真田家・前田家の系図(寬永諸家系図伝)

寬永年間に幕府が命じた寬永諸家系図伝に真田幸村の名前が無いのは 幕府が消したわけではない。
真田本家の方で幸村を消して提出したのである。
寬永年間になると 秀忠も亡くなり、家光の時代になり、信繁(幸村)の評価が上がり、信繁の娘たちが東北の有力な武士に嫁いだ為、
信繁の墓も建てられるようになりました。
しかし、幸村は 本家にとっては 不名誉な人物でした。兄の信幸にしてみれば、関が原では 西軍に属した為、幸村は、
兄の助命嘆願により、九度山蟄居で済んだわけである。それなのに大阪の陣では 豊臣方になり、陣の最中では 叔父の信昌 が
幸村に万石大名に取り立てるので 豊臣方を離れるようにとの家康の命を伝えると云う折衝をしたにもかかわらず 離れなかったので
幸村に対しては 叔父 及び本家が さじを投げてしまった格好になっていた。いや、寧ろ、本家の立場が無くなってしまったほど
幸村には 愛想をつかしたのである。よって、系図から信繁の名前を削除しました。信幸は 93才まで生き、寬永年間では まだ矍鑠としていました。

それに比べて、 前田利長の弟 利政は 関が原の戦いでは 徳川軍とは戦っていない。
しかし、乱世では 中立は許されず、敵対行為とみなされる。
前田利政は、関ケ原の戦いでは 徳川家康に従わず、所領を没収された。兄の利長は 幕府が命じた寬永系図には弟の利政を載せている。
この差が 系図に現れています、以下をご覧下さい。

真田系図

 

 

前田系図

尚、寛政の時代に成った「寛政重修諸家譜」には 幸村の名前は 記されます、但し、男子は 死亡しているので、子の記録はありません(系図上は 女子は省かれることが多い)。


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