波  多  野(ハタノ)

解説

大和 相模 因幡などに此の地名あり。

分派氏族

 

1,秀郷流藤原姓− −相模国餘綾郡波多野村より起こる。

       家紋 鳳凰に堅引両、井田(二本箸の打ち違い)、尊卑分脈に、

秀郷−文脩−文行−公行−公光┬佐藤公清┬季清┬康清―――┬仲清−能清 
              │    │  ├清兼   └義清
              │    │  └公俊   (西行法師)
              │    │      
              │    ├助清[首藤氏祖]
              │    └公澄−知基┬知昌
              │          └基景[伊藤氏祖
              │     
              └経範−経秀−秀遠−遠義┬波多野義通−義経−有経−政基
                          ├波多野實方−實高−實能
                          ├秀高[河村氏祖]
                          ├経家[大友氏祖]
                          ├義景[大友氏祖]
                          ├實経[沼田氏祖]    
                          └家通[沼田氏祖]

2,三河の波多野(秦野)氏− 一色氏配下の将にして、宝飯郡一色城に拠る。城址は、

       半久保字岸組にあり、初め永享十年、一色時家(又時氏)、鎌倉に敗れて

       当国に来たり、吉良俊氏のもとに潜みしが、後に宮島長山村に赴き、

       当城に拠る。その時家、文明九年、波多野全慶に殺さる。以後十数年、

       波田野氏、当城主たり。明応二年十二月に至り、牧野成時、灰塚野に

       戦って全慶を誅し、当城を奪う。これより牧野氏代々の居城となる。

3,江戸幕臣 ェ政系譜に第1項の裔 二家を載す。家紋 井田(セイデン)

       「次郎義通の後胤 左衛門尉、木工助の兄弟、尊氏に仕え、山城国内野

       合戦に功あり。その裔 小次郎有俊−有家−有政−有生(駿河大納言に仕う)

−有綱−有元、二百石なり」と。

       又、「山城国山田村に住し、山田を称し、次郎八保春に至り、波多野に復す。

その裔 五郎左衛門定純−義純(初め昌純)−春純、家紋 九枚篠、丸に五枚根笹、九字左巴」と。

4,伊勢の波多野氏 東鑑、元暦元年、五月十五日條に

「伊勢国馳驛参着、申して云う、波多野三郎 云々」と。

5,河内の波多野氏 交野郡土井城は、川越村茄子作にあり、波多野帯刀の居城にして、

南北朝時代落城すと伝う。

6,伯耆の波多野氏 会見郡幡郷村によりし豪族か。太平記 巻十四、諸国朝敵

       蜂起の條に「伯耆に波多野」とあり。波多臣の族かとの説あり。

7,因幡の波多野氏 − − 当国八上郡の波多野城に拠りし名族にして、日下部姓、田公氏の族かと云う。

因幡志に「日下部村、高平城。国侍、波多野民部大輔、数代相続の城跡なり。高平と云う人の墓、

その麓にあり。この人 草創するにや。太平記、建武二年、諸国朝敵蜂起の條似『伯耆に波多野、

因幡に矢部、小畑』とあり。その後、文和、延文の頃に至りて、『因幡に矢部、波多野』と

出でたれば、その頃、伯耆より来住せるも知るべからず。里民の口碑に『永禄二年四月四日、

波多野民部大輔と云いけるを近県北山村の城主 丹比孫之丞、謀計によりて、不意に襲い城を

焼く』云々」とあり。

又、大門村古城は、日下部城主 波多野民部出張の跡なりとぞ。

8,丹波の波多野氏 − − 丹波志に「波多野左衛門尉、子孫、稲塚村。藤原秀郷の後胤、ここに数代居住す」とあり。

9,日下部姓説 − − 丹波志に「波多野氏は、その初め 因州の八上郡、周知郡を領有しければ、村民 皆 八上殿と称す。

然る所、応仁の乱に秀國、秀高、秀行、秀長、父子兄弟、山名宗全に従いて京都に攻め上り、

その後、秀長、この地に留まり住す。その子 備前守秀忠、永正中、朝路山に築き、高城と号し、

城下の地を八上と号す。古名を長坂村と云う」とあり。

10,秀郷流藤原姓説 − − 第1項と同族なり。籾井家日記に

「鎮守府将軍 藤原秀郷の後胤、波多野筑後守義通公の五代の末、経基公の御時、始めて丹波国に

御安住なされ候より、丹波本荘波多野家と申し奉る。御父 義基公を伯耆波多野家と申し奉る、

御子 経秀公をば 美作波多野家と申して御一流也。さて、経基公より七代、正四位侍従 因幡守行秀公、

因州の守護国司として、因幡、伯耆、美作の三ヶ国を守護す。行秀公より代々 守護国司職を守り、

四代の後胤、因幡中将 刑部大輔波多野秀綱公の御嫡子を因州の国司 右近衛中将左衛門太夫波多野秀行公と

申し候。御二男をば、美作少将 左京太夫波多野秀高公と申し候。元来 因幡守行秀公は、山名氏の御子にて、

当家を相続あられて候ゆえ、その頃は 御本姓は隠れて、山名殿と申して候。その後、山名家衰え、波多野、

御弓矢強くなり候ては、世上には山名の中興と思うて候。又、中頃、二條家より御相続のことも候。

さるゆえに御官位も一入に高く候也。さて、秀行公 秀高公と丹波の御屋形波多野下野秀経公とは、

ご先祖より一体にて、御通路浅からず、この時、丹波 波多野の御家に御子なし、さるほどに旗頭衆ども

御相談にて、秀行公の御子 千勝丸殿(一に千熊丸)を御養子になされ、御家督を譲らせらる。

波多野左衛門太夫秀治と申して、この頃の御屋形と崇め奉るの御事なり。これを国司家とも、

東波多野殿とも、八上殿とも申すなり。秀治公 ご成人なされ、慈悲の御心ふかき大将にて、

諸人より思い付き申し候。御連枝方に御男子二人、御女子二人あり。御弟遠江守秀尚公と申すは、

御屋形に似させ、慈悲第一の大将なり。次の御弟 二階堂伊豆守秀香公と申すは、荒き御大将にて、

武道第一の御吟味のみなされ候えば、諸人恐れをなし申し候。御女子二人の内、一人は

同国穂壷の城主 赤井悪衛門尉景遠の室にて候。一人は播州の大将 別所長治の北の方なり。

即ち秀治公御先祖代々の多喜の郡 八上山の御本城に御座候にて、御家の繁昌中々目を驚かす

ばかりにて候。又、国の大将家 御館殿と申し奉るは、同じく忝くも藤原氏の後胤にて、

屋形の御系図と御一体にて候。屋形の御父祖 因幡中将殿の御弟、作州少将 波多野左京太夫殿 御嫡子

出羽守宗高公の御時、初めて丹波国へ御渡りあられ、氷上の御城御座なり、御嫡 波多野孫太郎宗貞公、

後に従四位侍従主殿頭に任ぜられ候。又、その御嫡を正五位 美作守渋谷宗長公と申し候。

これを大将家とも西波多野殿とも、氷上殿とも申すなり。云々」とあり。

11,八上家 丹波波多野氏の宗族にして、八上城による。城址は、日置村の南、朝路山にありて、

一説に高城とも云う。波多野氏は、初め因幡八上郡より起こる。よりて八上殿と称し、

その居住の地なるにより、八上城と呼ばる。当城の起源は、詳ならざるも、備前守秀忠、

永正中、当城を築くと伝う。秀忠は、秀長の子にして、又、植通ともあり。大永八年、

       自立して当地に拠り、四隣を侵略し、国主と称す。その子 晴通、また当城にありしが

松永久秀の為に攻略され、その甥 松永孫六 当城に拠る。後、永禄九年二月、與兵衛尉秀治に至り、

波多野代々の居城なりとて、これを取り返し、一時国内に威を振るいしが、天正七年、

明智氏の為に陥落す。

12,氷上家 − − 上記の支流にして、氷上郡の氷上城に拠る。

柏原叢志に「天正七年五月四日、羽柴秀長等、兵四万余を率いて、西丹を侵す。氷上城主

波多野宗長、その子 宗貞、並びに出でて八幡山に陣し、一万余兵を分ちて所々を守る。

五日、秀長等、柏原に入る。六日、多いに戦い、秀永の兵も死傷多かりしが、氷上城 遂に落ちる」と。

13,安芸の波多野氏 − − 芸藩通志に「豊田郡中河内村の茶臼山は、ある説に波多野千手丸の所拠」とあり。

又、高田郡故家條に「吉田町 波多野氏、もと粟屋氏とす。康永の頃の神社棟札に藤原氏就とあり。

明応の棟札に刑部左衛門元実、永正に元吉、永禄に正宗、文禄に元辰とあり。されど世次詳ならず。

慶長の頃、正宗の次子に神七と云う者あり。祇園社の奉祀たり」と。

又、「小山村波多野氏、永正の頃、豊前と云えるあり、世々 村の祠官たり。家記 焼亡して、

世次考うべからず」とあり。

又、安西軍策に波多野石見守豊後、波多野源兵衛尉などの名あり。

14,御神本氏族 − − 石見の波多野氏にして、 御神本系図に

「益田兼高−兼季−兼時−兼久−兼弼−兼弘−兼方−兼見−兼世−氏兼(波多野氏祖)」とあり。

15,宗氏族 対馬の名族にして、天正十五年、当国仁位郡の宗氏族、波多野などの氏を称す(宗氏家譜)とぞ。

16,越前の波多野氏 − − 当国足羽郡(吉田郡)の藤島城主に波多野氏あり、有名な永平寺を建立したのも、

この波多野氏にして、道元禅師行状に「越前国波多野出雲守義重、吉田郡志比庄の佳境を選んで、

堅く師を講じ、寛元元年秋七月、一野東傘松峰下に精舎を建て、二年 諸堂を備足し、七月

院に入り開堂し、山を吉祥と号し、寺を大仏と云い、四年 大仏を改めて永平と云う」と。

又、二十四輩順拝図絵に「和田本覚寺は、西派院家にて、福井城下にあり。開基 親性坊は、

波多野出雲守義重の嫡男なり」とあり。

又、長享元年九月十二日の常徳院殿様江州御動座着到に「評定衆、(越州)波多野因幡守(藤原)」とあり。

又、永禄六年 諸役人附に「外様詰衆以下、波多野彦五郎、奉行衆、波多野彦五郎通秀」とあり。

17,越後の波多野氏 − − 当国の名族にして、新編会津風土記、蒲原郡日出谷村條に

「白山神社、永正六年、この村に住せる波多野久次郎某、草創せり」とあり。

又、明治の立憲改進党の名士に波多野伝三郎あり、古志郡長岡の人で、前田繁左衛門の子なり。

18,清和源氏多田氏族 − − 下野の名族にして、尊卑分脈に「頼政の弟 深栖三郎光重()実は 光信の子なり。

猶子となり、下野国方西に住す。波多野御曹司と号す」とあり。

19,首藤氏族 - - 山内首藤系図に「小野寺禅師太郎通綱−秀通( 波多野左衛門尉、

       養子、丹波守 飛騨守)−通時(左衛門尉)」と。

       又、小野寺系図に「道綱−道時−重道−秀通、弟 義重(波多野出雲守)

       −経道(小野寺六郎、出羽守、三浦泰村の二男、後 大泉より羽州雄勝郡稲庭に移住)」とあり。

20,他


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