製作者 藤原三能のコメント
目的 |
各自の名字(苗字)の由来、或いは ルーツを探るのに少しでもお役に立てればと存じます。 |
引用資料 |
各県の風土記、各国志、各野史、新編武蔵風土記稿、摂陽奇観、鎮西要略、 鎌倉大草紙、応仁武鑑、群書類従、 ェ政重修諸家譜、大武鑑、姓氏録考証、読史備要(東京大学資料編纂所)、姓氏家系大辞典、宮廷公家系図集覧他 何れも購入できたとしても、2万位〜15万位します。 |
備考 |
昭和の40年代になり、生活が安定してきた頃から、自分の出自を調べ始めた 人が出るに及んで、出版物も 出始めたように思います。定年退職して、往復3時間もかけて、国会図書館に通い、或は、数万円の 系図辞書を 買い、可能性のあるお寺の過去帳を調べたりしているうちに、10年が過ぎ20年が過ぎている人がいるようです。 それでもある程度までしか分からないと言った人が多かった訳です。 この「ルーツ発見・名字の由来」を利用すると、居ながらにして名字の由来が わかり、人によっては明治に 至るまでの実名が出て来ます。 又、系図辞書にある読めない漢字(旧漢字よりふるい古字・俗字・訛り字など) 或いは、何と言う家紋なのか解からないような家紋も通常の呼び名で記してあります。 資料は製作者の先祖が、江戸時代では幕府の幕閣(勘定奉行・ 大目付等々)におり、 足利時代は嫁に出した娘(清子)が 尊氏を産んで、政権を支えた上杉氏、鎌倉時代は 天皇を出し、飛鳥時代は「大化の改新」を成した【鎌足公】でありますので、その数々のご先祖様が 作り、作らせてきた資料が 国会図書館、等々にも数多く有ります。それらの莫大な資料と深谷上杉家の伝承、及び私の父が大正時代より系図の 研究をしていた為に残った資料等を基に作製したものです。 尚、小生は 個人の 1軒1軒のルーツを調べることを業としておりませんので、悪しからず 宜しくお願いします。 |
解説に ついて |
解説の欄に旧国名の他、新地名が追加されている場合は、大正時代以前では 判らなかったものが、電話、テレビ などの普及により、新たに地名があったことが判った事により追加したものです。平成13年現在ある地名です。 尚、北海道にある地名の殆どは、既に名字を持った人々が移り住み、その後 出来た地名ですので、名字のルーツに 関係無いので、省いてあります。 又、戦後、市町村の合併により出来た新たな地名も 省いてあります。 反対に現在 辞書の上からも、地名としても消えて無くなってしまったが 明治のごく初め、或いは江戸時代以前に 存在した地名は、苗字の形成に重要な役割を果たしておりますので、載せてあります。 A4サイズにして 約11,250ページ入っております 人口 1億3千万人の内の約 1億人の苗字をカバーしております。 尚、これは 希少苗字も含めた苗字の75%ではありません。 一族で70人しかいない苗字を2,000個載せても 14万人にしかなりません よって、大多数の方々が役立つような掲載の仕方を取っております。 又、姓氏家系大辞典には、100ヶ所を超えるミスプリがあります。 それらも可能な限り 訂正してあります(1997年現在)。 又、2010年代になりネットの人名事典なるものが多くの方に見られるようになって来ましたが、国会図書館の係員も 仰っていますが 誰でも書き込めるサイトには 誤りがあります。異なった地域の古文書を3つ、4つと照合すれば誤りは減ります。 例えば 有名な西郷隆盛さんの件では 藤原隆家を遡り、鎌足に結び付けているサイトがあります。それは間違いです。 都から遠く離れ、年代も室町、江戸時代の言い伝えや地誌を鵜呑みにした本を見て サイトを作成した為です。 該当者が生きたその当時の古文書が正確なのは 言うまでも有りません。しかし、藤原摂家等の古文書は地方に無いので 誰でも見るわけには行きません。限界があるというものです。尚、地方の方がその地方で活躍した歴史は 地誌は正確ですが 五百年、千年と またがると 一地方に留まっていない場合が出ます。そこがルーツ探しの難しさです。 |
├房前(北家)−眞楯−内麿−冬嗣−良門−高藤┬定方−朝頼−為輔┬説孝−頼明−憲輔−盛実−顕憲−盛憲−清房┐
├宇合(式家) └胤子(醍醐の母)└宣孝(紫式部の夫) │
├麿(京家) │
└宮子(聖武の母) │
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――┘
└重房[上杉氏祖]−頼重┬重顕−朝定(扇谷家)=顕定
├頼成
├憲房――┬=重能(宅間家)
└清子 ├憲藤(犬縣家)
(尊氏の母)└憲顕(山内家)┬憲将(越後へ)
<関東管領> ├憲賢(越後へ)
├能憲
├憲春
├憲方(関東管領) − − − − − − − − − − − =謙信=景勝(豊臣の五大老・米沢へ)
├憲英――――――憲光┬憲長
│(深谷城城主・ └憲信−房憲−憲清−憲賢−憲盛(憲高)┬吉次[深谷氏祖]−−−┐
│ 奥州管領) └氏憲 │
│ │
└憲栄 │
┌――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――┘
└盛吉(勝直)−盛忠−盛歳−盛英−盛純−盛朝−盛牝−盛房=久吉−茂兵衛−伊三郎−久四郎−滝次郎−芳太郎−三能、家紋
剣花菱、丸に上、竹の内に飛雀、明治60年百姓 昭和 凸版印刷社員 平成 一般庶民
(関東代官) (勘定頭) (大目付)
* 謙信は
長尾氏から上杉本家を継ぎました、久吉は
深谷の総本家(吉次直系の子孫)からの養子也。大目付 盛房が建てた深谷氏の始祖である吉次の墓(武州比企郡)
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