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横 溝(ヨコミゾ) |
解説 |
数流あり 滋賀県愛知郡湖東町、福岡県三潴郡大木町にこの地名あり。 |
分派氏族 |
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1,藤原南家工藤氏族 − − 工藤景隆の二子 時隆を祖とすと云い、日向記には
「維景の次男 景任、甲州の工藤、石岡、布施、松尾、横溝などの元祖
なり」と。
2,奥州の横溝氏− −上記の族にして、工藤氏と共に 糠部郡などを領す(南部文書)と。
建武元年四月、多田貞綱花押の書に「糠部郡 関所の事云々、三戸横溝
新五郎入道跡」とあり。
又、横溝六郎入道浄圓、横溝孫次郎、横溝彦三郎祐貞、横溝弥五郎入道
など諸書にあり。
又、建武二年九月六日の修理亮沙弥判書に「横溝孫六重頼申す、糠部
南門内、横溝六郎入道跡、中里村の事。伊達彦五郎辞退地なるの由、
注文に載せ候間、先日、重頼に宛て行われ候云々。南部又次郎殿」とあり。
3,筑後の横溝氏 − − 河原氏文書に「将軍家 政所下す、筑後国三瀦庄内、高三瀦村
の住人 地頭職に補任する事、横溝五郎法印(法名 生阿)。右地頭職、
先例を守り、御沙汰の状、仰する所 件の如し。正元元年十二月二十六
日、安主清原、知家事清原、令 左衛門少尉藤原、相模守平朝臣御判(
北條重時)、武蔵守平朝臣同(重時の子 長時)」と。
又、「異賊合戦(蒙古)勲功の事、追って御計らいあるべきの状、仰に
より執達 件の如し。正応六年正月二十五日、花押、陸奥守(花押)、
相模守(花押)。横溝馬次郎資為殿」と。
4,他
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