山   田(ヤマダ)

解説

諸国にこの地名(300ヶ所)ありて多数の氏を起こす。

分派氏族

 

1,平城帝裔 大和国山辺郡の名族なり。平城天皇第五の御子 山田皇子より出づと云う。

子孫 福住山田氏となる。山田山城に拠り、至徳元年四月の大和武士交名に山田殿とあり。

       又、山辺郡多田氏配下の将に山田将監、山田権之助あり。

2,筒井氏族 上記 福住山田氏は、後に筒井氏より継ぐ。同系図に

       「順秀の男 順春(山田氏)」とあり、

       又、大和志料に「光宣の弟 順春は、出でて山辺郡福住の山田氏を継ぐ。

       実に山田氏の祖なり。薬師院日記に『永享六年、八月十四日、福住筒井

       討死』とあるは、蓋し、順春を云えるか。栄舜房順昭法印は、順興

       長男にして、母は山田城主 民部順貞の妹なり」と。

       郷土記に「山田新左衛門、山田民部少輔藤原宗重入道道安、山田太郎

       左衛門、山田権左衛門(吉利支丹、召捕になる)、与力(別所、水間、

       森、針、別所)」と。

       道安は奈良の大仏が永禄十年十月、松永 三好戦争の兵火を蒙りたるを

       私財を投げ打って修補し奉る。元禄五年南都大仏供養記に「仏の御頭は、

       永禄年中、大殿焼失の時に落つ。山田道安、銅板を以って仮に修す」と。

       永禄十二年正月十三日没す。その裔は、細川藩に存す。

3,摂津の山田氏 島下郡山田村より起こる起こる山田氏ありて、佐井寺城(

       千里村佐井寺)は、山田兵庫頭の拠りし古城なりとぞ。

       又、味舌村の住人 山田源之丞は、安楽寺を開基す。

4,源姓 摂津国能勢郡山田村より起こる。源満政の裔にして、その十八代を

       山田左衛門景政と云い、子孫 能勢家臣なり。

5,物部姓 伝え云う「矢田部郡司の長子 山田左衛門佐真次、左衛門尉真勝を

       生む。その子を左衛門佐真利と云い、その裔 左衛門尉日真に至り、

       長徳元年五月、八幡宮を京都より勧請して、山田庄の守護神とし、

       日義は、山田庄四至の庁の頭職たり」と。

6,山城の山田氏 藤原兼通の曾孫 致貞の娘を山田中務と云う。

       又、吉田社末社司 山田若宮正禰宜は、春日社神宮預中臣殖栗連時風

       八世孫 若宮神主 正四位祐房の後にして、道祐も吉田社神人となり、

       姓を藤原と改む。

       吉田家公文職 山田以文の男 阿波守有孝は、国学者にして錦所と号し、

       その男 安房介有年は、神祇官に仕え、明治時代 国学者として知られる。

7,坂上姓 土師氏族坂上系図に「土師太郎正任(始めて摂津国に住す、豊島郡

       呉庭)−子太郎正貞−維貞(山田太郎)」とあり。

8,伊賀平氏 保元物語に「安芸守(平清盛)り郎党、伊賀国の住人 山田小三郎

       伊行、堀河院の御宇、嘉承三年正月六日、対馬守義親(源)追討の時、

       真先駆けし山田荘司行末の孫なり」と。

       下って永享元年文書に「山田郷地頭伊賀平六左衛門尉」見え、

       又、名張の城主に山田左衛門長政なるものあり。

9,伊賀藤原姓 家譜に「藤原姓。大膳亮直綱、伊賀国山田庄に住せしにより

       家号とす、享禄元年八月二十三日卒、道儀。その男 伊賀守直義(北條

       氏直の臣、武蔵安戸城主)−伊賀守直定、弟 伊賀守直安(家康に仕え

       三百石)−五郎兵衛直時、家紋 竹に雲、丸に雪根笹、竹打違に白梅、

       鱗形の内天文字」と。

10,伊勢の山田氏 奄芸郡の名族に有り。応仁中、山田重勝 楠原村に楠原城を

       築く。その裔 織田氏に属し、重益に至り近江安土に死す。

       又、同村 白市場一城あり、山田重孝 分家して城を築きし地と伝う。

       又、山田の神職に山田権七正致あり、俳句を能くし涼菟と号す。

       又、外宮祠官千萱氏の譜に「中原姓。樋口美濃守輔正の孫、山田義光」と。

11,清和源氏高屋氏族 近江発祥ならん。

  高屋重綱(号岸本十郎・号平井七郎・改 遠綱)−山田実賢┬忠家−実村−実経[和南氏祖]
                             ├実季┬景綱[梅林氏祖]
                             │  ├助綱−助継[大町氏祖]
                             │  ├助実
                             │  └泰実
                             └景賢(山田三郎)

12,佐々木氏族 佐々木系図に

       「豊浦冠者行実−盛実−家実−長家−清長−義清(山田四郎)」と。

       又、中興系図には「山田。宇多源氏、佐々木、上総介貞長男 五郎

       左衛門尉兼備中守信詮これを称す」とあり。

13,近江の山田氏 −近江国栗本郡に山田の庄あり、坂田郡及び犬上郡に山田神社

       ありて、多数の山田氏あり。

14,浅井氏族 家記に「浅井氏の庶流にして、近江国山田より起こる。

       家紋 丸に井筒、丸に五桐の葉」と。次右衛門政次より系あり。

15,清和源氏山縣氏族 −山縣系図に「清水五郎蔵人頼兼の子 頼仲(山田二郎)」とあり。

16,美濃の山田氏 当国郡上郡に山田郷あり、この地名を名乗りしもあらん。

       大野郡宮田村に山田氏宅址あり、山田兵庫頭の弟 芦敷又三郎、後、

       山田丹後守と改め宮田村に住す。

       賎の小手巻に「関ヶ原の役に山田五兵衛あり。その子孫 今にありて

       八左衛門と云う」と。

       又、新編国志に「山田四郎兵衛宅址 云々。これ岡田将監の吏にて、

       慶長中御料に隷する時、ここに居れり」と。

       又、大垣藩士 山田瑛(子成)は、儒名ありて鼎石と号す。

17,清和源氏浦野氏族 −尾張発祥の豪族にして、山田郡山田荘より起こる。

              尊卑分脈に

  満政玄孫、八島源太冠者重実┬重遠−重直(号 山田)−重満−重忠(承久の乱 官軍方)−重継−重親−重泰−重頼−重景−重宗
               └重定−重経−仲房−重氏

18,尾張の山田氏 当国山田郡(春日井郡)山田庄に山田村あり。この地名を名乗りしもあらん。

       山田弥右衛門あり、織田信秀に仕う。

       又、山田系図に「尾張国山田郡菱野村は、駿河守平義村の所領なり。

       山田三郎泰親(山田左近太夫重親二子)を以って、上菱野村地頭職に

       補し、山田四郎親氏(重親三子)を以って、下菱野村地頭職に補す」とあり。

       又、江戸時代 画家に山田半蔵宮常あり、雲峯と号す。

19,室町幕臣− −永享以来御番帳に「二番、山田與次郎、四番 山田勘解由左衛門尉、

       山田三郎」などを載せ、文安年中御番帳に「二番、山田備中守」あり。

       見聞諸家紋に「鱗形九つ右巴」と。

20,清和源氏足利氏族 尾張国山田村より起こると云う。山田民部大輔俊氏、

       細川氏に従いて阿波に移り、美馬郡貞光に居る。その男 山田太郎重時、

       美馬九郎右衛門と称すと。

21,穂積姓 家譜に「藤原姓鈴木三郎重家の後裔にして、尾張山田郷より起こる」と云う。

ェ政系譜に

       「八郎兵衛重直(重道)−重俊(家康に仕え美濃代官)−重元、家紋 丸に左巴」と。

22,三河の山田氏 多くは17項の裔にして、尾張国春日井郡山田郷より起こると云う。

家譜に「重忠四代 太郎重泰の男 重頼の九代の孫 右京某、三河国細川領主

       松平親世に属し、その男 内匠助重宣、相次いで松平親秀に仕う」と。

       一門山田氏、ェ政系譜に二十三家あり。家紋 三鱗、要文字、剣鳩酸草。

       その他、支流で三巴、五七桐、丸に剣鳩酸草、鱗形、九曜、丸に八の字、

       二巴、五七花桐、丸に打違茶の実、丸に三巴、丸に三星、一巴、

       丸に桔梗、丸に澤潟、梅鉢を使用。

       又、宝飯郡市田の名族に存し、長沢衆十二家の内の山田長門守晴政は、

       天正中、御津新宮城に拠る。

       又、御馬城は天正十八年に至り、池田輝政の領となり、その臣 山田

       藤左衛門 当城を預かると。

23,清和源氏頼任流 ェ政系譜に

       「山田弥五右衛門盈信より系あり、家紋 丁子巴、下藤」と。

24,駿河の山田氏 当国府中の木薬屋 小西源左衛門の船にてシャム国に行く。

       山田長政なり、日本人町を背景に活躍し、アユチアの日本町の頭領と

       なり、国王の信任を得て王女と結婚リゴールの太守となるも毒殺される。

25,清和源氏村上氏族 尊卑分脈に「村上判官代為邦−山田仲綱」と。

       又、「為国−世延−延時−信基−為宗(号 山田)」ともあり。

26,清和源氏義家流 − − 若槻氏の一族にして、尊卑分脈に

「若槻頼繁−頼清(若槻左衛門大夫と号す。左衛門尉、従五位下、又、山田嫡)」とあり。

27,諏訪神家 − − 諏訪下社権祝、及び擬祝は、神姓にして山田氏と云う。正平七年、

祝部 武居光鎮、山田十郎等と宗良親王を迎え奉る。

又、当郡の山田氏は 丸に洲浜、丸に十等を家紋とす。

28,伊那衆 − − 信濃国伊那郡山田村より起り、山田城は、その居城なりと云う。

この氏は、清和源氏村上氏族と云う。村誌に「山田氏の居城は 河南村山田にあり。

山田庄左衛門築城、応永中に山田新左衛門あり、下りて、天文十八年、新左衛門尉に

及んで伊那衆と組み、武田氏と金沢峠に戦いて討死し、男 弥助は、武田家に属し、

二十騎の大将たり」と。

29,清和源氏加賀美氏族 − − 諏訪郡の山田氏にて、諏訪志料に「家系によるに、武田の門葉也。

加賀美遠光(元仁元年九月九日卒)の子 太郎光朝、諏訪に住し、山田を称して河内守に任ず。

光朝の玄孫 安房守清輝、浅原八郎為が暴挙を図るや、共にその謀に組し、京に居る。

事ならず、長子 市三郎輝澄、次子 三郎兵衛長清と共に郷里に帰る。輝澄に二子

長は重郎清景、次は五兵衛忠景と云う。清景の嗣子 金三郎忠治は、天授四年、

楠正勝に従って功あり。以来数代の間 京畿に居る。忠治の曾孫 彦八郎秀景、

長禄二年、赤松の乱に死す、年 二十四。秀景の曾孫 忠次郎正広、大永七年、両細川、

桂川に戦う際、三好長基に従って功あり。正広の嗣子 伊三郎正義に至り、再び諏訪に帰り、

山田村字上城戸に居りて、又土豪たり。正義の子 佐太郎義種、信玄に属して功あり(

以上の事蹟、諸録に校するに未だ的証を見ず)。義種の子 備後之助義員に至り、

武田氏亡びて帰農す。その孫を幸右衛門光治と云い、字城口(一名 小林)に移住す」とあり。

30,清和源氏武田氏族 − − 諸家系図纂に「石和五郎信光−(七男)山田光性」とあり。

31,清和源氏一條氏族 − − ェ政呈譜に「武田支流 一條三郎義長の十代 三郎元氏、武田陸奥守信縄に

仕え、甲斐国山田村に住せしより家号とす。家紋、三巴、花菱、剣花菱」とあり。

その後は ェ政系譜に「元氏−六右衛門元重(信玄に仕う)−六右衛門元継(家康に仕う、

彦三郎、兵部)−六右衛門元清、家紋、三巴」とあり。

ェ永系図には、家紋を丸に巴、花菱とあり。

32,甲信の山田氏 − − 甲斐国八代郡に山田の地名あり、この地名を名乗りしもあらん。

又、信州の儒者に山田庄左衛門文静あり、松斎と号す。

33,伊豆の山田氏 − − 当国田方郡修善寺町、韮山町、湯ヶ島町、中伊豆町に山田の地名あり。

これらの地名を名乗りしもあらん。   

延暦二十四年記に「伊豆国の掾 山田豊浜が使いを奉じて京に入り、伊勢国の榎撫、

朝明の二駅の間に於いて酒を飲み毒に当って死す」(地理志料)と。

34,相模の山田氏 − − 宝徳中、山田伊賀守経光、高座郡(鎌倉)深見郷に居る。

       鎌倉郡瀬谷妙光寺の鐘銘に「山田伊賀入道経光」とあり。城跡存すとぞ。

       その他 小田原家臣に多し。

35,丹党 − − 七党系図に「白鳥七郎二基政−政成(山田八、井戸、岩田)−直家−直時」とあり。

中興系図に「山田。丹治、丹治郎基政の男 八郎政成 これを称す。紋、丸の内に丹字」と。

又、新編風土記、秩父郡山田村條に「往古 丹党 山田八郎政成、この地に住し、在名を称し、

子孫世々ここに居れり。今もその旧跡残れり、村名の名義これによるなるべし。屋敷跡五ヶ所。

一は、小名 向殿にあり、山田志摩守居住せし所なり、云々」とあり。

36,武蔵の山田氏 − − 当国都筑郡に久保城(久保村)あり、風土記稿に「この地は 山田右京進と云う者の

居城なりとて、二重にから掘りあり、又、一段高き所を本城跡と云う。寺の入り口に、

近き頃まで食い違いの土手ありしなり。墓所に石碑を建てて覚養院相伝浄雄居士、

慶長十九年十一月十五日とあれば、城主 右京進の家老 蘆垣浄泉、同大膳などの石碑なりや。

近来まで榎下村に彼の蘆垣の族残れり、彼の先祖なりと村民は云えり」とあり。

又、「比企郡腰越城(腰越村)は、西の方 山丘の上にあり、広さ五段許の地にして、

構堀の跡残れり。山田伊賀守直定の住せし所なりと云う。直定は、松山の城主

上田闇礫斎に仕え、男衾郡赤浜の原に於いて、道祖士図書の為に討死せし事、

八つ林の道祖士氏が蔵する文書に見えたり。その子 伊賀守直安も上田案獨斎に属して

しばしば戦功をあらわし、天正十九年、召されて東照宮へ仕え奉る由、家譜に見ゆ」とあり。

又、深谷上杉家の家臣に山田市之丞あり。

又、忍城士に山田河内守あり。

又、岩槻城士に山田大学助あり。

又、秩父郡安戸村に山田屋敷跡あり、風土記稿に「城山とも云う。村の西北にあり、

雑木生い茂りたる小山あり、今も堀切などの跡あり。その審なることは村民も伝えず。

又、宿の北、山田稲荷の北辺に山田伊賀守の屋敷跡あり。一段歩許の地にて、今は白田となりぬ。

山田の子孫は今、江戸の市ヶ谷念仏坂にて山田甚兵衛と云えり」と。

又、埼玉郡上川上村條に「山田伊半と云える者、この地に住すと云う。伊半は、成田下総守の

家人にして、或る夜、鈴に芋を生ぜしと夢見て、翌日戦場に赴き討死せしかば、今に至り村民

芋を植えることを禁ずと云う。按ずるに成田分限長に伊半の名を載せざれど、幡羅郡八つ口村の

長昌寺の伝えに、成田氏の臣 山田伊半の子孫 次郎、武河合戦の時 討死せしかば、成田氏の

命により、当所は、弥次郎の采なれば、その人を以って開基とし、長昌寺を造立すと伝えれば、

伊半は、成田氏の臣たること知らる」とあり。

又、葛飾郡金町村條に「番人山田吉左衛門、山田善蔵、足立十蔵、各俸禄二十俵四人扶持、

村納米にて賜う。祖先は 尾州 義直卿に仕え、美濃国長良 小瀬の二村にあり。当時 尾州に

鵜匠役九人、鵜の篭持ち六人ありて、遊猟の興を輔く。この三人もその列なり。正保元年、

義直卿、大猷院殿に薦め参らせられしより、御遊猟の時、数々鵜を遣いたりしが、薨後は

そのこともなし。厳有院殿の時は、浅草 御厩河岸より この川筋の上流 豊島の地まで殺生禁制の

事を奉って川廻役を勤む。天和二年五月、又無役となり、同月 支配 志村七郎兵衛、筒井権兵衛

二人も職を免されて 小普請となりしにより、三人のもの官長を失いて、月俸を賜わるべき道

ふさがりしかば、若年寄 稲葉石見守に愁訴せり。ここに於いて、翌三年正月、伊奈半十郎の命を

伝えて勘定頭衆の支配に属せしめ、月俸を賜ること元の如し。然るに当関は、昔より村民の内にて

番人を定められしかど、関法おろそかになり来りしにや。元の番人等を罷られず、時に貞享二年五月、

足立伊右衛門、同弥市右衛門、山田貞右衛門、彦兵衛等四人、当関所番を命ぜらる。伊奈半十郎の

支配に属し、役屋敷、及び元の番人の宅地を賜いしより世々 相続せり、云々」とあり。

37,安房上総の山田氏 − − 夷隅郡大原町、安房郡鋸南町、安房郡富山町、山武郡芝山町、市原、鴨川、

東金、に山田の地名あり。これらの地より起りしもあらん。

38,下総の山田氏 − − 千葉家臣に山田伝十郎、山田次郎左衛門尉などあり。

又、小金本土寺過去帳に「山田五郎次郎、永正十六年二月 討死。山田惣右衛門、山田清右衛門」とあり。

39,上州平姓 − − 国志、山田郡高津戸要害山條に「この地は、堀河院御宇、山田七郎平吉之と云う者住し、

子孫 相続せしが、筑後守則之の代に至り、観応二年、桐生国綱の為に滅ぼさる」とあり。

40,上州源姓 − − 上野国甘楽郡の名族にして、第17項流と云う。白倉山田家系図に

「源姓、本国 尾張、家紋 笹、替え紋 左三巴、後世 常紋となす。満政六代の後胤 重継(伊豆守)、

三代の孫 重澄(山田太郎、白倉山田の先祖也、右大将頼朝に仕え射手の将となる、元暦 文治年中、

一の谷、屋島合戦に随従。東鑑に『重澄、日来朝夕伺候、殊に慇懃の忠を竭す。よって今日一村の

地頭を賜う。寿永元年三月五日云々』と。平家いまだ落去せざりし以前故、何国の何地とも仰せなき哉。

後、源氏一統の御代、鎌倉より上野国北甘楽郡白倉へ移り、城邑を領す)−重隆(次郎、頼朝公に仕う、

東鑑にあり)、弟 通重(右大将家に仕え 上洛供奉随兵先陣三十六番組)。重澄十三代の孫

山田左衛門尉重佐(代々白倉を家名に号す、永く居住。法名 法山重佐大禅定門。山の内管領

上杉兵庫助憲房に仕え、鎌倉殿以後、当国平井の上杉家に数代 旗下に属す。諸州の合戦に出陣

軍功あり)−道佐(右近、白倉と諸書にあり、天正八年三月十七日卒、法名 白倉院殿天漢道佐大居士。

数代 上杉憲政に属す。武州河越にて北條氏康に討負け給いて以後、天文二十年、平井城滅却、

当国大名 悉く武田氏に属す。甲陽軍鑑に白倉五十騎と。是なり)、弟 道政(武田信玄に仕え、

軍使を相勤む。甲陽軍艦に百足印一組の内也)。道佐の男 重家(童名 源太郎、源左衛門尉、武田信玄に

仕う)、弟 重治(庄右衛門尉、武田家に仕え 当国箕輪城主 内藤修理正、関東北の押さえの為 甲州より

入れ置かれ、西上州の大名残らず加勢也。重治、父の命より名代となり、五十騎を召連れ、箕輪城の

二の丸に籠り、勤番す)−女(同国中宿、首藤弥右衛門吉政の妻)、弟 主水(天正中 早世、当家断絶)。

云々」とあり。重家の子が数人おり、白倉氏として子孫多しと云う。

41,上野の山田氏 − − 翁草に鎌倉時代武士の所領を挙げて「三千五百町、上野の内、山田藤内氏基。三千町、

上野の内、山田宮内左衛門重方」とあり。

又、群馬庄 板井城主に山田伊賀守氏直ありと云う。

又、我妻七騎に「山田富田豊前守、山田富田伊賀守」などありと云う。

42,下野平姓 − − 宇都宮系譜に「平家の一族 筑後守貞能法師、当家に来りて塩原山に住す。その子孫

家臣となる。山田党と号す云々」とあり。

又、伝え云う 「山田は筑後守平貞能の孫にて、平家の一族也」と。横田系図に

「頼業の女子、山田越前守平貞林の室、貞俊の母」と、

43,那須氏族 − − 那須資親の子 資久、山田を称す。下野国那須郡の山田より起る。那須記に

「大膳大夫資親、永正八年、男子をもうけ、山田次郎資久と名づく」とあり。

又、系図に「資久、山田次郎、資永の為に害さる、時に六歳」と。

44,八田氏族 − − これも那須郡山田郷より起こる。八田権守宗綱の後にして、権右衛門宗近(

ェ永の頃)より系あり。

ェ政系譜に「山田。家伝に八田権守宗綱の末孫にして、下野国の那須郡山田郷に住せしより

家号とす、と云う。宗近(ェ永二年召されて、御広敷の添番となる)−宗成−近信−信方−信尹

−申義、家紋 三巴、丸に二引なり」とあり。

45,菅原姓 − − 下野国都賀郡山田村より起る。もと関氏、道仙正元に至り この氏を称す。

家紋、梅鉢、丸に木瓜。その孫 宗円正方にして、芸者書付に「二百俵、医師 山田宗円、

今程三百俵」とあり。その男 大佐正朝、その男 正珍なり。皆名あり。

46,清和源氏佐竹氏族 − − 小田野本佐竹系図に「佐竹冠者 昌義−宗義−六男 山田」とあり。

常陸国久慈郡の頃藤城は、小川城とも云い、上小川村の頃藤にあり、山田左近太夫通定 居城す。

建治中、佐竹氏胤の四男 宗義(義継、小川五郎)封ぜられ、子孫 累世ここにあり、後、同族の

小田野義村 住す。慶長七年、義忠、その男 宣忠、共に佐竹義宣に従い秋田に移ると云う。

47,常陸の山田氏 − − 当国久慈郡、行方郡、那珂郡、西茨城郡、猿島郡、新治郡に山田の地名あり、

これらの地名を名乗りしもあらん。 

真壁文書に「山田郷地頭職 平時幹」とあり。

又、新編国志に「山田。久慈郡山田郷より出づ。佐都宮奉加帳、永正十四年に山田大炊介、

同衛門五郎あり」とあり。

又、永禄中の矢田部文書に山田左衛門尉治広の名あり。

48,磐城岩代の山田氏 − − 新編会津風土記 会津郡香塩條に「旧家 山田孫左衛門、この村の肝煎なり。

十一代の祖を孫左衛門某とて、葦名氏に仕え 本村及び橋爪、田中等を領し、

向羽黒城三日町口を固めし云々」とあり。

又、「河沼郡原村、稲荷神社神職 山田伊勢。貞享中 摂津青重という者、神職となり、

四世を経て今の伊勢青寿に至りし 云々」とあり。

49,陸前の山田氏 − − 宮城郡亀岡八幡宮祠官にあり。天正の頃、山田宮大夫清重あり、

伊達侯、改めて山田土佐守とし、神主職となす(封内記)と。

50,陸中の山田氏 − − 当国九戸郡、胆沢郡、下閉伊郡、陸前高田、一関、久慈、北上、二戸市に

山田の地名あり。これらの地名を名乗りしもあらん。 

伝え云う「胆沢郡衣川の人に山田次右衛門なる者あり。善行を以って称せられ、

衣川の水を引きて 田畑に注ぎ、農業に利すること甚だ大なり。延宝元年没」と。

51,清和源氏南部氏族 − − 南部家譜に「利直の子 利長、山田を称す」とあり。

52,陸奥の山田氏 − −幕末、弘前藩士に山田登あり、明治に至り 富国強兵策を唱え、新田開発にも従事す。

53,羽後の山田氏 − − 浅利氏配下の将に山田氏あり。

又、秋田郡龍毛村の極楽館は、秋田家の将 山田喜兵衛の居所なりと云う(郡邑記)。

54,羽前の山田氏 − − 酒田の名族にして、藤原秀衡の妹 徳尼公に従いて下れる三十六人の一人也と。

       又、米沢上杉藩の重臣にあり。山田政苗(実成)は、儒者として名あり、蠖堂と号す。

       又、最上家用人にあり。

55,越後の山田氏 − − 当国北魚沼郡、南蒲原郡、三島郡、岩船郡、佐渡郡、小千谷、柏崎、新潟市に

山田の地名あり。これらの地名を名乗りしもあらん。

上杉謙信の家臣に山田修理亮あり(古志郡)。

又、景勝の家臣に山田喜右衛門あり。

又、糸魚川松平藩の側用人に山田氏あり。

56,加賀の山田氏 − − 加賀藩給帳に「四百石(家紋、一鱗)山田靭屓、二百石(家紋、三階松)山田仁右衛門、

百五十石(家紋、丸の内に三階松)山田平大夫、二百石(家紋、丸の内に一文字)山田佐盛、

百石(家紋、丸の内に一文字)山田勘右衛門、百石(家紋、角切角内一文字)山田橘次郎、

百石(家紋、丸の内に木瓜)山田兵馬、百二十石(家紋、丸の内岩形内に花笠)五十石加増 山田良助」とあり。

又、江戸時代、大聖寺の金工に山田宗光あり。

57,越前の山田氏 − − 当国丹生郡、今立郡、遠敷郡、大飯郡に山田の地名あり、この地名を名乗りしもあらん。

秀康卿給帳に「三千石 山田織部、二百石 山田信濃、百五十石 山田勘九郎、百石 山田與左衛門」等の名あり。

又、鯖江藩の用人に見え、山田喜平治、山田耕治、山田経三、山田由之、山田治平、山田名内、山田稔等あり、

58,丹後の山田氏 − − 丹後国諸庄郷保惣田数目録帳に

「與佐郡真正保六町五段三百二十四歩内、九段百八十歩、山田給介」とあり。

       又、與謝郡弓木山城主にこの氏あり、平姓と称す。家紋 丸の内鳴子に稲紐、稲の丸に五枚笹。

59,清和源氏毛利氏族 − − 丹波国多紀郡大芋庄の名族にして、丹波志頭註に

「義光−新羅十郎義忠−同七郎義高−同三之允義治−河内祐義胤−兵庫介義長−左京亮義貞(

建保の乱、北條に属し、丹波国大芋郷に居住、号 山田)−義久−義広(尊氏に属す)−民部頼広

−十郎重氏−彌助重弘−十郎右衛門利国−七郎国元−采女三郎元久−丹彌利元−源太郎利忠

−彌七広吉−五郎左衛門輝吉」とあり。

又、家系図に「山田五郎左衛門輝吉(輝秀に従い一字免さる、又 感状あり)−左近治忠(弟に

山田五郎七吉元あり)−左兵衛忠行−左衛門行春−七九郎春精−孫右衛門精永、弟 左衛門清虎

−六大夫秀永−秀国」とあり。

60,丹波の山田氏 − − 当国氷上郡山南町、氷上郡春日町に山田の地名あり、これらの地名を名乗りしもあらん。

61,橘姓 − − 京極長門守家臣帳に「山田左衛門良次−越中守良政(実は多賀豊後守高満の男、秀吉に仕え

丹波船井郡百七十石を領す)−某(大炊之助)」とあり、家紋、丸に橘。

62,因幡の山田氏 − −天文の頃、山田重正あり、武田常信、南條隆宗と共に伯耆に攻め入ると云う。

又、大永五年の連歌巻子跋に「大野郷主 山田安芸守家治」とあり、因幡志に

「巨濃郡湯村大野城、山田安芸守家治、秀吉のとき没落、もと法美郡法華寺村 今 衣山の城主」とあり。

又、南條系図に「中務家士に山田越中あり、讒言によりて小西行長に預けらる」とあり。

63,赤松氏族− −播磨発祥なり。当国賀茂郡、明石郡等にこの地名存し、赤松 宇野氏の祖 則景は、

山田伊豆守と云う。

       東鑑 正治三年條に「山田左衛門尉家範」とあり。

       尊卑分脈に「赤松季方−季則−播磨守頼則(号 山田入道)」と。

       又 赤松系図に「源大夫季則−頼則(播磨守 号 山田入道)−則景(播磨守)、弟 為助(宇野新大夫)」とあり。

64,備前、備中の山田氏 − − 赤磐郡、和気郡、邑久郡、浅口郡、上房郡、総社市、井原市、笠岡市、

玉野市、岡山市に山田の地名あり。これらの地名を名乗りしもあらん。

伝え云う「尾張の山田駿河守重英、元暦中、源範頼に属して 平氏を討ち、功を以って

備中二十八村を食み、後月郡(阿賀郡)西方に住す。その子孫に山田安五郎球(琳卿)あり、

方谷と号す。名儒として名あり、松山藩に仕う」と。

65,美作の山田氏 − − 新免家侍帳に山田勘介(吉野郡小原庄古町村)の名あり。

又、駒井家家臣に山田瀬助あり。

又、東栗倉庄吉田村の春名氏は、本姓山田、福島正則の家臣にして、慶長五年文書に

「山田喜兵衛、三百三十石」と載せ、江見系図に「左馬之介(一に左馬助久治、後、源内)

−勝久(寺八郎、一に與八郎、川戸村住、後、山田喜兵衛と改め、正則家臣 五百五十石)

−盛勝(山田喜兵衛、後、半之丞、三百五十石)、弟 盛○(山田仁兵衛)」とあり。

又、勝北郡植月郷中村の伊勢屋は、当村第一の旧家にして、伊賀国名張城主 山田左衛門長政の末流、

当地にその祖 山田左衛門の塚ありと。

又、勝間田の山田氏は 宇喜多家臣の裔と云う。

又、苫田郡寺元の山田氏は 尼子家臣 斎藤河内守実秀(西屋城主)の裔にして、その男 玄蕃介近実、

その男 実治、実直にして、実直、因幡の士 山田采女の娘を妻とし、山田に改むとぞ。

又、江戸時代、津山藩の重臣にあり、分限帳に「千石 山田主膳、百石 山田仙右衛門、百石 山田左右馬、

百五十石 山田喜作、五十石 山田休治、十人扶持 山田彦蔵、四十五俵 山田精助、十八俵三人扶持 山田泰蔵」と。

66,吉川氏族 − − 芸藩通志 加茂郡溝口村 山田氏條に「先祖 山田内蔵助は、吉川家の庶流なりしが、その子

元正 当村の農民となる」とあり。

       又、豊田郡條に「上河内村山田氏。先祖は、山田弾正左衛門、賀茂郡下野村より、当郡入野村に移り居る。

鶴法師というものありて、朝鮮の役に赴き、帰りて 名を太郎右衛門と改め、遂に農民となり、その後、

       幸松なるもの、当村に移住して庄屋となる。それより今の礼蔵まで七代なり。今の庄屋 和十郎も、

また同族なり」とあり。

67、周防の山田氏 − − 山口藩士に多く、殊に山田顕行の男 顕義は、幕末明治に功多く、賞 六百石、

後、伯爵を賜う、嗣子 早世し、弟 繁栄、家を継ぐ。

又、幕末 勤王家に山田亦助実之(公章)あり、愛山と号す、贈 正四位。

68,安芸の山田氏 − − 芸藩通志 高田郡條に「山田城は 山田孫右衛門居る。この他 村内に軍陣場とて、

所々 平坦な地あり。その近辺の谷に、水汲み場と呼ぶ所あり。云々」と。

又、佐伯郡條に「廿日市 山田氏、先祖 鎌倉の人、承久年中、山田次郎貞則、鎌倉より来り、

厳島神社修営の鉄具を造る。よりて田宅を賜い、遂に廿日市の人となり、世々 鋳工たり。

宮島にも宅地を給す(厳島社、永世 他家の鋳物を用いられず。厳島と廿日市の人家、釜鍋も

他方の所鋳を用いしめざるよし、天福年中、桜尾城主親実の定書なども持ち伝えり)。

十三世 治部、小早川隆景より 宅地を定め賜い、桜尾城士 絲川某の子を養いて嗣とす。

名を久種と命ず。十五世 宗次郎秀久、善右衛門伊房と改名す。十七世 次右衛門貞友は

大里正となり、帯刀を許さる。貞則より今の次右衛門まで二十三世。家に桜尾家、毛利氏などの

文書数通を蔵す。黒川村に支族あり」とあり。

又、「佐伯郡上小深川村の山田氏。先祖 伊勢国の山田より来り、世々 祠官たり。或いは 里職となる。

今の仁左衛門に至る、四十五世と云う」と。

又、高宮郡條に「大林村 山田氏。先祖 山田縫殿助、熊谷氏の長門に移るの日、従わずして

留まりて農となる」と。

69,紀伊の山田氏 − − 当国那賀郡、有田郡、伊都郡、日高郡、海南市に山田の地名あり。

これらの地名を名乗りしもあらん。

日高郡山田荘に地士 山田喜兵衛あり。

又、道成寺の正平十四年の鐘銘に「大工 山田道順、小工大夫守長」とあり。

70,讃岐の山田氏 − − 当国に山田郡あり、また大川郡、木田郡、坂出市、観音寺市に山田の地名あり。

これらの地名を名乗りしもあらん。

又、全讃史に「中川城は、牛川村にあり、山田弥七 ここに居る。羽床伊豆守の麾下なり」とあり。

71,伊予の山田氏 − − 宇和郡山田村より起こる。山田善福寺縁起に「天平年中、天下に疱瘡流行す。

時の郡司 山田貞春 大いに悲嘆し薬師を彫刻して南の嶺上に堂宇を建立して安置す。

それより三百余年にして、左中将光義と云う人、当郡主たり。長子 両眼 明を失う。

父母 宝前に参篭する事 十七日にして、両眼忽ち明らかなり。これによって、長谷部貞久

       と云う人に命じ、この堂を再建して今の所に移したり」と。

       又、清良記に「山田備前守治元、その子 治法、その子 治信」とあり。

       又、江戸時代、松山松平藩重臣、用人にこの氏あり。

       又、大洲加藤藩の用人などにもあり。

72,大中臣姓 − − 土佐国香美郡楠目の名族にして、蠹簡集記に

「今、天文二十三年文書、山田教道、吉松孫兵衛尉に与えるの書を按ずるに達家に於いて

存分なる者の語あり。危急の時なるや疑い無し。又、弘治三年、秦覚世、柳瀬に与えるの書に

今度心遣いを以って当山に相果つ、忠節神妙の語あり。これを以って推すに、弘治二年に

滅亡たるや必せり。当山は 蓋し、薤生を指す也。又、古城伝承記に『ここに山田治部少輔大中臣元義と

云う人あり、香我美郡山田郷三千貫を領し、楠目に居城してければ、門葉領内に充満す。長曾我部国親は、

吉田大備後に談じて これを攻め給う。五百余騎を従えて山田へぞ押し寄せける。一手は吉田大備後、

江村小備後、坂折山の北方に打って出で、国親は、三百余騎を従え、国分寺前を東へ向かわれ、

忽に攻め落とさる』と。その山田万松山予岳寺は、元義の先祖の菩提寺なり。されば この寺に葬りける」とあり。

73,清原姓 − − 豊後清原系図に

「定額−正高(始めて豊後国玖珠郡住)−通成(山田二郎大夫)−通綱(山田六郎大夫)」とあり。

又、豊後遺事に「正道の次子 道成、山田郷を食し、山田氏とす 云々」と。

74,宇都宮氏族 − − 豊前の名族にして、上毛郡の山田郷より起る。宇都宮大系図に

「宗房−山田政房−景長−泰成」とあり。

当郷川内村に山田城跡あり、山田氏代々の城蹟にして、宗像社記に「文治元年、

宇都宮上総介藤原泰成、関東より来り、上毛郡山田城主となる云々。天正十五年、山田城主

常陸介親実に至り落城」と。

75,大友氏族 − − 立花系図に「親貞−親続−親久−親方−親秀−統貞−親貞(山田数馬助)」とあり。

76,武藤氏族 − − 武藤系図に「太宰少弐経資−貞資(左衛門尉、資茂殿)−右近将監資通−山田尾張守」とあり。

77,筑紫の山田氏 − − 上記二項の他、天正末頃、荒平城主に山田常陸介増光あり。

又、久留米藩士に山田【禾+曳】養(イネヤス)あり、幕末功あり、明治になり、渡米し、

弁護士となり、また、貿易商ともなる。

78,肥前の山田氏 − − 当国高木郡に山田庄あり、この地名を名乗りしもあらん。

又、有馬氏族にあり。有馬世譜に「有馬正行公(経澄)の末子を島原殿と云う。越前守経尚より

子孫連綿して島原と称す。数世の後 山田氏と云う」とあり。

又、江戸時代、丸岡有馬藩の重臣に山田氏あり。

79,大村氏族 − − 彼杵松岳城主に山田兵部あり。

80,肥後の山田氏 − − 当国天草郡、球磨郡、上益城郡、阿蘇郡、宇土郡、玉名市に山田の地名あり、

これらの地名を名乗りしもあらん。

幕末、細川藩の勤王家に山田信道あり、明治にも功多く、男爵を授けられる。

81,菊池氏族 − − 嘉吉三年の菊池持朝侍帳に「山田兵部次郎朝明」の名あり。

82,島津氏族 薩摩国谷山郷山田村より起こる。その出自については、

       島津系図に「島津忠久−忠義−忠継(山田式部少輔)−忠真−宗久」と。

       又一本に「島津忠久−忠時−忠継(山田式部少輔)・山田家祖」と見え、

       諸家系図集には「忠継−忠直(式部少輔)−宗久(式部少輔)」とあり。

83,薩隅の山田氏 − − 当国薩摩郡、日置郡、伊佐郡、大島郡に山田の地名あり、これらの地名を名乗りしもあらん。

又、伝え云う「建久年中 山田式部なる者、薩摩に降り、山田に住し、日置を兼領す。その裔、

山田式部有親、島津実久に組す」と。

又、慶長の頃、島津氏の将 山田越前有信、日向児湯郡の高城の城主にて大剛の士なりと云う。

又、囎唹郡財部の黒柳砦は、島津氏の将 山田有信の陣所と云い、姶良郡敷根村の菅原神社の

慶長七年棟札に「奉行 山田越前入道有信」とあり。

又、出水郷の菅原神社は 慶安二年に地頭 山田民部有栄 再興す、と云う。

84,出雲石見の山田氏 − − 隠岐郡、邑智郡、大原郡、大田市に山田の地名あり、これらの地名を名乗りしもあらん。

又、堀尾山城守給帳に「二百五十石 山田長三郎、二百石 山田勘兵衛、百五十石 山田孫次郎、

百五十石 山田弥伝次、百五十石 山田市左衛門、百五十石 山田弥五郎、百石 山田勘平、

五十石 山田勘左衛門、四十二石四人扶持 山田伝左衛門」等の名あり。

85,蝦夷地の山田氏 − − 地理志料に「文化中、商 山田文右衛門、新道を開き、結淵に通じ、

以って運輸を便にす。安政中、又 石狩豊平の山道を通ず」とあり。

86,桓武平氏 − − 小松内大臣 重盛の裔に山田盛賢あり、と云う。

87,茶道の山田氏 その祖 山田宗ヘンは、仁科氏、三河国吉田の人にて、母姓 山田氏を称す。

宗旦(利休の孫)の門にて、不審庵、今日庵、四方庵、方圍齋など称す。

不審庵二世は、山田宗引なり。

       その他、織部流に山田玄瑞、石川流に山田灌水、普齋流に山田逸齋、

       遠州流に山田大有、また織田卜齋流に山田太郎左衛門などあり、皆名あり。

88,他 


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