新元号「令和」について

 

元号の典拠は 「万葉集 第五巻」の

「初春の月にして、気淑く風ぎ、は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす
(しょしゅんのれいげつにして、きよくかぜやわらぎ、うめは きょうぜんのこをひらき、らんは はいごのこうを かおらす)」です。

この令和と云う文字の地名は 過去に消滅した地名も含めて 有りません。

よって、名字として 使用している人も居りません。

但し、名前として 使用している人は非常に稀ですが 居ります。

しかし、今後、帰化する外国人が令和と名字を付ける人が出てくるかもしれません。

さて、万葉集は 7世紀後半から8世紀後半にかけて編纂された、我が国 最古の歌集です。

全20巻からなり、約4,500首の歌が収められています。作者層は 天皇から農民まで幅広い階層に及び、

詠まれた地も東北から九州に至る日本各地に及びます。

時代で言えば 飛鳥時代から奈良時代です。

当時は 詩に詠まれているように 花と言えばを指す時代でした。

「万葉集」に詠まれた梅の数ですが、桜を詠んだ歌は 43首に対し、梅を詠んだ歌は 110首。梅は桜の倍以上 詠まれています。

794年に平安時代が始まり、学問の神様と言われた菅原道真が遣唐使を廃止したのは、894年でした。

遣唐使の廃止により、日本独自の文化が発展していったとも言えます。

平安初期に作成された「古今和歌集」には、梅を詠んだ歌は 18首程度に対し、桜を詠んだ歌は70首となっています。

平安時代に、一気に梅と桜の人気が逆転したことがわかります。

桜は紫宸殿(京都御所)の 左近の桜、右近の橘でも有名です。

尚、日本初の桜の花見は、嵯峨天皇が主催しました。

「日本後記」によると、812年、神泉苑にて「花宴の節(せち)」を催したと記されています。

831年からは、花見が天皇主催の定例行事となり、その様子は「源氏物語」にも書かれています。

天皇主催の花見を通し、貴族の間に桜の鑑賞が急速に広まっていきました。

よって、花見の花といえば桜、という認識が定着したのは平安時代と言えるでしょう。

武士の時代になり、武士も花見をするようになりました。

特に有名なのは 豊臣秀吉の吉水院(現在、神社)の「吉野の花見」です。

江戸時代になり、庶民が花見をする場所を作ったのは、八代将軍 徳川吉宗でした。

1720年に浅草(墨田川堤)や飛鳥山(現在の東京都北区,王子駅西側の台地)に

大規模な桜の植樹を行い、庶民が桜を楽しめるようにしたのです。

更に農村部に積極的な桜の植樹を促進し、江戸の桜の見どころの基礎を築いたのでした。

尚、現在の一般的な ソメイヨシノ は、江戸時代の末期に、染井村(現在の豊島区駒込)の植木屋によって、

「大島桜」と「江戸彼岸桜」を交配して作られた桜です。

桜の名所として有名な「吉野」にあやかって、「染井吉野」と名付けられました。


名字の最初に戻る