勘定奉行 深谷盛房 裁定

当時の勘定奉行の役職は 名前の如く 幕府の勘定を司る担当と、大名間等の争いの裁き等を司る担当が居ました。

即ち、勝手方 と 公事(クジ)方 です。それぞれ 2人ずつの4人です。

当時の公事方勘定奉行は 後に江戸の北町奉行をやった 遠山の金さんである遠山 景元(1793年生まれ) 、と

前職 京都町奉行の深谷盛房(1767年生まれ) でした。

 

争いは 備中(岡山県)の足守藩(備中守 木下利愛)と鉄山師 太田辰五郎との鉄を作る過程で出来る土砂災害に関してでした。

内容は 備中の高梁川上流での砂鉄採取による濁流で、下流にある足守藩の住民の被害と苦しみの訴訟である。

砂鉄採取の期間の短縮、中止なども求めたものである。

天保九年(1838)、倉敷代官所で 太田辰五郎の上流側と下流側の論争が行われたが、決着はつかず、江戸幕府の奉行所へと訴えられた。

上流側の太田辰五郎個人対 下流側は 大名の足守藩である。

但し、辰五郎は個人と言っても 太田家は、田畑の持高 二千余石、十指を超える鉄山を有し、「千両箱を飛び石にして江戸まで行く」と

言われる程の大資産家で、足守藩には 三万両もの大金を貸し付けていた程である。

天保九年(1838)十月十日、奉行 深谷盛房(71才)は、両者の言い分を聴いた。

「下流住民の代表 田島亀之助が土砂流出による被害と住民の苦しみ、を述べ。足守藩の大月善太夫が下流の住民の困惑と、藩の損害について」述べた。

つづいて辰五郎が「上流の住民の生活保護と 足守藩の損害については 相当な金を用立てている事」を述べた。

目を閉じたまま聴いていた奉行 深谷盛房は 殆ど 一言も口を挟まず、その日は それで閉廷した。

訴訟は 三年に及んだ。

足守藩側 : 備中に豪雨があって高梁川が氾濫し 下流の田地が 甚大な被害を被った事(額にして三千両以上)、

                    被害の度にその実害 及び土砂の取り除き費用を保障して頂きたい。

 

太田辰五郎 : 下流の洪水の被害は、上流での鉄穴掘りのせいばかりではなく、中国の山々に大雨が降れば、河川は氾濫し、堤防の破壊や

                       田畑の浸水は ございます。しかし、手前どもの鉄穴掘りのせいで被害を受ける田地は、買い取らせて頂きたい。

                       そして 土地を失った下流の者の生活は 鉄山の仕事を与えて引き受けましょう。

 

勘定奉行側 : 高梁川に接する松山藩、新見藩からは 鉄穴掘りの不平は出ていない事。

                      この件で 鉄穴掘りを停止させると これが前例となり 中国地方で行われている鉄穴掘りに対する訴訟が各地で起き、

                    鉄の生産に支障をきたし、 国が鉄を失い、諸国の農民の鍬、武士の刀等の生産が止まる事。

 

天保十二年十月十五日、勘定奉行 深谷遠江守盛房(74才)は、以上の事を勘案して、

足守藩の控訴を退け、これまで通り、高梁川上流での砂鉄採取の続行を認めた。

* 参考資料 :伝記 太田辰五郎


幕府のご意見番 深谷盛房に戻る

ルーツ発見の最初に戻る