1,350年程前に大化の改新を成した、44人前の父「鎌足」以来、奈良・平安・鎌倉・室町
江戸の時代と全ての時代の政権に加わり、国にご奉仕申し上げて参りました。
ご存知のことと思いますが、藤原を名乗っている人で鎌足の嫡流はおりません。
五摂家(近衛・鷹司・九条・二条・一条)の他たくさんの苗字に変えてきておりますが、武士になった
藤原氏の典型は、なんといっても上杉でしょう。但し、米沢に移った上杉家は、最後の関東管領
上杉謙信の後、何度も養子縁組みをした関係で、藤原の血は流れておりません。
因みに私の血筋は、奈良・平安の時代には、聖武天皇・醍醐天皇など、数々の天皇を出し、鎌倉時代は、
将軍に仕えた藤原重房(上杉氏初代)、室町時代は重房の孫むすめ・清子が尊氏を産んだことから、
甥の上杉憲顕は関東管領(執事・執権)として、その子・六男の憲英は深谷城城主として、奥州管領に
なり、足利政権をお支え申し上げました。桃山時代に深谷城主・上杉憲盛の孫・盛吉は上杉の名を捨て
深谷を名乗り、その後、征夷大将軍 源の家康に仕え、幕政を支えて参りました。
<大目付 深谷遠江守盛房、深谷城城主・上杉陸奥守憲英、関東管領・上杉上野守憲顕、
上杉左衛門の督重房、内大臣高藤、大織冠鎌足>
藤原の鎌足−不比等┬武智麿(南家) (勧修寺家)
├房前(北家)−眞楯−内麿−冬嗣−良門−高藤┬定方−朝頼−為輔┬説孝−頼明−憲輔−盛実−顕憲−盛憲−清房┐
├宇合(式家) └胤子(醍醐の母)└宣孝(紫式部の夫) │
├麿(京家) │
└宮子(聖武の母) │
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――┘
└重房[上杉氏祖]−頼重┬重顕−朝定(扇谷家)=顕定
├頼成
├憲房――┬=重能(宅間家)
└清子 ├憲藤(犬縣家)
(尊氏の母)└憲顕(山内家)┬憲将(越後へ)
<関東管領> ├憲賢(越後へ)
├能憲
├憲春
├憲方(関東管領) − − − − − − − − − − − =謙信=景勝(豊臣の五大老・米沢へ)
├憲英――――――憲光┬憲長
│(深谷城城主・ └憲信−房憲−憲清−憲賢−憲盛(憲高)┬吉次[深谷氏祖]−−−┐
│ 奥州管領) └氏憲 │
│ │
└憲栄 │
┌――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――┘
└盛吉(勝直)−盛忠−盛歳−盛英−盛純−盛朝−盛牝−盛房=久吉−茂兵衛−伊三郎−久四郎−滝次郎−芳太郎−三能、家紋
剣花菱、丸に上、竹の内に飛雀、明治60年百姓 昭和 凸版印刷社員 平成 一般庶民
(関東代官) (勘定頭) (大目付)
645年、大化の改新を成した 藤原鎌足 日本の年号は この大化から始まります(養老、天平は 後なり) |
上杉重房(名月院所有・ |
陸奥守憲英の墓 |
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