長崎聞役を拝命。長崎に赴き異聞
異人の行動を調査し、鉄砲を 購入す |
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〃 7月19日 | 蛤御門の変(禁門の変)、長州藩敗れて 久坂は鷹司邸内で自刃 | |
〃 8月 | 長崎聞役を退く | |
〃 9月17日 | 藩主の命により 小田村素太郎と改名す。(第一次長州征伐の結果 責任回避の為と思われる) |
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〃 11月2日 | 正義派(改革派)と通じたと云う疑いで、親類預けとなる | |
〃 12月 | 兄 剛蔵は 長州の恭順派(俗論派)によって 斬首となる | |
〃 12月19日 | 俗論派は 素太郎を野山獄に入牢する | |
慶応元年2月15日(1865) | 高杉晋作の奇兵隊によって恭順派は敗退し素太郎は野山獄を脱出 | |
〃 5月14日 | 塩間鉄造と変名、5月23日、大宰府に赴く。(七卿落の公家と会う為) 三条実美の衛士 黒岩直方を介して、坂本龍馬と会談す |
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〃 5月28日 | 長府藩士 時田少輔と龍馬を連れ、下関の桂小五郎に引き合わせる為 同道す。 | |
〃 6月 | 徳山藩に赴き、長州藩の藩是を説明し、幕府軍との死戦を論す | |
〃 7月12日 | 敬親候の内命で備前岡山藩に赴き藩論を披露す | |
〃 10月3日 | 龍馬との約束で三田尻に出向き、山口本庁にて用所役の 広沢正臣に引き合わせる |
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〃 10月11日 | 井原主計、宍戸備後助等と安芸国に向かう | |
慶応2年1月21日(1866) | 薩長同盟の密約成る。素太郎は端緒を務める | |
〃 5月9日 | 宍戸備後助と共に広島に赴く。幕府側によって拘禁される | |
〃 6月 | 第二次長州征伐の戦が勃発。同月14日、幕府軍を芸州口で破る | |
〃 6月25日 | 宍戸と共に拘束を解かれる | 8月20日、徳川家茂 崩御 |
〃 12月5日 | 徳川慶喜 将軍宣下を受け 正式に15代将軍となる | |
〃 12月7日 | 他藩応接掛となり、直目付役の用務を命じられる | |
〃 12/25日 | 孝明天皇崩御 | |
慶応3年2月10日(1867) | 素太郎 小倉へ使者として赴く | |
〃 9月18日 | 遊撃軍副総督として 高森の屯所に就く | |
〃 9月25日 | 奥番頭職(側用人)に就任し 姓名を楫取 素彦と改める | |
〃 10月14日 | 倒幕の密勅が出る。 | 大政奉還 |
〃 11月6日 | 大宰府に赴き 長州藩出兵の報告と五卿の上京を要請す | |
〃 11月15日 | 坂本龍馬、中岡慎太郎、京都近江屋にて刺客により斬殺される | |
〃 11月25日 | 討幕軍諸隊参謀として三田尻を出帆。29日 西宮に着く | |
〃 12月9日 | 諸兵を率いて入京。 | 12月9日、王政復古の大号令 |
慶応4年1月3日(1868) | 禁中に勤務(40歳)。鳥羽伏見の戦い起る。 実際に明治と改元の詔書が出たのは慶応4年9月8日(グレゴリオ 暦では10月23日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年とすると定められた。 |
慶応4年は 戊辰の年にあたる。戊辰戦争。 |
〃 1月9日 | 新政府の参与となる | |
〃 1月20日 | 制度事務局 判事を命ぜられる | |
〃 2月20日 | 参与の職を辞して帰国 | 2月12日 徳川慶喜 上野寛永寺大慈院にて 恭順 謹慎す |
4月11日、江戸城明け渡し | ||
〃 4月21日 | 京都留守居役に転じ、滞在中 用所役に就任 | 4月15日 徳川慶喜 水戸弘道館にて 謹慎 |
5月15日、上野戦争(彰義隊が上野の寛永寺に立てこもって抵抗した戦い) | ||
7月23日 徳川慶喜、駿府宝台院にて謹慎 | ||
明治元年 9月22日、会津降伏、松平容保、謹慎 | ||
明治元年 10月5日 | 藩主に従い帰国 | |
明治2年 2月(1869) | 藩主と共に上京す | |
〃 12月1日 | 長州藩脱退兵 鎮圧の為 防府に派遣される | |
〃 3年 2月 | 山口藩権大参事に就任す | |
〃 3月28日 | 三田尻管掌を命ぜられる | |
〃 4年 3月28日 | 毛利敬親 逝去する。享年 53歳 | |
〃 4年 4月 | 山口県大津郡三隅町二条窪の桜楓山の新居に隠棲す | |
〃 6月 | 地方官出仕の内示がある | |
〃 5年8月9日 | 足柄県(現 神奈川)の参事に就任 | |
〃 7年7月19日 | 熊谷県の権令となる。寿子を呼び寄せる | 明治7年(1874)1月14日、喰違坂の変、東京の赤坂で起きる。2月、佐賀の乱勃発。 |
〃 9年4月4日 | 熊谷県令となる | |
〃 9年8月21日 | 群馬県令に転じる | |
10月24日、熊本にて神風連の乱勃発、 | ||
〃 9年10月28日 | 萩の乱勃発、リーダーは 前原一誠 | 10月29日、思案橋の変(東京)。 |
〃 10年(1877) | 2月、西南戦争勃発 | |
〃 11年5月14日 | 紀尾井坂の変で大久保利通暗殺される | |
〃 14年1月30日 | 妻 寿子死す、享年43才。 | |
〃 16年(1883) | 鹿鳴館竣工(井上馨の主導による) | |
〃 20年5月24日 | 勲功により華族に列し 男爵を賜う(60才) | |
〃 27年(1894) | 日清戦争 | |
〃 35年(1902) | 日英同盟 | |
〃 37年(1904) | 日露戦争 | |
〃 42年(1909) | 伊藤博文 ハルピンにて死す(従一位大勲位公爵、68才) | |
大正元年(1912)8月14日 | 死す(享年84才)、防府市岡村の本邸にて、妻 美和に看取られて。 | |
〃 8月15日 | 特旨を以って 正二位に叙す。叙勲一等授瑞宝章。 | |
〃 2年(1913)11月22日 | 徳川慶喜死す(従一位、公爵、76才) | |
〃 4年9月1日 | 井上馨 死す(従一位、侯爵、79才) | |
〃 10年(1921) | 美和死す(享年 79才) |
参考資料 宝島社発行の「杉文と楫取元彦の生涯(著者 大野富次)」等。
今回 NHKの大河ドラマ 「花燃ゆ」で 吉田松陰が出てくることが分かりました。
松蔭と言えば 江戸時代を終わらせ 歴史的な立派な人物と思っておりました。 書物には
年配の人物像、又、多くの格言が記されており、神と祀られるほどの人物と思っておりましたが、
ちょっと調べたら
29歳の人生であることがわかりました。諸書、色々なサイトに 老年の写真(絵)が「何故 使われたのか」と云う気持ちになりました。
よって、松蔭が実際何をしたのかを年次・月日を入れて表にしました。
そしたら 思想を除いたら 大したこともしていないではありませんか。寧ろ、小田村伊之助と言う人物が武士の時代を終わらせ、明治になっても非常に貢献したことが分かりました。
表を見れば
どちらが 功労者かが分かると思います。
尚、表の中の名前は その当時の 名前を記してあります。即ち、松蔭は 死んでからの戒名であり、処刑された時も吉田寅次郎でした。
「松陰以白居士」とは 高山彦九郎の戒名であり、まさに幕末の志士に影響を与えた。寅次郎は亡くなる直前に松蔭を号したものと思われる。
http://www5.wind.ne.jp/hikokuro/ataetaeikyou.htm
尚、寅次郎が 松下村塾で まともに塾長として教えたのは わずか1年3ヶ月です。そもそも 嘉永4年の2ヶ月間と合計しても 約1年半しか教えていないことになります。
又、「11才の時に藩侯に講義した」と、複数の書物にあるが、これは何かの間違いと思われる。
年配の藩侯に対して 元服していない身分の低い 未成年の寅次郎が藩侯に お目通りがかなうわけもなく、これは誰かの先生の草履持ちで行き、
藩侯の顔の見えない所に控えていたものを明治になって 明治の政治家が松蔭を神と祭り上げたものだから、「藩侯に講義を行い」と、なったものと思われる。
伊之助が侍講に就いて藩侯に講義したのは 30才の時でした(安政6年12月)。
小生 藤原も18才の時に孟子、老子、墨子、管子、左伝、荀子、韓非子、孫子、列子、荘子など等を読み、格言など 後の人生に大いに役立ちました。
寅次郎は 立派な儒者でもあるのでしょうが、儒者にしては 他に及ぼす影響とか 配慮に欠けたところがあると思います。
脱藩して 一族に迷惑をかけるとか、海外渡航を試みて、佐久間象山が連座になるとか、老中暗殺を企てた時は、叔父で松下村塾を創設した玉木文之進は
その監督不行き届きにより連座し
安政7年11月に代官職を罷免されております。
これらは大変なことでありました。過書手形が間に合わないのであれば 理由を話し、延期してもらうとか、国境までは出発し、その先は、先に行ってもらって
1ヵ月後にどこかで落ち合うとか、
大人の考えならば 何とでもなり、
脱藩などする必要も無かったものと思います。
「若さの極み」であり、 現代の稀に見る若者とあまり違わない、まさに未熟者的な感があります。
又、幕府の「開国にたいして激怒した」と諸書にあるが これも おかしな表現です。大老が結んだ条約に対して、下級武士が怒る場合は
普通なら「失望、落胆」等になるべきで、
激怒は 天皇や将軍など 雲の上のような人に対して使う表現では無い。明治以降の著者が時代錯誤を起こしたものと思われる。
神となったのは明治以降である。
上が下に激怒は有る。
そもそも諸外国との貿易(開国)に対して 寅次郎が「老中暗殺を企てる」とは 自分の意思が
ころころ変わっている(鎖国派なのか開国派なのか)矛盾した行動としか言いようが無い。
バランスの欠けた人と言わざるを得ません。
又、寅次郎の「幽囚録(安政元年・1854、24歳)」には以下のような記述もある。
「今 急に武備を修め、艦略を具え、礟略足らし、則ち
宜しく蝦夷を開墾して諸侯を封建し、間(すき)に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホーツク)を奪ひ、
琉球に諭し、朝覲會同し
比して(親しんで)内諸侯とし、朝鮮を攻めて質を納れ
貢を奉ること古の盛時の如くならしめ、北は満洲の地を割き、
南は台湾・呂宋(ルソン【フィリピン】)の諸島を収め、漸に進取の勢を示すべし。
然る後に民を愛し士を養ひ、守邊を愼みて、固く 則ち 善く國を保つと謂うべし」と。
伝馬町の獄(29才)で記したものは 江戸時代は 世間に知れ渡ることも無く、門下生が知っているものは 寅次郎自らが教えたことに限られる事は ご存知の通りです。
明治の政治家が 松蔭を神格化することによって 精神修養の重要性を国民に植え付け、日本のアジア進出の対外政策(伊藤博文による韓国併合等々)の正当化を図ったとすれば
松蔭のこの一面は
誠に遺憾なことである。
結果として 300万人もの同胞、それを上回るアジアの人々を犠牲にしたことは 誠に「痛恨の極みと言う言葉だけでは済まされるものではない」と言わざるを得ない。
これは
よく国民の知るところです。
以上のこと、当サイトをご覧の皆様方は相当なる配慮を以って判断されるよう お願い致します。
尚、小生 藤原は 寅次郎に何か恨みがあるわけでも 何でもありません、事実を記したものであります。
又、小生は 漢文の知識も多少あるので 「幽囚録」の読み下しも 妥当なところだと思います。
NHKエンタープライズの漢詩紀行100選には
間違い 及び不適切な部分が多くあり。
さて、
NHKがどのように寅次郎を表現するか興味深いところでもあります。
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