矢   野(ヤノ)

解説

出雲国神門郡・播磨国赤穂郡・備後国甲奴郡・伊予国喜多郡

に矢野郷ありて、也乃と註す。その他 伊勢 武蔵 阿波 豊後

などに此の地名あり。

分派氏族

 

1,平姓 伊勢国一志郡矢野村より起こり、矢野城に拠る。中興系図に「矢野。

       平姓」と載せ、太平記に「矢野遠江守。伊勢の矢野下野守」などとあり。

2,美濃の矢野氏 平野庄山王社 往古の社家に矢野氏あり。

       又、新撰志、池田郡白樫村條に「村内に矢野五右衛門と云う者あり。

       関ヶ原の役、宇喜田秀家、この家に潜伏せしと云う。矢野五右衛門の

       子孫 連綿として、今の戸主を矢野源三郎と云う」と。

3,滋野姓 中興系図に「矢野。滋野、本国信濃、望月三郎重俊の男 対馬守清重これを称す」と。

4,相模の矢野氏 鎌倉大草紙に「矢野兵庫助を大将として、川越の城 押えの為に若林と云う

所に陣を取る」と載す。

       又、矢野小二郎などあり、犬縣上杉氏に従う。

       又、相州兵乱記に「長尾孫太郎の名代に矢野安芸入道」あり。

       又、深谷上杉氏の譜代に矢野左馬允あり。

5,武蔵の矢野氏 − 建武二年十一月九日文書に「矢野伊賀守入道善久跡、所領事。

須恵郷(比企郡内)、小泉郷(男衾郡内)、片楊郷(足立郡内)、久米宿在家六間(多東郡内)」とあり。

又、男衾郡本田村の教念寺 康安の寄付状に「武蔵国崎西郡鎌塚郷 矢野加賀小次郎、

同又五郎、知行跡半分の事、寄付するところの状件の如し。康安二年六月六日、

左兵衛督源朝臣」とあり。

又、新編風土記、橘樹郡上菅生村條に「里正、丈右衛門の蔵する文書に上菅生郷

矢野左馬助の知行分を岡本、小栗の両人にあづけおきしかば、彼の指揮をうくべきよし、

本多佐渡守正信がこの村の名主 百姓等に命ぜし事あり。されば矢野左馬助と云いし者も昔、

この地を領せしと見ゆ。この人は北条家の家人なりしや。かの所領帳に矢野彦六と云いし者、

神奈川を領せし事 見ゆれば、かく程近の地にて同姓の人 領せしよしなれば、

方々 一族にてもありしか」とあり。

又、府内備考に「矢野弾左衛門の宅地(新町)。新町は 今戸町の西の方、山谷堀の北にあり、

弾左衛門の宅地なり。昔は日本橋の室町辺に住せしが、御入国の後、ここに移されしと云う。

この弾左衛門の先祖は、摂州池田の産にて、相州鎌倉に来て、右大将頼朝に仕えて、

証文を賜り、子孫いずれの頃にや武州江戸に来り、天正十八年、御入国の時、その時、

弾左衛門、当国府中まで出で、鎌倉より代々役を務むるよし、申し上げしにより、

御役等 元のごとく命ぜられしと云う。この町内に猿屋町と称する所あり。彼の手下にて、

猿を背負い編み笠かぶりて、市中を米銭乞い歩く者の住居なり。こは昔、鳥越猿屋町に

住せしを彼の辺 御用地となりし頃 移されしと云えり。享保四年、弾左衛門が町奉行へ

書き出せし由緒の書あり」と。

6,丹後の矢野氏 注進丹後国 諸庄郷保惣田数目録帳に「與佐郡、日置郷六町

       一段三百二十歩内、二町三反四歩、矢野藤左衛門」と、見え、後世

       竹野郡吉永城は、矢野兵衛佐の居城なり。丹後三家物語にあり。

       又、與謝郡に矢野弾左衛門の後裔と伝わる者あり、父を重頼と云うとぞ。

7,清和源氏山縣氏族 − −播磨国赤穂郡の矢野庄より起る。

尊卑分脈、山縣流、上有智(カミウチ)蔵人頼保に「播磨国矢野下司相伝」とあり、

中興系図に「矢野。清和、本国 播磨矢野、上有智蔵人頼保これを称す」とあり。

山縣国直の後、頼清の孫 頼保の裔なり。

8,美作の矢野氏 − − 矢筈城主に矢野氏あり、その裔、上中下の矢野を称すとぞ。

9,加賀の矢野氏 − − 加賀藩給帳に「三百五十石(紋、抱柏)矢野判太夫」とあり。

10,芸備の矢野氏 − − 芸藩通志 広島府塚本町故家條に「矢野屋。先祖 九郎右衛門宗孝は、

矢野十左衛門宗綱の子なり。宗綱、朝鮮の役に死す。宗孝は、秀次の近臣たりしが、

天正十九年 浪人して本府に来り、今の宅に居る。その子 吉右衛門、以後商売となる。

今の庄三郎まで九代」とあり。

11,周防藤原姓の屋野氏 海東諸国記に「正吉。戌子年、使いを遣わし、来たりて

観音現像を賀し、書して周防州上関守 屋野藤原朝臣正吉と称す」とあり。

12,橘姓光季流 − − 阿波国名東郡の矢野村より起る。系図に

「橘光季十二代 矢野安芸守宗好(文明)−駿河守時信(天正七年十二月二十七日、

脇城外討死、盛徳院殿慈雲香林大居士)、弟 備後守(矢上城主、天正十年八月二十八日、

中富川にて討死、そこに墓あり)、弟 太郎次郎(伊予国河上半田村住居、

父 同所に討死)、弟 伯耆守」とあり。

又、「時信−肥後守時永(天正八年七月五日卒、顕性院殿寂室浄清大居士)−三郎兵衛時正

(父 肥後守討死の時 九歳也。元和八年八月九日、宝林院阿覚了底居士、子孫 矢野村住)」と云う。

細川両家記に矢野伯耆守の名あり。

又、故城記、坂東郡分に「矢野殿。橘氏、家紋、松皮竹の丸」とあり。

13,讃岐の矢野氏 − − 全讃史に「土井山城は、大麻村にあり、矢野丹後ここに居る」と。

又、「引田城は 元亀三年、寒河丹後守元隣、阿波の三好氏の迫る所となり、退いて

畫寝城に居る。而して 外記、また去りて阿州に行き 福井の武田氏よりて居る。

然る後、三好氏 更に矢野駿河守をしてこれを守らしむ」と。

駿河守は、一説に三武とあり。天正七年、長曾我部氏に討たれる。

14,越智姓説 − − 伊予国越智郡(和名抄に、乎知とあり)の名族なり。

伝え云う「玉守は、伊予大領 守興の第二子、弟 玉澄(又は純)は、兄 玉守の命により

家督を相続して、高縄山の麓 河野に居り、河野氏の元祖となる。玉守も また

父 玉興の命により、神野郡に館を経営して居る。矢野氏の元祖となり、

又、新居殿と号す。越智家 分かれて河野、矢野の二氏となる始めはこの時に起る。

玉守、新居・宇摩の二郡を管領し、又、王同浜鎮座大神(一宮大明神)の神主職を兼ねる。

太宰少弐広嗣、西府に反す。ここに於いて大野東人を以って大将軍となし、これを追討す。

この時、河野玉澄、矢野玉守、勅を奉じて西府に発向す。而して日をならずしてこれを

誅伐し、武略の誉れを得る」と云う。

系図は「玉守−益興−益連−実連−実遠−実幸−実保−貞保−遠保−親保−親実−親友

−親秀−親国−親信−親義−親貞−親清−清貞−道貞−通家−家貞−豊貞−豊昔−豊純

−豊寛−豊教−教貞−教時(応永の頃の人)」

又、云う「弘仁年中、実遠、越智姓を改めて橘姓となる、以来連綿たり。実遠より

教時に至る二十五世也」と。

15,伊予橘姓 喜多郡矢野郷より起こる。小鹿島系図に

       「遠保(遠江守)−行順−貞高(因幡橘太、伊予国矢野先祖)」とあり。

       又、温故録に「大陰城は、下須戒村にあり。矢野常陸守正秀、その子

       常陸介正基、その子 出雲守正高、元和五年八月二十五日卒す」と。

       又、「水上城は、出海村にあり。兵頭権頭頼方より十六代の孫 石見守、

       天正十三年、下城して当村の庄屋となる」と。

       又、「松城は 大竹村に有り。矢野若狭守行定、その子 三郎右衛門行森

       居る。本国は和泉国なり」など見えたり。

       又、河野分限帳に矢野左馬允を載せ、

       又、宇都宮房綱侍帳に矢野源左衛門あり。

       下って、西條の人 矢野政信の男 理平義道は、儒学に秀で、拙斎と号す。

       その子 道坦は、容斎と号す。

       又、平田篤胤門の国学者に矢野茂太郎玄道あり、大学中博士、後、

       宮内省に入る。

16,豊後の矢野氏 − − 当国玖珠郡に矢野村あり、山田郷の井原の地にして、伝え云う

「延喜の頃、当郡の郡領 矢野久兼(久包)なる者この地にあり。清原正高、

その娘を娶り、政道を生む」と。

17,大友氏族 − − これも豊後の名族にして、一本大友系図に

「大友四代 親時−貞宗、弟 政親(矢野対馬守)−政広(大吉丸、子孫多し)」とあり。

又、政親の弟 「重政(矢野太郎左衛門尉)−重房(矢野九郎)−通重(丹波守)−信重」と。

18,三善姓 三善系図に「康信−行倫−倫重(矢野外記大夫)−倫長」とあり。

       東鑑に矢野外記大夫、矢野和泉前司の名あり。

       又、中尊寺建武元年文書に「奉行 矢野豊後権守景倫」などあり。

19,他 


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