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山 名(ヤマナ) |
解説 |
遠江国に山名郡・山名郷・山名庄あり、又 上総国周准郡に 山名郷あり、その他 山城 尾張 上野 但馬などに この地名あり。 |
分派氏族 |
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1,清和源氏新田氏族 − − 尊卑分脈に
新田義範−義節−重国┬朝家−義行−行氏−俊行 ┌義幸 |
家紋 丸に二引両、桐。
2,和泉の山名氏 − − 足利氏、永徳二年に山名氏清を当国の守護とす。明徳二年
十二月晦日、京都内野合戦にて討死、四十八歳。その敗北後、明徳三年
正月四日に、大内義弘、和泉 紀伊両国を賜う。
3,紀伊の山名氏− −至徳年中より明徳まで山名氏 当国を領し、山名義理は、名草郡
大野城に拠る。義理は、足利義満に仕え、数々戦功ありて、紀伊国に
封ぜらる。明徳二年、氏清に組して叛し、未だ兵を発せずして氏清既に
敗死す。義理これを悔い数々謝罪す。義満聞かず。遂に紀州を除かれ、
大内義弘に賜う。紀州の兵皆、義理に叛く。義弘 兵一千を率いて、
義理を討たんと欲す。ここに於いて義理、子の氏親、時理など六十三人
と船に乗って千潟浦を発し由良湊に至る。遂に淡路興国寺に入り、氏親、
時理など二十七人と薙染、僧となり各々四に分かれて去る。その男に
義清、氏親、時理の三人あり。
続風土記、名草郡五箇荘黒江村古城跡條に「旧家地士 山名源之右衛門。
家伝にその祖を宮内大輔と云う。明徳の頃の人なり。この時、山名義理、
この地に蟄居す。その子を栄寿丸と云う、宮内大輔養いて子にす。子孫
世々当村に住す、家に国宗の太刀を蔵す」と。
又、大野荘中村旧家平次郎は、家伝に云う「その祖を山名義理の孫
山名理康と云う。義理、貞和の頃、当国守護職にて藤白城に居城す。
明徳三年、氏清、足利将軍に背く。義理は、その兄弟なれば、将軍家よ
り氏清に一味せんことを疑い、書簡を義理に給う。右の答書延引の内、
氏清滅亡す。将軍家、大内義弘をして義理を討たしむ。雨の森、名草山、
日方山の三城皆落城す。即ち藤白の城を焼き、日高郡由良興国寺に落ち
行き剃髪して僧となり、既にして伊勢に逃れ、幸福大夫に寄る。義理の
子 時理、乱を避けて春日山麓に蟄居し、一男を生む。即ち当家の元祖
理康なり。将軍家より尋ねあるによって、山名を改め、石井として、
子孫代々当村に住して農民となる」とあり。
又、那賀郡新田広芝村旧家地士に山名理左衛門あり。その祖は、山名
義理の孫 侍従三助と云う者にて、浪人となり、この地に来たり利兵衛
と改名し、田中荘段村を開発す。子孫世々この地に住すとぞ。
4,美作の山名氏 − − 正平十五年、山名時氏 当国に攻め入る。これより先、伊豆守
時氏の子 師義、足利義詮に背き、時氏を勧めて南朝に帰順す。この年、
時氏父子、歩騎四千五百を率いて守護赤松筑前守貞範の属城を攻めんと
し、その将 小池中書、福依八左衛門をして、篠葦城(大庭郡三崎河原
村)に向わしめ、淀井丹後守、武田刑部左衛門などをして、高田城(後、
勝山城)を攻めしめ、自ら精兵を指揮して国府に入り、院荘城(構城)
を陥れ、諸城 風を望んで降り、遂に十九年、当国を領す。後、これを
失い、嘉吉の乱後、山名教清、再び当国守護となる。又、一族判官忠政
を鶴山城に置き、忠政は、当城に卒すと。東作志 英田郡林野保 猪臥村
矢櫃山條に「城主 猪臥入道は、山名氏にして、山名坊庵入道忠政の子
なり。忠政に一女一男あり。女は虎御前と号し、田口薩摩守光政の室
なり。男は、蔵人と云う、後に猪臥村に移り、よって猪臥入道と号す云々」と。
又、新免家記に「文明十二年六月、山名蔵人大夫、山名猪臥入道、両大
将にて五百余騎を引率し、吉野郡小房城を攻む」と。
又、作州古城記に「金剛寺城は、新野西村にあり、山名忠村ここに居る」と。
又、岩尾城主に山名忠重、山名清堅あり、文亀三年 新免伊賀守に攻められる。
5,備後の山名氏 − −正平十七年、山名時氏 当国を略し、後に足利義詮に降りる。
明徳の乱、その子 氏清、謀叛して誅せられここを失い、備中守護細川
満之、その子 基之、相継いで守護を兼摂す。嘉吉中、山名時氏の曾孫
持豊(宗全)、赤松満祐を誅せし功を以って守護に補し、次子
是豊を
遣わして神邊(深津郡神邊城)に治せしむ。文明中、宗家政豊(是豊の
甥)の次子 俊豊入って守護を継ぐ。伝えて山名氏政に至り、天文七年、
大内義隆に滅ぼされる。
6,豊前の山名氏 − − 応永の頃、山名相模守氏政、当国上毛郡の大村城に拠る。相模守は、
貞和年中に征西将軍に従いて、当国に下り、始めて この城を築く。後、
筑後川の役に戦死し、その子 武蔵守は 大内教弘に従い、武蔵守の子 相模守氏政(
一説に武蔵守氏昌)は、応永六年より大内盛見の軍役に服すと云う。
又、応永の頃、田川郡に山名浄雲あり。
7,隠岐の山名氏 − − 正平中、山名時氏、当国を領し、これをその孫、氏之に伝う。元中七年、
将軍 足利義満、氏之の封を解き その弟 満幸に授ける。後に、満幸も誅されて、
佐々木氏、当国を賜う。
8,伯耆の山名氏 − − 第1項の族にして、地誌提要に「興国元年、足利尊氏、山名時氏を当国守護とす。
正平中、吉野に帰順し、後、将軍義詮に降り、本州を長子 師義に与え、師義 卒して、
その子 氏之 嗣ぎて、河村郡松崎に治す。元中七年、その弟 満幸、これを将軍 義満に譖し、
撃って これを走らす。義満、よって満幸を以って守護となす。満幸も尋いで誅せられ、
義満、氏之を復封し、久米郡倉吉に居り、子孫に伝う。七世 澄之に至り、国勢 日に衰え、
大永四年、尼子経久に滅さる」とあり。
9,因幡の山名氏 − − これも第1項の族にして、地誌提要に
「宗家 持豊の三子 勝豊、高草郡布施城に治す。天文中、その曾孫 誠通、鳥取に築きて
ここに移る。既にして 宗家 祐豊(持豊の玄孫)と隙を生じ、兵を交えて敗死す。子
幼なるを以って、家臣 和を祐豊に納る。祐豊、弟 豊定を遣わして国を監せしめ、
布施城に居る。豊定 卒して、子 豊数、代り立つ。永禄中、家臣 武田高信、誠通の
二子を殺して鳥取城に拠って叛く。豊数これを討つ。克たず。元亀二年、豊数 卒し、
弟 豊国 立つ。天正二年、尼子勝久に合して、高信を誅す。既にして毛利氏来り 攻め、
豊国ついに毛利氏に属す。八年、豊臣秀吉、来りて鳥取を囲む。豊国 出でて秀吉に投ず(
山名氏 十二世、凡そ二百六十一年)云々」と。
10,村岡藩 − − 第1項の系図の豊国の後なり。
11,但馬の山名氏 − − 山名氏の宗家なり、系図は 第1項にあり。
12,丹後・丹波の山名氏 − − 山名時氏、正平十九年、丹後 丹波 因幡 伯耆 美作の守護となる。
子 師義を経て、孫 満幸、足利氏に背き、敗北して当国を奪われる。
よって、在国中、その支族の子孫、繁茂している可能性あり。
13,安房の山名氏 − − 当国安房郡三芳村に山名の地名あり、この地名を名乗りしもあらん。
14,遠江の山名氏 − − 当国に山名郡山名庄あり、この地名を名乗りしもあらん。
15,有道姓児玉党 − − 武蔵の名族にして、七党系図に
「吉島三郎大夫行遠−親行(山名大夫四郎)」とあり。
16,上野の山名氏 − − 当国多胡郡(たごぐん、今
多野郡)の山名村は、第1項の山名氏の発祥地なり。
尚、他にもこの地名を名乗りしもあらん。
国志に「山名城、新田三郎義範、始めて山名と号す。大炊助義重の三男也。任 伊豆守、従五位」とあり。
紋譜帳に「伊豆守義範の紋、三つ柏」とあり。
17,大江姓 − − 磐城国石城郡夏井村の大国魂社の社家にして、康安元年十二月十五日の兵部大輔吉良治家の判書に
「大国魂 神主 山名下野守殿」とあり。地名辞書に「この山名氏は、矢野目如来寺の伝に、
大江姓と云えば、正応五年の国魂氏 配分状に署判せる『在庁官人 中務亟大江』の族党なりと知らる」とあり。
昭和の初期は、山名隆貞氏と云う。
18,藤原北家 − − 尊卑分脈に「藤原高藤の裔孫 頼明−泰明−泰藤−泰房−範房−範定−範俊−女(山名忠俊の室也。
忠俊は『山名義範−義行−忠俊』也)−顕円−顕従(山名)貞氏−従円−康政−従恵−実恵−顕政」とあり。
19,清和源氏頼光流 − − 江戸幕臣にして、ェ政系譜に
「清水平左衛門豊頼二男 平八郎豊常−伊豆守豊明、家紋
丸に二引両、五七桐、七枚篠」と。
20,他
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