ど う す る 家 康

家康が決断を迫られた代表的な出来事                                                          * 当ページは クロムでなく、エッジで ご覧になると 見やすいです。

年代 年齢 出    来   事 等
1543年(天文11年)12/26   家康の誕生・松平竹千代(幼名)→ 元信(初名) → 元康 → 家康 → 徳川家康
1560 (永禄3年)5/19 17 桶狭間の戦い(尾張国知多郡桶狭間での織田信長軍と今川義元軍の戦い)、この時 松平元康は 今川側として戦った。
     
1563(永禄6年から半年) 20 三河一向一揆(浄土真宗の本願寺門徒と松平家康が戦った戦で 家臣の多くが門徒方に与するなど、家康に宗教の恐ろしさをまざまざと見せつけた)
     
1573(元亀3年)12/22~ 30 三方ヶ原の戦い。武田信玄との戦いで、家康が大敗した戦、命からがら浜松城へ戻った。「自ら戒め子孫をも戒めるため」 敗れた姿を描かせたとされる「しかみ像
   
1579(天正7年)9/15 36 信康(長男)の処断。安土 日記に「 三州 岡崎 三郎 殿 に 逆心(謀反) の 雑説 が 申さ れ て いる」 と 。家康が苦渋の決断をせざるを得なかった。
従来の説では 信長が家康に「信康を殺すよう命じた」のであるが、松平記によれば、信長は「家康の存分 次第」と返答 し た。となっていて、家康独自の判断である。
     
1582(天正10年)6/2 39 本能寺の変による伊賀越え。
危険を覚悟し、伊賀を越え、伊勢の海から船で三河に渡る最短の経路を選びました。
途中、地侍や土民に襲われ、穴山梅雪は 殺されてしまいました。
     
1584(天正12年)3月~11月 41 小牧長久手の戦い。織田信雄(ノブカツ)・家康連合軍と羽柴秀吉軍の戦い。尾張国(愛知県西部)。「小牧」や「長久手」の他、広範囲に複数の戦いが行われた。
家康は 戦いには勝利したものの、和議においては 信雄・家康両者から秀吉へ 人質(家康の二男 於義伊(のちの結城秀康)を差し出さす等、秀吉優位の和議でした。
 於義伊には 石川数正の子 勝千代(のちの康勝)も同行した
     
1585(天正13年) 42 石川数正の出奔。← 出奔することで家康を守ろうとした数正。秀吉に仕える方が待遇が良い、とする説。数正は 息子を人質に出していることも影響したか。
豊臣秀吉に屈することを潔しとしない 酒井忠次 や 本多忠勝らの強硬派と秀吉との講和を進めることが必要だと考えている 融和派の代表である石川数正であった。
     
1590(天正18年)2月~7月 47 小田原攻めと関東移封(秀吉による関東征伐)← 初代 早雲 以来 100年にわたって関東に雄飛した北条氏も、滅亡した。
この時、200年に亘った深谷城(深谷上杉氏)も開城。
秀吉は 北条氏政等に自決を命じ、当主 氏直は 家康の娘婿という事で助命され、高野山へ追放となっ た。
小田原城へ入った秀吉は、小田原攻めの論功行賞を行なった。  体のいい国替えであった。
家康の旧領 五ヵ国の替わりに北条氏の旧領である伊豆・相模・武蔵の全域、上総・下総・上野の大半と
下野の一部が与えられた。家康の旧領は、織田信雄に与えられることになっ たが、信雄が尾張・伊勢に
こだわっ てこれを拒んだ為に改易され、下野 那須(栃木県 那須町) 二万石に移された。
     
1600(慶長5年)9月~ 57 関ケ原の戦い
真田幸村は 本名は 信繁、父 昌幸が豊臣秀吉に帰属すると秀吉の近習となり、大谷吉継の娘を妻としました。
これも関ヶ原の戦いで 大谷が石田三成に組みし時、大坂方の主要メンバーになる要因でもありました。
尚、兄の信幸は 徳川四天王の一人 本田忠勝の娘を妻とした為、徳川方になりました。
     
1614(慶長19年~20年) 71 大坂の陣
    家康が江戸に幕府を開いてから11年が経ち、日本統一政策を進める徳川方にたいして、淀の方の大坂方が関ケ原の戦いで
生き延びた浪人衆(真田信繁(幸村)、長宗我部盛親)の寄せ集めの戦い。
大名で 大坂方に付く者は無く、結果は テレビで ご覧の通りです。
尚、後に「ひのもと一の兵」と評価された真田幸村の男の子孫は 居ません。現存しているのは ニセ者です。
よって、仙台真田家は 幸村とは何の関係も有りません、誰でも 書き込めるウイキペディアも間違いです。
     

徳川十六将とは             ①~④は 徳川四天王。

①酒井 忠次 -徳川四天王の一人でもある。その子 家次-忠勝┬忠当(子孫 出羽鶴岡へ)家紋 丸に鳩酸草、明治 伯爵、
                              └忠恒(子孫 羽前松山へ)家紋 隅入り平角に鳩酸草

②本多 忠勝、その子 忠政┬忠刻
            │  ┌=政勝(三河岡崎へ)子孫 明治 子爵、家紋 一本杉、丸に立葵、本の字、丸に本の字
            ├政朝┼政長
                │   └政信(播磨山崎へ)
            └忠義┬忠平(大和郡山へ)
    
           ├忠以(磐城泉へ)
     
          ├忠晴
      
         └忠常

③榊原 康政、その子 康勝=忠次-政房-政倫=政邦-政祐=政峰-政永-政敦-政令-政養=政愛=政敬-政和-政春 越後高田十五万石 家紋 車輪、九曜、明治 子爵

④井伊 直政、その子
直孝┬直滋
  ├直寛
  ├直時-直興
  └直澄=直興┬直通=直恒=直興(再承)=直惟┬直定=直禔=直幸┬直富
          ├直恒             ├直禔      ├直中-┬直亮=直弼(大老)-直憲-直忠 彦根二十五万石、明治 伯爵、家紋、橘 旗幕紋 井桁
        
├直矩              ├直賢      ├直広 ├直元
        
├直惟             └直幸      └幸専 └直弼
        
└直定   
         

 

⑤松平 康忠、長沢松平家8代当主。徳川家康の従弟 、その子 康直、故ありて家を継ぐ事を得ず。嫡流断絶す。家紋、花丁子。

⑥平岩 親吉、甲斐国郡代 一万三千石、後 尾張清洲 十二万三千石を領す。 家紋、丸に張弓、丸に結雁金。

⑦大久保 忠世、小田原城主、その子 忠隣-忠常-忠職=忠朝-忠増-忠方-忠興-忠由-忠顕-忠真-忠修-忠殻=忠礼=忠良-忠礼(再)-忠一-忠言、
       相模国小田原十一万石
家紋 上り藤の内に古文字の大の文字 明治 子爵

⑧ 大久保 忠佐、忠世の弟(沼津城主)、忠佐が77歳で死去すると、沼津藩は無嗣により断絶となった。

⑨蜂屋 貞次、永禄6年(1563年)、小坂井の戦いで今川氏と戦って武功を挙げたが、一向一揆が起こると、一向宗の宗旨に従い、家康に背いてしまった。
         その後、家康に降伏し、罪を許されて再び家臣となった。その後、吉田城攻めに参加して戦死(26才)。

⑩内藤 正成、その子 正貞正重正吉(武蔵国栢間村等で 5700石 幕末の14代正從まで続いた。)

⑪高木 清秀、三河国碧海郡高木城に拠る。以後 代々続きて、明治 子爵 河内丹南 一万石、 家紋 丸に打違鷹羽、万字。

 ⑫服部 正成、「半蔵正成は、数度の旧巧を顕わし、伊賀の国 服部の一族はじめ、数多 御当家に召し出され、皆 半蔵が一隊の指揮に属せらる。
          然れども 、故有りて、隊士の為に横死し、その子 石見守(正就)も又 御勘気を得て、久松の松平隠州の家に召預けられ、子孫 終に久松家の長臣となれり」と。

⑬鳥居 元忠、その子 伊賀守忠政-忠恒-忠春-忠則-忠英-忠瞭-忠意-忠求-忠照-忠威-忠擧-忠宝-忠文 下野壬生 三万石 家紋 竹に雀 鳥居 鶴の丸、明治 子爵

⑭鳥居 忠広、上記 元忠の弟、 三方ヶ原の戦いで戦死。子孫は小田原藩の大久保氏の家臣となって存続した。

⑮米津 常春 、その子 正勝、罪有りて斬罪に処せられたが、常春の弟 政信の子孫は 武蔵国久喜(一万五千石)、その後、上総の大網、後、
          寛政十年、出羽国村山郡長瀞 一万五千石、明治 子爵、家紋、十一枚葉の棕櫚(シュロ)

⑯渡辺 守綱、その子 重綱、子孫繁茂し、和泉伯太、一万三千五百二十石、明治 子爵、家紋  丸に三星一文字、日の丸三本骨の三扇

 

* 系図中の二本棒(=)は イコールではなく、養子を意味します。

 

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