紫式部関係 系図(女性も嫁入り前は 全員 藤原さん)
* テレビでは
紫式部を「まひろ」としていますが、それは実名ではありません。ドラマのための創作です。実名は今でも不明です。
* 源氏物語と言う物語の中では 光源氏とか 桐壺帝のように実名は 伏されておりますので 誰だかわからないようになっております。
* 宮家の費用維持の為に後継の天皇になる皇子以外は 臣籍降下され、多くが「源」の姓を与えられました。いわゆる源氏です。
紫式部関係の年表
天皇 | 年号 | 西暦 | 推定 年齢 |
事 項 | 参 考 事 項 |
円融 | 天禄 元年 | 970 | 父 藤原為時、藤原為信の娘と結婚 | ||
〃 二 | 971 | 姉(長女)誕生 | |||
天延 元 | 973 | 1才 | 紫式部(次女)誕生 | 天禄元年、天元元年説あり | |
〃 二 | 974 | 2才 | 弟 惟規(のぶのり・長男)誕生。この年、母 (藤原為信の娘) 没か。 | ||
〃 三 | 975 | 3才 | 異母 妹(三女)誕生。 | 道綱の母の「蜻蛉日記」成るか | |
貞元 元 | 976 | 4才 | 異母弟 惟通(のぶみち)誕生 | ||
〃 二 | 977 | 5才 | 3月 父 為時、東宮読書始めの儀に副侍読をつとめる。 | 11月、太政大臣 兼通 没 | |
天元 元 | 978 | 6才 | 8月、兼家の娘 詮子 入内 | ||
〃 三 | 980 | 8才 | 異母 弟 定暹誕生、この頃 父 為時、弟 惟規に漢籍を教え、紫式部が男で無い事を慨嘆する。 | ||
〃 四 | 981 | 9才 | 9月、為時の師、菅原文時 没 | ||
〃 五 | 982 | 10才 | 藤原宣孝、蔵人 左衛門尉に任ず。 | 12月、源高明 没 | |
花山 | 永観 二 | 984 | 12才 | 10月、為時
式部丞に任じ 蔵人に補される(小右記)。紫式部の式部は 父親の
この官名(カンメイ)により 式部丞の娘と言う事で 式部と言われた。 この頃は 藤式部(とう しきぶ)と呼ばれた。姓が藤原の為。後に 紫式部となった。 |
清原さんの娘は 清 少納言(セイ・ショウナゴン)。 |
寛和 元 | 985 | 13才 | 春、為時、道兼亭の残菊の宴に歌を作る。10月、為時、大嘗会の御禊に宣孝らと奉仕する。 | 4月、源信「往生要集」を撰す | |
一条 | 寛和 二 | 986 | 14才 |
2月、為時、式部大丞に任ず(小右記)。春、為時、具平親王邸に惟成、 保胤らと宴を賜う。6月、為時、官を退く。 |
6月、花山天皇出家、退位。 7月、一条天皇即位。 |
永延 元 | 987 | 15才 | 1月8日、外祖父 為信出家。 | 道長、源倫子(ともこ・リンシ)と結婚。 | |
〃 二 | 988 | 16才 | 12月、道長の長女 彰子誕生 | ||
正暦 元 | 990 | 18才 | 3月、宣孝、御嶽詣。 8月30日、宣孝、筑前守に任ず。 | 7月、兼家 没(62才) | |
〃 二 | 991 | 19才 | 円融院崩御 | ||
〃 四 | 993 | 21才 | 1月、為時、宮中の詩宴に侍る(日本紀略)。 | ||
長徳 元 | 995 | 23才 | 4月 関白 道隆 没(43才)、5月 関白 道兼 没(35才)、道長 内覧の宣旨を賜る | ||
〃 二 | 996 | 24才 | 1月、為時 越前守に任ず、秋 赴任。式部 父と共に下向。 | 4月 内大臣 伊周、中納言 隆家 左遷。道長 左大臣となる。 | |
〃 三 | 997 | 25才 | 宣孝 紫式部に求婚。 | 4月 伊周、隆家 召喚。 | |
〃 四 | 998 | 26才 | 1月 宣孝、右衛門権佐に任ず。春頃 式部
越前より帰京。4月 宣孝 賀茂祭の舞人をつとめる。 この頃、宣孝 再度求婚。8月 宣孝 山城守を兼任。 |
この年、疱瘡流行。 | |
長保 元 | 999 | 27才 | 1月、宣孝(47才)と結婚。11月11日、宣孝、神楽人長を務める。11月末、宣孝、宇佐使となって西下。 | 11月 道長の長女 彰子 入内(12才)。 一条天皇の第一皇子 敦康親王誕生(母 定子) |
|
〃 二 | 1000 | 28才 | 2月 宣孝 西国より帰京。この年 長女 賢子(かたこ)誕生。この頃 『源氏物語』執筆開始か。 | 2月 定子 皇后、彰子 中宮となる。12月、皇后 定子 崩御(25才) | |
〃 三 | 1001 | 29才 | 春、為時 帰京。4月25日
宣孝 没。式部
1年の喪に服す。 10月 為時、東三条院 詮子の四十賀に屏風歌を奉る。 |
12月、東三条院 詮子 没(40才) 。 | |
〃 四 | 1002 | 30才 | 10月、定暹(じょうせん、式部の弟)、詮子追善の法華八講に奉仕する。 | 8月、為尊親皇 没(26才) | |
〃 五 | 1003 | 31才 | 五月、為時 御堂七番歌会に出席。この頃、道長より娘の出仕を懇望される。 | 和泉式部日記の記事 この年4月より始まる | |
寛弘 元 | 1004 | 32才 | 12月29日の夜、中宮 彰子のもとへ出仕(寛弘2、3年とする説あり) | 和泉式部日記の記事 この年の1月で終わる | |
〃 二 | 1005 | 33才 | この頃 出仕も里居がち。「源氏物語」の執筆に専念か。 | 3月 平 惟仲 没(62才)。11月 道長 四十の賀。 | |
〃 三 | 1006 | 34才 | 7月 道長 法性寺の五大堂を建立 | ||
〃 四 | 1007 | 35才 | 1月13日 式部の弟 兵部丞
惟規(のぶのり)、蔵人に任ず(御堂関白日記)。 夏頃より 中宮に「白氏文集」の楽府二巻を進講す。 |
10月 敦道親王 没(27才) | |
〃 五 | 1008 | 36才 | 3/14日、為時、正四位下 蔵人左少弁 となる(権記) 4/中旬、道長の召人となるか。 7/中旬、道長、女郎花を式部に与え 歌を贈答する。 12/29日、中宮のもとに帰参。 |
9/11日、敦成親王(後一条天皇)誕生 | |
〃 六 | 1009 | 37才 | 1/3日、若宮 載餅の儀 3/4日、為時、左少弁に任ず。 6/19日、中宮 再度の懐妊で 土御門邸へ退出。 11/25日、敦良親王(後朱雀天皇)誕生 |
2月、中宮 若宮の呪詛 事件 発覚する。 伊周、参内 停止。 初夏、和泉式部、中宮 彰子に出仕。 7月、具平親王没(46才) |
|
〃 七 | 1010 | 38才 | 1/15日、敦良親王 御五十日の祝宴。 現存 「紫式部日記」 1/15日迄の記事で終わる。 夏頃、「紫式部日記」 執筆編集。 |
||
〃 八 | 1011 | 39才 | 2/1日、為時、越後守に任ず。 6月、天皇崩御に際し、和歌を奉る。 秋、惟規、父の任地に赴き歿す。 |
6月、一条天皇 譲位、崩御(32才)。 10月、三条天皇 即位。 |
|
長和 元年 | 1012 | 40才 | 2月14日、中宮彰子 皇太后となる。 式部 引き続き 皇太后の女房として出仕。 5月、彰子 枇杷殿に、一条院追善八講を催す。 |
2月、妍子(ケンシ・きよこ)、中宮となる。 6月中旬、道長、重病。 |
|
〃 二 | 1013 | 41才 | 惟通、右衛門尉に任ず。 この年 前半、しばしば実資の彰子訪問の取次役をする(9月頃、式部は宮廷を去った、と言う説もある) この頃、歌集「紫式部集」編集か。この頃までに「源氏物語」全編完成か。 |
この年、式部の親友 小少将の君 没。 | |
〃 三 | 1014 | 42才 | 1月、越後の父に歌を贈る。 1月下旬、彰子の病気の為、清水寺に参詣し 伊勢大輔に会う。 2月頃、紫式部 歿す。 6月11日、為時 官を辞して帰京。 |
||
〃 四 | 1015 | 12月、道長、五十賀。 | |||
〃 五 | 1016 | 4月26日、為時、三井寺で出家(小右記) | 1月、三条天皇 譲位、道長、摂政となる。 2月、後一条天皇(敦成親王)即位 |
||
寛仁 元年 | 1017 | この頃、娘 賢子、彰子のもとへ 出仕か。 | 5月、三条院 崩御(42才) | ||
〃 二 | 1018 | 1月、彰子 太皇太后となる。 | |||
〃 三 | 1019 | 惟通、常陸介に任ず(紫式部の没年を この年以降とする説もある) | |||
〃 四 | 1020 | 惟通、没。 | 更級日記の記事、この頃より始まる。 | ||
治安 元年 | 1021 | 10月、倫子、出家。 | |||
万寿三年 | 1026 | 1月、彰子、落飾、上東門院と号す。 | |||
〃 四 | 1027 | 12/4日、道長、没(62才) | |||
長元 二年 | 1029 | 為時、没か。 |
* 元気に百歳を可能にする遺伝子ミネラル
* 尖閣諸島の真実
ルーツ発見 名字の由来の最初に戻る