吉   田(ヨシダ)

解説

諸国にこの地名ありて多数の氏を起こす

分派氏族

 

1,河内の吉田氏 丹比郡の吉田氏は、楠木家家臣 吉田兵庫頭の後なりと。

       又、交野郡の人、延元の頃、南家に従いて勤王せし士に吉田源八あり、

       下って永禄二年 交野郡総侍中連名帳に「津田村 吉田民部入道順覚、

       杉村 吉田大学進長朝」などあり。

       又、河内郡吉田村の名族にあり。殊に吉田思玄は、学を好み蔵書数千巻、

       書院を富景楼と名づく。片桐侯、江戸聖堂に倣いて和漢の書を寄せ、

       思玄、学田二百石を附す。

2,摂津の吉田氏 莵原郡住吉村呉田の名族にこの氏ありて、吉田内府定房の

       三男 藤田幸麿より出づ。延元二年三月、当地に下り住す。後 横田氏の

       娘を娶り二男三女を生む。子孫庶民となる。今に宸翰、勅書、宝剣を

       伝うと云う。

       又、武庫の名族にあり、油屋と云う。吉田善右衛門は、蘆田新田を開き、

       後また和田山を開拓す。

3,卜部姓 徒然草で有名な、兼好法師の流にして、地名辞書に「永延年中、

       卜部神祇大副兼延、吉田神社社務に補せられしより、裔孫、世々これを

       掌る。吉田神道家、即ち是なり。」 知譜拙記に、

  兼見−兼治−兼英−兼起−兼連−兼起−兼敬−兼章−良延−良倶−良連−良長−良熈−良義−良正、七百六十石 明治 子爵

4,算数家 − − 江戸時代の初め、山城国嵯峨野の人に吉田光由あり、九九の数の事を記した塵劫記(じんこうき)を著わす。

細川藩に仕う。父を吉田周庵と云う。

5,清原姓 吉田系図に「業忠(内昇殿侍従)−宗賢−宣賢(卜部兼倶の男)−兼右(吉田右兵衛督)」とあり。

6,藤原北家花山院家流 尊卑分脈に「花山院右大臣家定−定伊(寺僧正、吉田)」と。

7, 大蔵姓 幕臣 猿楽者 吉田喜太郎信好は、もと大蔵を称し、後、吉田を称す。

       ェ政系譜には、卜部姓に収む。家紋 丸に桔梗、左三巴。

8,伊勢の吉田氏 名勝志に「吉田氏砦址は、茂原村字木馬瀬(旧 桃ヶ原野)に

       あり、今耕地、山野地などとなれり。享禄二年、北畠氏の臣 吉田兼行

       始めてこれを築き、家士 木馬瀬勘解由をして居守せしむ。北畠氏滅亡

       後、その子 兼房、天正中 来たりてここに住す。兼貞に至りて他に移り、

       砦廃す。その子孫、今尚存せり」と。

9,佐々木氏族 近江国愛知郡吉田村より起こり、尊卑分脈に

       「佐々木秀義−厳秀(吉田右馬助)」と。又、佐々木系図に

       「秀義−厳秀(吉田六郎、山法師、家紋洲浜)」と。

       又、中興系図に「吉田。宇多源氏、佐々木源 秀義男 六郎厳秀これを称す」と。

その末孫 秀長(長秀、文次郎)、江戸幕府に仕う。

10,角倉流 医家にして、上記の裔なり。ェ政系譜に

       「秀綱−弟 宗綱−秀春−徳春(仁庵、名医、山城嵯峨角倉住、応仁

       二年卒)−宗林−光治−弟 宗桂(意安、明に遊びて明王の病を治す、

       一に意庵)−光好−弟 宗恂(意庵、家康に仕え五百石)−宗達(意安)

       −安恪−宗恪、家紋 三重扇地紙の内鳩酸草、角四目結」と。

11,赤穂義士 吉田忠左衛門兼亮は、藤原姓、二百石、郡代にして新月庵、

       白砂と号し、その男 兼貞は、十両三人扶持、近習なり。

12,丹波姓 −医家丹波康頼の後胤 典薬頭頼基より出づ。数代近江志賀に住し、

       始め志賀氏なりしが、浄勝に至り、外戚の家号 吉田を称すと云う。

       ェ政系譜に「志賀浄忠−浄勝(吉田)−浄慶(家康に仕う)、

       家紋 向梅、十六葉八重菊、五七桐」と。

13,清和源氏斯波氏族 尾張国愛知郡の名族にして、尾張志に

       「岩塚城(岩塚駅越前)の城主は、吉田長英の遠祖 歴代の内なるべし。

       長英は斯波武衡の一族たりしが、武衡家 衰微の後、長男 元氏に家督を

       継がせ蟄居して長英と称し、天文元年八月十三日卒す。かくて元氏は、

       織田信長公に仕えて永禄十一年九月十三日、伊勢国大河内の城に戦死す。

       その子 吉田九郎左衛門は、信雄公に仕えて、天正九年旧領 岩塚を領す。

       云々」と。

14,清和源氏信任流 これも尾張の名族にして、寛永系図には9項「吉田厳秀

       の二男 義久の裔」とし、ェ政呈譜には「清和源氏、新右衛門尉信任の

       末葉」とす。

       右京進某の男「主水家澄(信長に仕う)−家次−家隆(秀吉、後、尾州

       義直に仕う)−種久、家紋 丸に鳩酸草、巴文字」と。

15,尾張藤原姓 織田信長家臣 吉田時勝、その男 正時、家康に使う。

       家紋 丸に鳩酸草、下藤丸。

16,清和源氏足利氏族 − − 三河国吉田庄より起る。尊卑分脈に

「広沢太郎義利−義博(号 吉田三郎)−三河守和義−陸奥守棟義、弟 宮内少輔義幸」とあり。

子孫 出羽にありて、杼窪(栃窪)を名乗ると云う。

17,清和源氏武田氏族 − − 甲州の名族にして、尊卑分脈に

「武田太郎信義−左兵衛尉有義−有信(号 吉田、吉田太郎、又、号 塩部)−小太郎有朝

−又太郎有綱−弥六有政」とあり。

又、武田系図には「信義−有義(吉田の祖、吉田四郎)。家紋、花菱」とあり。

又、諸家系図纂に「(吉田)有義(信義の四男、号 吉田四郎、中宮侍長、右兵衛尉、従五下)

−有信(吉田太郎)−有朝−有綱−有政(吉田孫六)」とあり。

18,清和源氏信春流 − − 武田系図に「信有(改 信春)−成春(三郎、刑部少輔、号 吉田性光入道)」と。

又、諸家系図纂には「信春−成春(号 吉田刑部大輔)」と。

19,清和源氏大井流 武田系図に

      「大井陸奥守信明−春明−信家−信房−信包−信達−信常−信家(吉田八郎九郎)」とあり。

20,清和源氏得川氏族  − − 三河発祥にして、新田族譜に「得川三河次郎有氏−左衛門尉家氏−二郎益氏

−次郎太郎業氏−頼業(吉田左衛門尉、至徳二年、浪合の敗後、三河国に来り、幡頭郡吉田村に

住して、吉良東條右兵衛督に属す)−恒頼−頼親(吉田源太郎、吉良三河守義泰に仕う、

寛正二年八月五日死)−貞頼(七郎、斎宮助、吉良持清に仕う)−頼高(孫七郎、太郎兵衛、

吉良中務大夫持広に仕う、天文八年八月二日、今川義元、吉良東條を攻む。八面山にて主と共に討死)

−高信(左衛門尉)−安信(織田信雄、秀吉、尾張家歴仕)−政高(勘兵衛、尾州家五百石)」とあり。

21,松平氏族 ェ政系譜に「桜井松平の末流なり。家紋 九曜、裏桜」と。

       医師 吉田栄元忠寄、ェ永年間 幕臣となる。

22,幕臣義光流 − − ェ政系譜に「家伝 義光の庶流なりといえども、その分流の祖名を詳にせず。

下につらねし 吉川に至るまでこれに同じ。盛次(上総介忠輝朝臣に仕え、後、処士となる)−盛昌

−盛教−盛封−盛美−盛従−盛謙−盛郷(父に先立ちて死す)、家紋、抱茗荷、蔦」と。

23,清和源氏小笠原氏族 − − 家伝に「下條伊豆守信氏の末孫にして、始め 古屋を称し、中頃、

吉田に改む。吉田佐五右衛門忠雄は、江戸幕府に仕う。家紋、四菱、丸に二引」と。

24,利仁流藤原姓 − − 尊卑分脈に「墓崎後藤二惟峯(住 信濃国)−島田権守惟重−景重(吉田小八郎大夫)」とあり。

子孫、幕臣にありて、ェ政系譜に

「吉田。その先 藤原氏にして、鎮守府将軍利仁の後裔 吉田小八郎大夫景重の末流なり。後、

外家の氏 源氏に改むと云う。義盛−伴春(家宣に仕う)−春達−春良−春輝、

家紋、丸に一山、丸に九枚笹」とあり。

又、ェ政系譜に「吉田十兵衛直正(もと斎藤、外家の号により吉田に改むと云う、秀忠の御代、

御徒に召し加えられ 後、御太鼓役に転ず)−直久−直冬=順成−直英−直頼−直義−直辰−某(早世)、

家紋、轡十文字、五七桐」とあり。

25,清和源氏村上氏族 尊卑分脈に

       「頼信−頼清−美作守家宗−山城守清宗−宗季(大学助、吉田冠者)」と。

26,信濃の吉田氏 − − 当国諏訪郡の吉田山城(北大塩村)は、吉田某の居城と云う。

諏訪志料に「逸見兵衛尉有義の男 吉田太郎有信を始祖とす。甲州北山筋の吉田郷を領し、氏号を起す。

有信に二子あり、長男は 小太郎有朝にて、家名を相続せり。その男を又太郎有綱と云う。次は

有政 継ぐ、貞和四年の記に逸見孫六入道と あるは有政の事なり。応永中、式部少輔

吉田三郎成春入道性光なる者あり、老いて嗣なし。武田信春の次男を養子となす。これを

吉田但馬守と云う。子孫繁栄所在に分居す。中に吉田五郎右衛門と云う人あり、永禄以後、

諏訪郡代の令吏を永勤せり。その男 馬之助、天正中 浪人し、田沢に住居、帰農す」とあり。

又、当国の儒者に吉田鵞湖あり。

27、武蔵の吉田氏 − − 当国幡羅郡四方村の吉田氏は、祖先を吉田紀伊守元国と云い、成田下総守長康に

仕えて、数々戦功ありと云う。当郡葛和田村の民 江里川十郎左衛門の古記に

「長康。吉田紀伊守、江里川左京亮の両人をして、成田家七騎の旗頭を命じ、越後国へ

援兵たらしめし時、景勝と戦いて、吉良須坂にて 両人共に討死す」とあり。

又、新編風土記に「足立郡寺谷村の名族にありて、先祖は 小沢木工進とて、成田下総守の

家人なりしが、天正十八年の戦争に、武門を捨て、幡羅郡四方寺村に住す。後、

大河内金兵衛に所縁ある故に、金兵衛、木工進の次男 孫三郎に命じて 当所を開墾せしむとなり。

又、いかなる故にや、この頃より 氏を吉田と改めし」とあり。

又、江戸時代中期、吉田宗以(市右衛門)あり、92歳没。53歳で幡羅郡下奈良村(今、

熊谷市下奈良)の名主となる。善行により勘定奉行より白銀5枚を賜る。その子 宗敬、

その子 宗敏、その子 宗親。代々 市右衛門を名乗り、代々の慈善家なり、天保飢饉には、

一万両を献上し、慈善事業を行い、貧民救済など 枚挙にいとまなく、特に宗敏は、贈正五位なり。

慈善家として名高し。

よって、新編風土記に「下奈良村 褒善者、吉田市右衛門、公より、苗字を名乗り 帯刀をも

御免ありし者なり」とあり。

又、当国榛澤郡の地頭に吉田與右衛門正景あり、深谷上杉家に仕う。

又、桜沢村の吉田氏は、風土記稿に「本家は 秩父郡にありて、次左衛門と云う者なり。

分家せし年代は 伝えず。先祖 和泉守と云いし者、北條氏に仕えて、数々軍功有り。氏政の

感状二通、本書は秩父郡にあり」と。

又、男衾郡の鉢形城士に吉田源太左衛門 あり。

又、荏原郡大井村の嶺雲寺 中興の開基は吉田半左衛門重房と称して、境内に墳墓あり。

その碑陰に「重房は 越前の人なり。故ありて相州粕谷に来りて住居せしに、後、当村に

移りて村民になり、当寺を開基し、万治三年五月二十一日、享年 六十五にして死せり」とあり。

又、久良岐郡に吉田新田あり、伝え云う「万治二年、江戸の材木町の商人 勘兵衛、願い上て、

大丸 小丸二山の土をもて、四方に長さ三千五百五十間余りの堤を築き、入海を埋めて新田を開けり。

大丸は 中村、小丸は 太田村にあり。功終って後、己の苗字 吉田といえるを以って、即ち、

新田の名とす。勘兵衛、この功によりて、苗字を名乗り 帯刀することを許さる」と。

28,有道姓児玉党 − − 武蔵の名族にして、七党系図に「吉島行保の子 保弘(吉田二郎)」とあり。

又、「小代遠広−遠平−俊平(吉田小二郎)」とあり。

武蔵国児玉郡に黄田郷ありて、地名辞書に「今 吉田林あり、吉田は 黄田に同じかるべし。

生野山の西面にあれば、児玉町、及び金屋、真下、浅見など、皆、黄田郷の城内にして、

本郷は やがて、児玉の別名とも謂うべし」とあり。

又、この地名を名乗りしもあらん。 

29,上野の吉田氏 北條氏政 花押文書に吉田和泉守 あり

       又、明和の変、山形大貮と好みありし、吉田玄蕃は当国小幡 織田信邦

       の老臣にして、罰せられる。

30,桓武平氏大掾氏族 − − 常陸国那賀郡の吉田郷より起る。今、茨城郡に入る。

大掾系図に「為幹(常陸大掾)−繁幹(上総介)−清幹(吉田次郎、摂津権守)−盛幹(吉田太郎)

−幹清(吉田太郎、大戸の祖)−広幹(吉田太郎)−行幹(吉田太郎)−有幹(吉田太郎)」とあり。

又、新編国志に「吉田。茨城郡吉田郷(昔、那賀郡の地)より起る。多気義幹の二子 清幹に出づ。

清幹、次郎と称し、那賀郡吉田郷に居る、よって氏となす。その長子 盛幹 太郎と称し、弟を

忠幹、成幹と云う。盛幹の二子に幹清、宗幹あり。幹清 又太郎と称す。又、二子 広幹、盛朝あり。

広幹 吉田太郎と称す。その子 有幹あり、又 太郎と称す。後、その世系 詳かならず。蓋し、

吉田氏、数世以後、勢力振るわず、応永中に至りて、わずかにその嗣を存するのみ。是を以って、

鹿島大使の如きも、石川氏、概ね、その役に供す(税所文書)」とあり。

31,常陸の吉田氏 − − 当国茨城郡に吉田郷あり、又、茨城郡の吉田村に式内 吉田神社あり。

これらを縁にして氏とするものも あらん。

長福寺文書に「吉田郡恒富郷塩崎村内、吉田大禰宜恒成知行分、応永九年云々」とあり。

又、六地蔵過去帳に「吉田彦太郎、吉田彦六」等の名あり。

又、江戸時代 水戸藩の学者に吉田尚典あり、愚谷と号す、その子 平太郎令世(平担)は、

活堂と云う。学 和漢に亘る。

32,磐城の吉田氏 − − 当国磐城郡好間(ヨシマ)村の熊野神社神主家は、吉田氏と云う。

又、天文二十年の飯野八幡宮の鐘銘に「平本願 吉田十郎兵衛」とあり。

33,桓武平氏畠山氏族 − − 陸奥の名族にして、畠山重忠の裔、浄法寺氏の族なり。伝え云う

「浄法寺氏の家別れ、松岡、太田、吉田、駒嶺」とあり。

天正の頃、吉田兵部あり、九戸政実に属す。

34,秀郷流藤原姓 羽後国平鹿郡吉田村より起こる。小野寺氏の一族にして、

       吉田孫市郎陳道は、吉田城に拠る。

35、出羽の吉田氏 − − 佐竹家臣に吉田藤右衛門里仲(少室)あり、儒者として名あり、蒲洲と号す。

その男 藤右衛門(源蔵)里美(千秋)は、謙斎と号す。又、名あり。

36,越後の吉田氏 − − 当国頚城郡に吉田庄あり、この地名を名乗りしもあらん。

戦国時代、長尾為景の時、直峰城主に吉田周防守英忠あり。

又、明治になり、吉田東伍あり、日本歴史地理学の先達「大日本知名辞書」を著わす。

37,佐渡の吉田氏 − − 佐州役人附に

「清和源氏、吉田九兵衛、吉田林右衛門。源姓、吉田七左衛門。藤原姓、吉田官蔵」と。

38,利仁流藤原姓 − − 越中の名族にして、井口氏より分かれると云う。

又、江戸時代後期、新川の画家に吉田公均あり、花鳥風月画は有名。

39,加賀の吉田氏 − − 加賀藩給帳に「七百五十石(紋、州浜)吉田左近右衛門。五百石(丸の内に州浜)吉田左門。

三百石(井桁の内に州浜)吉田才一郎。四百五十石(藤丸の内にウケ《梅か》)吉田錫。

二百五十石(藤丸の内にウケ《梅か》吉田孫之丞。百五十石(藤丸の内にウケ《梅か》吉田藤馬。

二百石(丸の内に片喰)吉田清三郎。百五十石(丸の内に五柏)吉田喜十郎。

百二十石(丸の内に州浜)吉田半蔵。百石(丸の内に花菱)吉田廉三郎。

百五十石(丸の内に片喰)吉田判太夫。百石(丸の内に花菱)吉田鑑十郎。

二十人扶持(丸の内に古文字)吉田道碩」とあり。

40,越前の吉田氏 秀康卿給帳に「一万四千石(内四千石 与力、御普請与頭)

       吉田修理。六十七石五斗八升五合 吉田万右衛門」とあり。

       又、幕末、福井藩の名士に吉田梯蔵篤あり、東篁と号す。

41,行司家 − − 伝え云う「初代 吉田追風は、善左衛門家次と云う。福井の人なり。初め、

聖武天皇の頃、相撲の式を定めし時、志賀正林、功有り。後、故ありてこの家に寄食し、

その式を伝う。よりて家次に至り、後鳥羽帝に召されて、五位、豊後守に任ぜられ、

一味清風の宸筆を賜う。子孫 二條家に仕え、後、肥後の細川家に仕う。永く、

横綱免許、行司の任免を掌る」と。

吉田司家の資料によると、『文治二年、それまで「中断」されていた相撲節会復興に祭し

相撲の故実旧例に詳しい吉田家始祖豊後守家次を後鳥羽天皇より召され相撲節会の典儀を

故実旧例に従い無事勤め、「国技の古き伝統を守り伝えよ」という訓を「追風」の号に託し

獅子王の団扇とともに賜り、相撲の司として今日まで国技相撲道の普及、発展に尽力す』と。

42,丹波の吉田氏 − − 当国天田郡の名族にありて、丹波志に「吉田氏。子孫 牧村。先祖 医業にて

六人衆に従いて、駿河国より来る家なり」と。

又、氷上郡北由良の名族にあり。八木城主 別所吉治の家老の吉田孫兵衛は、卜部姓と云う。

43,但馬、因幡、伯耆の吉田氏 但馬大田文に吉田大納言、

       又、鳥取の金工に吉田次郎八武親(本姓 高埜氏)あり。

       又、鳥取藩士 吉田直人保実(穴山梅庵の男)は、勤王家にして、贈 正五位なり。

又、大永の頃、尼子氏の将に吉田筑後守あり、伯耆国會見郡の尾高城に拠る。

44,出雲の吉田氏 − − 当国の飯石郡、能義郡に吉田の地名あり、この地名を名乗りしもあらん。

宇多源氏 佐々木の一族 出雲、伯耆等の守護を兼ねる。

佐々木系図に「富田四郎左衛門義泰−羽田井六郎頼秀−二位法眼祖雄(号 吉田)

−秀頼(六郎左衛門、吉田)、弟 清秀(寛正の頃、八郎左衛門、雲州 吉田庄内

恒名の地頭)−貞秀(吉田四郎)」とあり。

常徳院江州動座着到に「一番、雲州 佐々木吉田右京亮」とあり。

見聞諸家紋に「吉田、洲浜」とあり。

又、安西軍策に「吉田筑後守、舎弟 左京亮」、「大江の城には吉田左京亮の嫡子 肥前守」等の名あり。

又、尼子氏 最後の上月城 籠城の武士に吉田三郎左衛門あり。

又、出雲大社の祠官 吉田意休は、明国に渡り、刺鍼を学ぶ。その子 意安、その子 一貞、

吉田流鍼穴法を広める。尚、一貞は、後、越前国の福井に住すと云う。

45,赤松氏族 − − 太平記 巻二十九に吉田弾正忠盛清あり。

又、天文年間、吉田壱岐長利あり、壱岐或いは 水安(翠安)と号す。初め、黒田美濃守職隆に仕う、

後、孝高に仕う。父は、飾東郡八代村の人、八代六郎左衛門と云う。長利が吉田を名乗りし故は

「黒田の家臣に赤松一族 吉田の末流なる吉田喜左衛門と云う者あり。人品よかりれるにや。

孝高第一の家臣たり。彼が姓を用うべしと仰せられける故、本姓を用いずして吉田を用う」と。

その子 重成、朝鮮の役に功あり、二千石を食む。晩年、黒田隆政に仕え、四千石を賜う。

その男 和年なり。

46,御神本氏族 − − 石見の名族にして、 御神本(ミカモト)兼季の裔なり。石見志に

「美濃郡上吉田屋敷は、吉田入道の居所、益田秀兼の男 吉田兼家の一族なり」とあり。

又、石州銀山紀聞に「山大工 吉田與左衛門、吉田藤右衛門」とあり。

47,美作の吉田氏 勝北郡上野田村 服部氏文書、ェ文十一年の長継 花押書に

       吉田平兵衛、元禄に吉田松太郎などあり。

       又、森家臣に吉田作平、

       又、津山藩分限帳に「五十五石 吉田権平、五十石 吉田保雄、四十五俵

       吉田兎助」などとあり。

48,備後の吉田氏 − − 当国三次郡櫃田村の道迫山城は、文禄中、吉田新三郎高吉の所居と云う。

又、福山阿部藩の年寄に吉田氏あり。又、同藩士 新居繁興の男 豊辰は、吉田助左衛門と称すと云う。

49,安倍姓 − − 伝え云う「安芸国豊田郡大草村の名族にして、先祖は 安倍兵衛有政と呼びて、

晴明の後なりと云う。有政、土肥次郎実平に従いて、この地に来り、当郡の和木村に居りしが、

その後、有祐と云う者、小早川隆景の時、大草村児田と云う所に第宅を賜う。後、又、大具村、

及び世羅郡の上徳良村とに分家して、三児田と呼ぶ。貞享二年、上京して官職を受け、

陰陽家となる。有祐より大隈まで、凡そ 十五代ばかりなり。天明年中 火災に遭い書記を

失うと云う」と。

50,安芸の吉田氏 − − 諸家系図纂に「大膳大夫信賢の二男 基綱、号、吉田。又、武田、従五下、安芸守、

無双大力の勇者、安芸国の代官」とあり。武田の族の吉田氏なり。

又、芸藩通志に「紙屋町桧物師。先祖 吉田彦左衛門房重、明応の頃より 世々 桧物細工を業とす。

三世 彦左衛門為従、慶長の頃、藩家に紀伊に従い、四世 彦左衛門行久、元和中、紀伊より

本府に移る。その後、七代を経て今の文槌に至る。凡そ 十二代、旧業を以って国用に供す。

今、口糧を賜う。二世 彦左衛門、甲斐にあるの日、所賜の画扇二面、今に蔵せり」と。

51,藤原姓行成流 藤原行成の裔と伝え、始め松野と云う。松野平助は、織田信長に仕え、その男

玄蕃重基に至り、吉田氏を称す。大阪城士にして、戦死す。その男「十郎左衛門重賢

−重矩(初名 重次、出雲藩士 三島通種の三男、毛利公に仕う)−十郎左衛門矩行」にして、

矩行の五世孫 賢良の男 寅次郎矩方(大次郎、字 義卿) 即ち松陰にして 松下村塾を

       開き、高杉晋作、木戸孝允ら多くの志士を生む。安政大獄で刑死。

52,防長の吉田氏 − 長門国厚狭郡に吉田村あり、この地名を名乗りしもあらん。

大内有名衆帳に「奉行人 吉田右衛門尉」とあり。

又、福井八幡宮 明応十年文書に「吉田上野守重兼」あり。

又、幕末、勤王家に吉田年麿秀実あり、贈 従四位なり。

又、吉田庄助篤之も勤王の志士なり。

53,紀伊源姓 − − 紀州日高郡矢田庄の名族にして、同庄の吉田村より起る。その城跡は 八幡山の内 城峯にあり。

吉田蔵人の城跡と 伝えられる。正平十四年の道成寺鐘銘に「檀那 源万寿丸、並びに吉田源頼秀」とあり。

又、天授二年二月の鬼瓦銘に「檀那 吉田源蔵人頼秀、二男 源金毘羅丸」とあり。

54,熊野別当族 − − 紀州牟婁郡の吉田村より起る。熊野別当 泰救 五代の孫 範智の弟を範秀と云う。

当村に来り 住し、富田法橋と号す。範秀の孫範盛も富田に住して、吉田少将と云い、

富田南荘を領す。続風土記 富田荘條に「中古 熊野権現の社領なり。旧は 荘 二つに別れて、

南荘、北荘と云い、南荘は 内川修理大夫、北荘は 吉田某、ここを掌りし」とあり。

又、熊野別当系図に「富田法橋範仁−範盛(吉田法眼)」とあり。

55,紀伊の吉田氏 名草郡藤白浦藤白若一王子権現社の神主に吉田氏あり。

       又、天正十二年豪士衆判連書に「吉田村 吉田右衛門作、同村 吉田孫大夫」とあり。

       又、在田郡広荘広村 覚圓寺は、畠山の家士 吉田喜兵衛実景と云う者の

       建立と云う。また、地士 六十人の内に吉田安右衛門あり。

       又、那賀郡神戸村 地士に吉田次助など多し。

56,土佐の吉田氏 − − 当国長岡郡に吉田村あり、この地名を名乗りしもあらん。

室町時代の初めに 吉田備中守周孝あり。足利尊氏の時より 吉田村に居りて 累世 長岡郡の十四ヶ村を領す。

戦国時代は 長曾我部氏に属し、数々戦功あり。よって 元親の家老分に

「吉田備中守、吉田次郎左衛門、吉田伊賀守」などあり。

又、若手家老分に「吉田弥右衛門、吉田三郎左衛門」などあり。

又、天正十年八月、元親、阿波の森飛騨守高次の渭山城を落として、吉田康俊を城代とす。

しかし、同 十三年、豊臣秀吉の軍により落城す。

又、幕末、吉田正秋あり、東洋と号す。私塾を開き、後藤象二郎、板垣退助、福岡孝弟等を指導す。

また、藩主 山内容堂に認められ 藩政改革を推し進めるが土佐勤王党の者に殺される。その子 正春。

57,少貮の吉田氏 − − 武藤系図に「頼平四男 宗平−頼安(左衛門尉)−資時(吉田四郎、左衛門尉、

弘安四年 蒙古戦、壱岐島前に於いて討死)−資家(右衛門尉)−景村(吉田小次郎、有智山にて

討死)」とあり。

又、筑紫系図に「頼平−宗平(武藤刑部丞、在京)−頼安(同左衛門尉)−資時(吉田四郎左衛門)」とあり。

58,筑前の吉田氏 − − 宗像社権少宮司、及び殿上職に吉田氏あり、共に藤原姓と云う。

又、遠賀郡内浦郷の地頭に吉田氏あり。

又、軍記略に吉田又五郎あり、元亀の頃の人なり。

又、黒田藩の儒者に吉田源之助全あり、磐石と号す。

又、御笠郡隈村の人 田中清助の二男に 吉田重藏あり。初め重吉、実名は良秀。

勤王派の平野国臣らと親交、後、討幕運動に参加するため妻子を残して、自ら除籍。

母方の姓(吉田)を名乗って上京するも、捕縛され、元治元年七月、刑死す。従五位を贈られる。

59,藤原姓説 − − 筑後の名族にして、草野系図に「上妻次郎兵衛尉家能の弟 家基・吉田三郎」とあり。

又、吉田系図に「下総守家秀−家宗(上妻次郎太夫)、弟 家基(吉田三郎、一に家職、

或いは家元と書す)−能茂(吉田小三郎、法名 足阿)」とあり。

又、筑後国史に「百錬鈔 延応元年五月條に左衛門尉能茂法師あり。この間 系統・

考ふる所なし」とあり。

60,肥前の吉田氏 藤津郡に吉田村あり。淀姫社貞和七年三月二十一日文書に

       吉田藤二郎、深堀文書、観応二年に吉田彦次郎など見え、

       又、渋江系図に「公勢の男 公政、母は吉田右馬大夫の娘」と。

       又、長崎の書家 吉田晩稼 名あり。

61,児玉党 小代(オシロ)氏族 − −小代系図に「小次郎俊平(法名 生蓮)の二男 俊光、吉田三郎と称す」とあり。

62,肥後の吉田氏 − − 菊池氏の家臣にあり。嘉吉三年の菊池持朝侍帳に

「吉田式部少輔公貞、吉田清左衛門守俊、吉田駿河守友定」とあり、

又、永正元年の菊池政隆侍帳に「吉田左衛門公也、吉田新十郎公棟」とあり。

又、同二年の連署に吉田左衛門尉公世の名あり。

63,息長(オキナガ)姓 − − 薩摩国鹿児島郡(もと大隈姶羅郡)の吉田郷より起る。

息長姓は、その祖を日本武尊とも 開花天皇とも云う。

地理纂考に「吉田郷は 旧 姶羅郡に属せしを 天正十五年、鹿児島郡に隷けり。

往古 大蔵行忠、数世 吉田を領す。天仁三年正月、大隈国国府郷八幡神社の執印 行賢、

吉田を奪い 八幡の神領とす。既にして源為重に譲り、為重、これを外孫 長太夫清道に譲る。

清道は 吉田を家号とし、その子 吉清、右大将頼朝に仕う。吉清より九世の孫 吉田清正は、

島津元久に従いて京師に上り、能登守に任ず。後に島津久豊の執事たり。永正十四年、

清正より五世の孫 吉田若狭位清、吉田城に拠って謀反す。同年二月十二日、島津忠隆、城を攻む。

位清 力尽きて降を乞い、十四日に城を開け渡して、薩摩出水郡の山門院に走る」とあり。

吉田氏系図に「姓 息長、家譲名は 清、元 吉田、一応 吉川氏を称し、また旧氏に復す。

庶家 吉田と称する際に分れしは、吉田氏と称し、吉川氏と云いし時は、吉川氏と称す。

定紋、輪内三蝶」とあり。

64,薩摩の吉田氏 − − 他のも上記の吉田郷の地名を名乗りしもあらん。

薩摩藩士に吉田清成あり、幕末 明治に功多く、子爵を賜う。その子 清風。

65,宗氏族− 対馬の名族にして、天文十五年、宗氏の族にして仁位郡にあるもの、

       仁伊、峯、吉田、波多野などの諸氏に改む。(宗氏家譜)

66,傀儡師人形遣 人形遣い 吉田徳蔵の男 玉造、浪花にて名人と称せられる。

       二代 玉造(佐々木熊次郎)は、明治時代 名高し。

       又、吉田文三郎冠子は、狂言者としても名あり。

67,幕臣 − − 吉田良徹、ェ永年間 御家人となる、家紋、丸に打違鷹羽、角四目結、巴の古文字。

又、吉田梅庵郷直あり、家紋、三地紙の内に鳩酸草、四目結。

又、鍼(針)医に吉田兼則(秀清)あり、ェ政系譜は、藤原姓に収む。家紋、丸に三柏。

又、駿河大納言忠長の家臣 吉田主税正明の男 孫三郎正勝、幕臣となる。藤原姓、

家紋、蔓柏、向こう梅。

68,医家 筑後の人 吉田自庵昌全は、もと坂田氏、長崎の医師 吉田安齋鉅豊(

       自休)の嗣となり、南蛮派の瘍医として名高し。ェ政系譜に

       「昌全(自庵)−昌建(自碩)、家紋 丸に桔梗、茶の実」と。

       又、芸者書附に「二百俵、医師 吉田永元、今程二百五十俵寄合」、

       「二百俵 医師吉田一庵、今以って同高、小普請 吉田宗益」などあり。

       又、江戸の医師に吉田林庵宗山あり、水戸侯に仕う。

       又、良医に吉田順昌あり、空雲と号す。

       又、幕臣 馬場兵右衛門の三男 成徳は、叔父 吉田長肅の養子となり、

       長叔と称し、蘭馨と号す。蘭医として名あり、門人 中條言善を嗣とす。

69,他 


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