山   本(ヤマモト)

解説

諸国にこの地名ありて数流の氏を起こす。

分派氏族

 

1,藤原姓加藤氏族 もと上加茂の神職なり、後、藤原姓に改むと。

       家紋、梶葉、五七桐。ェ政系譜に、山本民部丞道照(氏誉・友仙・法眼、

       慶安幕臣)より系あり。

2,幕臣藤原姓 中野新三郎正為(猿楽者)、元禄時代、幕臣となりて、山本と

       改む、家紋、丸に違鷹羽、七曜、

       又、山本金左衛門正利(寛永 幕臣)あり、家紋、五三桐、右巴

       ェ政系譜に系あり。

3,藤原北家閑院家流 − − 尊卑分脈に

       「洞院公守・山本相国と号す、その子 実泰は、山本左府と号す」とあり。

4,藤原北家阿野流 閑院流阿野実直の後裔、実顕の末子 勝忠、山本家を創む。

       堂上家の一つにして、羽林家、新家たり。系図は

  勝忠−実富−公尹−実覩−公達−実福−公弘−実城−実政−実庸 百七十五石 明治 子爵、家紋 三條花角(花菱)

5,蒔絵の山本氏 − − 山本利兵衛家は、禁中塗師にして、系図は

       「初代 武継、二代 周三、三代 光春、四代 武光、五代 利兵衛(明治)」なり。

6,茶師山本氏 山城宇治にありて、幕府の茶師なり、今に名高き宇治茶は、

       足利氏の初世、葛野郡栂尾の良種を移して、この地に栽たるに始まり、

       遂に天下の名産たり。山本氏は元禄の頃より、幕府の命を受け、世襲

       してその業を広む。元文三年、湯屋谷(宇治田原村)に一種美食の

       煎茶を製するものあり。山本氏四世・嘉兵衛、これを賞味して奇品と

       なし、天上天下一の銘を撰ぶ。天保六年、六世嘉兵衛 、小倉村

       碾茶焙爐中に團珠を為すものを獲たり、香味絶佳なり。即ち 新製

       玉之露と号し、世に弘む。これを玉露製の始めと為す(地名辞書)と。

7,大和の山本氏 − 山辺郡の豪族にあり、東里村大字深野に拠る。北畠晴具の臣・

       山本外記の裔なり。

8,河内の山本氏 − − 諸系図纂に「山本義経−頼高(住 河内国)」とあり、第16項の

       支族なり。義経に五子(?)あり。

9,摂津の山本氏 多くは清和源氏。Oの後裔にして、浪花及び矢田部郡の名族

       にあり。西宮の人 山本典寿は狩野派の画家にして、如春斎と号す。

10,和泉の山本氏 − − 堺の人 山本茂兵衛は、山本新田を開発す。

       又、堺の山本助五郎は、紹鴎門下の茶人として名あり。

11,熊野の山本氏 − − 紀伊国牟婁郡入鹿荘の地は、昔 熊野三山の領なりとも、

       山中僻遠なれば、その令 行われず。よって山中の守護として 京都より士族

       山本氏を招く。山本氏に三子あり、長男は入鹿の地頭、次男は尾呂志荘の地頭、

       三男は西山郷 竹原村に居ると伝う。

       当地方の豪族にして 太平記に「山本四郎次郎忠行、山本判官、熊野人 云々」とあり。

       又、続風土記に「市瀬村、龍松山城址は、村の北にあり。玉置氏系譜に

       『天正九年の頃、山本主膳康忠、当城の主となり、その伯父 玉置図書直俊

       後見となりて、共に当城に住す。天正十五年、杉若越後守の為に落さる』と。

       山本氏は『朝来 七ヶ村、富田荘 十四ヶ村、栗栖川四番、田辺三荘、萬呂村、

       日高郡塩屋村、萩原村等を領す』とあり」と。

       又、「岩田郷、中古は熊野権現の領地なるべし。後世に至りて 山本氏 市ノ瀬村に

       居住してこの地を領す」と。

       又、岩田村釣塀御砦跡は、小名田熊にあり。「山本氏の家老 山本兵部の城と云う。

       兵部は当村、及び市ノ瀬岡村の内を領せし」とぞ。

       又、生馬村の山王社に天文十五年 山本治部少輔忠朝、二の宮修造の棟札あり。

       又、蛇喰城跡は、山本兵部の城跡なりと云う。

       又、下戸川條に「山本佐大夫 この地の山方二里の間を領す」とあり。

       又、岡村尻付山砦跡は、村の乾にありて、山本主膳正の出城と云う。

       又、旧家 井タニ清介條に「和田新兵衛行忠の子を楠本六郎忠実と云う。

       山本氏の婿となり、三栖村、岡村などを領し、龍口城に居城す。六世の孫を

       忠延と云う。永禄中、三好氏の為に城を陥さる。山本主膳 よりて当村に住す。

       井タニ清介は、その婿なり」とあり。

       又、田辺城下八王子砦條に「湯川氏。江川浦の北西谷の八王子山口に砦を築く。

       天文二十二年八月、守護 畠山氏、山本掃部広信をして湯川氏を撃たしめ、

       これを降ろす。広信城代として八王子の砦を守る。大和大納言の臣 杉若越後守、

       芳養泊城より、天正十八年 城をここに移して居る。浅野氏、封を本国に受け、

       浅野左衛門佐 八王子城代たり」とあり。

       又、古座浦善照寺の開基を山本善内之祐弘忠と云う。本願寺と織田氏合戦の時、

       弘忠の兄 兵衛尉弘朝 戦死す。弘忠 剃髪し 天正十三年当寺を建立すとぞ。

       又、「畠山の属臣 山本掃部広信は、日高郡上野庄 高城を守る」とあり。

   *井タニのタニの字は澗に似た字で、中が日ではなく「月」である。PCになし。

12,紀伊の山本氏 有田郡北湊村 旧家 山本才兵衛は「参州室城主 室兵庫頭の

       末葉にして、室兵庫頭の子・弥三郎は伯父 山本弥兵衛に養われ、山本

       を以って氏とし、信康公に仕う。その子勘助は家康に仕え、その子

       十太夫は、忠輝公に仕う。後 南龍公のお召によって、当国に来たり、

       八百石を賜う。その子 才兵衛、病身にて仕を辞す、公 命じて村中

       砂浜の地を賜う。即ち その地を開墾して世々住す」と。

       又、山本駒之助道慶(善甫)は幕臣となる。家紋、抱柊、三頭左巴、丸に向かい鳩。

13,荒木田姓 − − 内宮権禰宜家筋書に

       「山本、荒木田元興 四世孫 山幡満経の十五世 山幡忠経の裔」とあり。

14,伊勢の山本氏 − − 当国鈴鹿郡山本砦は、「山本村にありて 山本刑部少輔 居守せしが

       天正の乱に嫡男 弥七郎、二男 極楽寺、美濃国岐阜にて戦死す。その時刑部も

       病死して城廃す」と。

       又、三重郡西坂部村奥城の谷城には、永禄中、山本豊前拠りしと云い、

       又、桑名郡東方村に山本氏あり、その先祖、山本式部介、天正中 西別所村城主

       後藤弥五郎を助けて織田氏と戦い死す。

15,伊賀の山本氏 − − 松倉家臣に山本七介義純(又、七助茂純)あり、その男

       権兵衛尉義安(鉄心)と共に勇名高し。義安は後に伊予松山松平氏に仕う。

16,清和源氏 近江国の名族にして、全国の山本氏は、多くこの裔と称す。

       当国浅井郡山本より起こる。尊卑分脈に

      「源 義光−相模介義業−遠江守義定(号 山本)−義経−義弘−義重」と。

17,六波羅家臣 − − 太平記に「山本九郎時綱、山本八郎入道、同七郎入道、子息 彦三郎、

       同小五郎、子息 彦五郎、同孫四郎」などの名あり。

       近江国番場の蓮華寺過去帳に「山本八郎入道玄桓(三十三歳)、同十郎入道源徳(

       四十七歳)、子息 彦三郎繁盛(十九歳)、同小五郎為盛(四十七歳)、子息 彦五郎為泰、

       同孫十郎繁教」とあり。

18,幕臣源姓 −O項の末流山本氏は、江戸幕臣に多く、ェ政系譜に二十七家あり。

       家紋、鳥居笠木の上烏二羽内に石畳、丸に四石畳。 

19,佐々木氏姓− −家紋、四目結、五三桐、吉田織部正 正重の門人、山本道句政勝

       秀忠に仕う。その男「道味政春−善左衛門政守」などあり。

20,宋族 家伝に「宋張李明の後裔にして、張氏なり。近江国の住人

       桂元隆全昌・天文の頃、医を以って浅井下野守久政に仕う」と。

       家紋 丸に梶葉、蝙蝠、杏葉牡丹。玄通宗孝に至り、江戸に下り 医を

       以って聞こえ、その男 逸之助三安(宗妙・宗洪)幕府に仕う。

21,近江の山本氏 − − 彦根の国学者に山本伝左衛門昌蔭(中島瀬兵衛の男)あり。

       又、山本弥三五郎あり、始めて人妻人形を繰りしと云う。

22,美濃藤原姓山本氏 −名細記に「大野郡岐礼村白倉明神社は山本中納言藤原

       貞興の霊を祭る。後醍醐天皇、隠岐に遷されさせ給いし時、貞興も

       ここに配流せられ、建武元年、薨ず。その子を山本判官貞元と云い、

       子孫 美濃にありて、山本氏を名乗る」と見ゆ。

23,源姓間野氏族 尾張の名族にして、、家譜に「山本冠者義経の胤・間野

       與三右衛門邑弘(岩倉織田氏に仕う)−小六郎邑重(信長に仕え山本に

       復す)−六右衛門邑次(家康に仕え、千五百石)。

       家紋、二引龍、丸に二引、軸梅鉢」と見ゆ。

24,菅原姓 K項室氏の裔 茂成を祖とす。家紋、三頭左巴、丸に山文字、

       家記に「弥三郎茂成(本多百助信俊に属し山本を称す、後 家康に仕う)

       −勘介茂春−十太夫茂房−九右衛門茂與−同茂則−越中守茂明(千石)

       −十太夫茂親−八郎右衛門茂珍」と。

25,清和源氏吉見氏族 −家紋、右三巴、櫂の丸、ェ政系譜に

       「理兵衛政長 山本を称し、その男 忠兵衛知候、幕臣となり五百石を領す」と。

26,富永氏族 − − 嘉吉三年、洞院実X 当国より帰洛す。浪合記に

       「松平太郎左衛門泰親の娘、実Xの子 富永五郎実興を生み、富永の御所と云う、

       三河国山本氏の祖なり」と。

27,三河の山本氏− 当国出生の幕臣は殆どO項の裔と伝え、ェ永・ェ政両系譜に

       「山本冠者義重の胤・四兵衛正直(松平清康・広忠に仕う)−九兵衛正継

       −四兵衛正吉−四兵衛正茂(子孫 六百石)。家紋、鳥居笠木の上烏二羽内に石畳(

       ェ永系図には石畳に鳥居上鳩二)、丸に四石畳」と。

28,駿河の山本氏 − − 今川義元家臣 山本左衛門佐義晴、駿河蒿科を領し、永禄九年死す。

       その男 忠兵衛正義 家康に仕え二百石。家紋、一巴、柏葉。

       又、幕末、侠客に山本長五郎(清水次郎長)あり。

29,清和源氏吉野氏族 有名なる勘助晴幸は、駿河の源氏吉野冠者の後と云う。

       吉野冠者とは、鎮守府将軍源満政の裔、木田重賢の男 太郎重季・吉野

       冠者と号して、承久の乱に京方にあり。富士郡山本村に吉野氏ありと

       云う。冠者の後胤 吉野貞倫は、累世山本村に住し、八幡宮の神主なり。

       貞倫の二男貞久に至り、今川氏に仕え、氏を改めて山本と云う。

       家紋 三巴。文明十年戦死。その男圓書、その四男源助貞幸、参州牛窪

       牧野右馬允の家令 大林勘左衛門の養子となり、勘助と改む。

       江戸幕臣に勘助の裔と云うものありて、寛政系譜に

       「初め牧野家に仕え、九郎兵衛正重に至り幕臣となる。二百五十石。

       家紋 三頭巴、蛇目」と。   

30,甲斐の山本氏 − − 当国中巨摩郡西條村の摂津守山本忠告は、若宮八幡神社の宮司にして、

       学 和漢に通じ、歌を好くし 元道と号す。

       又、「山本冠者 義重十六代の孫 右衛門忠恒(信玄家臣)−弥右衛門忠玄(家康に仕う)

       −弥右衛門忠房(千人頭)、家紋 左三巴、羽帚打違、黒餅に山文字」と云う当国出身の

       江戸幕臣あり。

       又、先祖を「左大臣藤原魚名末孫 山本勘助晴幸の裔にして、九代後胤 山本

       式右衛門尚良、同 八郎右衛門長建、同 左衛門幸建」と云う西花輪村の山本氏あり。

       又、誠忠旧家録に「相州津久井境 鶴川上野原通 警備役、山本土佐守忠玄後胤

       山本金右衛門篤敬」とあり。

       又、幕末、侠客に山本仙之助祐天あり。

31,伊豆の山本氏 − − 近江国浅井郡山本の住士 山本政村は、当国小浦に住すと云う。

       又、田子村の士に山本常任あり、北條早雲長氏に属す、「田子の山本左衛門尉」とあり。

       又、「船大将 山本信濃守」と云うのもあり(北條五代記)。

32,武蔵の山本氏 多摩郡下恩方村のこの氏は、新編風土記に

       「鍛冶山本内記康重、山本外記康照、山本左司馬国重の三家は、昔より

       四町八段の除地を賜りて、世々 下原に住するにより、これを下原鍛冶

       と呼べり。このほか、元八王子に住する山本藤五宗国、山本藤吾安国、

       山本長門照重の子孫の三家も下原鍛冶と云えど、下原の名は当所より

       起りし唱なり。ご入国の後、下原の鍛冶に千本の槍をうたせられしと

       云うも、当所及び八王子の六家なりと云えり。共に相州正宗の伝を

       以って刀剣を製造せり」と。

33,清和源氏新田氏族 − − 安房国安房郡山本村より起りしか。

       里見系図に「義連−義宣(号 山本)」とあり。

       又、別の里見系図に

       「里見五郎義胤(上州、元弘三年、義貞に属す)−義宣(山本左近将監)」とあり。

       又「義胤−義連(刑部少輔、左近将監、奥州へ下向して太守となる 山本の祖)」とあり。

       又、中興系図に「山本。清和源氏、本国安房、里見刑部少輔義胤の男 左近将監義行

       これを称す」とあり。

34,上総の山本氏 − − 国志に「山本村山中に城跡あり」と載せ、

       里見軍記に「湯名島の城主 山本左京亮」とあり。

       又、江戸時代、久留里黒田藩番頭に山本氏あり(武鑑)。

35,桓武平氏大掾氏族 − − 常陸の名族にして、大掾系図に

       「吉田太郎盛幹−石川次郎家幹┬国幹(石川系図には山本四郎)
                     ├武幹(山本五郎又石川五郎)−望幹−忠幹−重幹−光幹−幹康
                     ├高幹(石川六郎)
                     └望幹(山本十郎、兄武幹の子となる)」と。

       又、新編国志に「山本。那珂郡山本郷(今 茨城郡の地)より起る。石川家幹の五子 武幹

       山本五郎と称し 山本に居る。子なし、弟 望幹 継ぐ。吉田 山本 両郷の地頭たり。

       忠幹 山本民部大夫と称し、剃髪して道国と称す。建武中の人なり。その子 重幹

       五郎左衛門尉に二子あり、広幹、光幹と云う。広幹 出でて税所氏を継ぐ。光幹は、

       山本左衛門次郎と称す。その子 幹泰(康)は、孫太郎と称す、高柿内の本主なり。

       子 保幹あり」とあり。

       又、「水戸(初め馬場)城は、初め大掾の族、馬場次郎資幹 居城し、文治四年、

       資幹入って本宗を継ぐに及び、弟 山本武幹に譲る。後、江戸氏 城主たり。天正

       文禄年間、佐竹氏居城し、慶長中、水戸徳川氏封ぜらる」とあり。

36,両毛の山本氏 −高崎松平藩士、山本敏直は、馬術と狂歌を以って名あり(武鑑)

       又、下野の儒者に山元太仲龍あり、南陽と号す。

37,磐城岩代の山本氏  − − 耶麻郡高柳村瀧澤は、承応元年、本村の神職 山本紀伊の五男

       茂兵衛 この地に新田を開きて瀧澤と名付けしなり。

       新編風土記に「諏訪神社神職 山本源之進。 ェ永の頃、紀伊藤原度房 当社の

       神職となる。今の源之進常信の八代の祖なり」とあり。

       又、小沼村諏訪神社「神職山本大隅、高柳村に住す。宝永中、主税藤原度通

       当社の神職となりき。今の大隅度経の四代の祖なり」と。

       又、「讓屋村諏訪神社 神職 山本遠江、ェ文中、正大夫某、当社の神職たり。

       今の遠江義行の六世の祖なり」と。

       又、会津藩士 山本義衛良晴は 幕末多いに戦い 後、覚馬と称し 京都府会議長となる。

38,結城家の山本氏− − 秀康卿給帳に

       「九千四百石、内 七百石 与力、御普請與頭 山本対馬。五百石 山本宮内。

       三百石 山本作兵衛。三百石 山本清右衛門。二百石 大扈従山本荘九郎」とあり。

39,清和源氏満政流− −越後山本系図に「家紋、四つ目、旗紋、紺地丸の内 抱茗荷

       源 満政−忠重(山本刑部)−重実−重遠−重直−重満」と。

40,越後の山本氏 − − 当国魚沼郡に山本村あり、この地より起りしもあらん。

       江戸時代 長岡牧野藩家老に山本氏あり、幕末、山本勘右衛門の養子 帯刀(

       安田渡の男 堅三郎)は、当藩の重鎮なり。

41,信濃の山本氏 幕臣に「先祖信濃国。山本又助正縄(三河にて松平清康に仕う)

       −又十郎縄義−與三兵衛縄次(家康に仕う)。家紋、丸に左巴」と云うあり。       

       又、幕末、松本の人、近藤茂左衛門の弟、山本貞一郎は 勤王家として、

       名高く、従四位を贈られる。

42,越中の山本氏 − − 当国砺波郡石黒郷山本村に山本城あり、山本志摩 拠ると云う。

43,加賀の山本氏 − − 加賀藩給帳に

       「千二百石(丸の内に枝柿)山本久太郎、三百石(片喰)山本九郎太夫、

       二百五十石(丸の内に蔦)山本源次郎、二百石(丸の内に三雁金)山本茂八、

       二百石(丸の内に立三引)山本新左衛門、二百石(四ッ目結)山本多助、

       二百石(五三ノ桐)山本三郎太夫、百六十石(丸の内に花菱)山本文左衛門、

       百石(丸の内に蔓柏)山本桑全、三十五俵(丸の内に桔梗)外七人扶持 山本鉄三郎、

       等」あり。

       又「金沢藩の典医、家紋 七宝の内に抱鷹羽、藤原氏の裔」と云う山本氏ありとぞ。

44,利仁流藤原姓 − − 福井毛谷黒龍神社祠官 山本氏は、鎮守府将軍 上総介利仁の四男

       藤原利行の裔にして、醍醐天皇の御代、今立郡山本の荘に住み、よって山本の姓を称す

       後、吉田郡森田村 舟橋毛谷神社の神職となり、三十六代 景頼は、朝倉敏景に従いて

       戦功ありと云う。

45,越前の山本氏 足羽郡下宇坂村三葛谷別所村に山本孫兵衛あり、その三男

       半治郎親常は、小泉氏と称す。山本家は、朝倉義景の遺臣なりと伝え、

       六条村小稲沢光福寺の檀家にして、同寺には、四百年前よりの過去帳ありと。

       又、当国 名鍛冶に山本伊勢大掾国康 あり

46,丹波の山本氏 − − 当国氷上郡名方城(名方村)は、山本氏の居城にして、この氏は

       伊勢国桑名城主 但馬守の後と云う。

       丹波志に「山本氏、子孫 稲畑村。子孫一家・医師 徳田宗光と云う。昔 当所へ

       没落の時の浪人、今、又右衛門、分家共七家」とあり。

       又「山本氏。子孫 野山村、栢原主織田上野介殿の時、名方村の北に田地中屋敷跡あり、

       或いは城跡とも云う。山本太郎左衛門居住、上野介断絶につき、野山村へ引いて

       弓を師範す。山本但馬守、子孫 野山村、伊勢国桑名城主。朝鮮征伐の時、これに

       従い浪人 居住す」とあり。

47,日下部姓− −但馬の名族にして 日下部系図に「磯部貫主奉任−家貞(朝来山本領主)」とあり。

       又、「軽部六郎大夫俊通−同大夫俊宗−俊直(山本新大夫)」と。

48,因幡 伯耆の山本氏 − − 因幡国法美郡楠城村の山本氏は、楠氏被官の士なりと云う。

       又、同国八上郡水口村の松尾城は、伊田氏の家老 山本源太の館と云う。

       又、慶長中、藤原家の浪士 山本四郎大夫、山本三郎左衛門、山本久助などあり。

       又、因幡志に「小代庄 山本忠兵衛尉、云々」とあり。

49,菅家族 − − 美作の名族にして、尾房城主 有元又三郎佐吉の男 志摩介佐寿は、当国

       右手山本にありて山本と称す。その五世孫 主水佐盛の長男 与左衛門佐義、弟

       与治郎義賢等、三星山城主 後藤勝基に仕え、宇喜多直家と戦い、後に、宇喜多氏に

       仕う。その後、佐義は勝田郡倉見に、義賢の裔は同郡市塲、宮山に住すと云う。

       又、後藤家の重臣 山本甚右衛門良宗の男に甚内良親、権内時良の二人あり。

       時良は後藤日向守基兼に仕え、甚内の男 良久は、勝基に仕えて 子孫 勝田郡福吉に

       存す。又、権内の男 良貞に二男あり、甚右衛門、権左衛門と云う。同郡植月の

       山本氏の祖なり と云う。

50,清和源氏山縣氏族 備前国の名族にして、源頼光四代の孫 山形三郎国直の

       後胤、山形河内守虎清の長男 山形昌直、始め宇喜多直家に属し、後、

       故ありて浪人し、備前児島郡に居る。偶々 宇喜多の臣にして、久米郡

       荒神山城主たりし花房助兵衛直次の招請により、天正二年三月、荒神山

       に移る。その孫 久左衛門昌家の時、宇喜多家亡ぶ。その男 昌則、当地

       に来り、山本屋と称す。その子 正章、姓を山本と改め、蔵元職を勤む。

       その子 和索、札元役たり。道賢 相続し、七世にして当主 正憲氏に及ぶと云う。

51,安芸の山本氏 − − 芸藩通志に「安芸郡苗代村杉迫城は、山本甲斐の所居なり」とあり。

       又、同郡宮原村の八幡は、天文十七年、山本房勝、岡入兼信の重修なりと云う。

       又、江戸時代、広島浅野藩用人に山本氏あり(武鑑)。

52,防長の山本氏 − − 幕末の志士に、山本誠一郎朝正あり。

53,土佐の山本氏 − − 香宗我部家臣に山本良助あり。

       又、佐川の儒者に山本仙蔵鸞(文翼)あり、日下と号す。

       又、山内藩士 山本順吉の長男 正胤は、勤王の志士なり。

54,阿波の山本氏 − −  故城記に「那西郡分、山本殿、三枝氏、家紋 庵の中に五梅」とあり。

       又、故城記、上郡美馬 三好郡分に「山本殿。平氏、家紋 三ッ洲浜」とあり。

55,桓武平氏長野氏族 長野系図に

       「三郎左衛門久盛−兵部少輔義富(大野稗畑城主)−義親(山本八郎)」とあり。

       又、永享 応仁の頃、企救郡の名族に山本義親あり。

56,豊前の山本氏 − − 元亀 天正の頃、宇佐郡に山本重賢あり。

       又、江戸時代、小倉の士山本宗碩は、囲碁を以って杵築藩に仕え、その男

       克敬は、儒者として名高く、友石と号す。

57,筑後の山本氏 − − 当国に山本郡ありて、天文二十年、高良山領 山本郡の検地帳に

       山本七郎、永禄十三年に山本河内、同 新右衛門尉などの名あり。

58,菊池氏族 筑後合原系図に「七郎経直−経俊(山本、佐野などの祖)」とあり。

       又、下野国の菊池系図に「政則の二男 政隆、山本郡領、山本二郎、

       山本氏祖」とあり。

59,豊後の山本氏 − − 大友家臣 山本対馬守玄常は、一万石を領すと云う。剣道の達人なり。

       その男 賢刀次元国は、尾張徳川氏に仕え三千石を領す。

60,薩摩の山本氏 − − 薩摩藩の勤王家に山本四郎(もと神田橋直助)あり、維新に功多く贈従四位。

       又、海軍大将 山本権兵衛は、伯爵を賜う。

61,禰寝氏族 − − 大隅国大隅郡の名族にして、山田城(小根占、山本)に拠る。禰寝氏の

       支族にして、小松系図に「五世孫二郎清治の第三子 清高(山本と号す)」とあり。

       地理纂考に「小松氏系図を按ずるに、五世孫二郎清治の弟 清高 山本と号すと

       見えたり。按ずるに禰寝院は、根占氏以前、長田次郎致将ここを領す。云々」と。

62,大内氏族 流江安室記に「勝南郡百々村城主 山本與次郎」、同吉留村

       庄屋に山本善兵衛、英田郡山外野村に「山本殿塚あり、当郡原村の人」と。

       又、英田郡平の村庄屋に山本伊右衛門あり。

63,紀姓 若狭の名族にして、武鑑に「山本美作守 家紋 釘抜き」とあり。

64,他


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