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山 脇(ヤマワキ) |
解説 |
千葉県富津市、静岡県静岡市、同県榛原郡榛原町、愛知県額田郡 幸田町、滋賀県東浅井郡湖北町、兵庫県佐用郡作用町、同県 赤穂郡上郡町、奈良県奈良市、香川県仲多度郡仲南町、同県 大川郡志度町、鹿児島県揖宿郡頴娃町にこの地名あり。 |
1、讃岐の山脇氏 − − 当国の名族にして、全讃史に
「山脇城は、山脇村にあり。山脇左馬亮久友 及び図書助ここに居る」とあり。
2、備後の山脇氏 − − 奴可郡の名族にして、芸藩通志に「入江村 山脇氏は、先祖 山脇治兵衛、
宮氏に仕え 禄四千石を受く。宮 広尚、出雲に移る時、胎児の侍婢を与う。男子を産みて、
平左衛門と称す。今の忠助は その後なり。恵蘇郡川北村に分家あり」と。
3、摂津の山脇氏 − − 荒木村重の配下の勇将に山脇源太夫重信あり、後、池田勝入に仕う。
岡山池田藩重臣にこの氏あり。
4、医家 − − 伝え云う「その祖 山脇正節は、織田信忠に仕え、その男 道作玄心、曲直瀬正頼に
学び侍医となり、法院に叙せらる。五朝に歴仕し、功多し。甥 玄修、家を継ぎ、更に
清水尚徳を嗣とす。これ近世医学の泰斗 山脇東洋(尚徳)にして、元、丹波亀山の人、
清水東軒の子なり。享保十一年、朝廷の医官 山脇玄修の養子となり 翌年 その家を継ぐ。
時に歳 十三、これ性、学を好み、博覧強記なりしによる。一日 林東溟の塾に遊び、
史記の論読を聞きしが、東洋その文を暗誦して諸生を驚かせ、談梅花の詩に及ぶや、我れ
梅花の詩を好むとて、吟誦する処、忽ち、和漢古人 二百首に及びし」と云う。その男
東門、また名あり。
5、加賀の山脇氏 − − 加賀藩給帳に「二百石 (紋、丸の内に桐)山脇門大夫」とあり。
6、他
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