蛤御門の変
長州は、去年八月の変革にあって 君臣ともに勅勘の身となり、内外に敵を受け、毛利藩は実に危急存亡の秋に迫ったるにより
今一度兵力を以って薩摩 会津等をくじき、温和党を退け、京都の形成を一転して、前日の如く 過激党の朝廷になさんと望み
辞柄を陳情嘆願に託し、福原越後、国司信濃、益田右衛門介に兵隊を引率して、上京せしめたり。
この三人は 伏見 山崎 天王山の諸所に陣営を張って、陳情の表を呈し、隠然 謀る所あるの兆しをあらわしたれば、
一橋卿(後の将軍 慶喜)は 在京の幕閣と謀り「嘆願の仔細は 追って 御沙汰あるべし、兵隊は 早々 引き払うべし」と、命じたれども、
福原等は 帰国の様子なきのみならず、その兵を合わして 押しても入京すべき形勢なりければ、この上は征伐すべしと
幕議を定めて、禁裏(天皇)に請い、その陣を張って待ち受けたるに、福原、国司、益田等は 案の如く、七月十九日の暁を期して
兵を進めたるにつき、伏見において戦争を開き、蛤御門の砲戦となり 弾丸 殆ど玉座の眼前に達し、京都市中 大半 兵火の為に焼かれ
ひとかたならざる騒乱に及びしが、薩摩、会津、桑名、彦根諸藩の兵にて 遂に撃って これをしりぞけたれば、長州の兵は
あるいは討ち死にし、あるいは 自殺し、死に残ったる輩は 敗走して長州に帰ったり。世に言う 禁門発砲の乱とは、即ち この事なり。
ここにおいてか 長州は いよいよ禁門に対して 発砲したる朝敵となり、ただにその情意の貫徹せざるのみかは、長州侯が国司等に
与えたる軍令状は 争うべからざる謀逆の証拠なりと認められて、朝廷より毛利征討の事を幕府へ命ぜられたれば、幕府はまた
憚る所なく 長州に手を下すべきの機会を得たり」と。(幕府衰亡論・福地源一郎 著)
* 文久2年(1862年)2月11日、皇女 和宮と14代将軍家茂の婚礼が行われた後、即ち、公武合体した後は 将軍より、天皇の命令の方が偉大で
将軍が長州などに命令する時は 殆ど 天皇の許しを得てからするようになり、重大な案件は 勅許なくしては 将軍は 何も出来なくなった。
家光の上洛以来 200年しなかった将軍の上洛も 天皇の命令で家茂は 京に入った。
難問、即ち、朝廷が 幕府に攘夷の実行を迫った時は 家茂は 将軍 辞職を願い出る有様だった。
結局、辞職は許されず、この和宮降嫁以後は、幕府は 朝廷の 言いなりの感があり、形式的な大政奉還の前に既に幕府は 幕府としての体をなしていない有様になった。
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