若   林(ワカバヤシ)

解説

山城 大和に若林庄あり、その他 伊賀 三河 遠江 武蔵 陸前

陸中などに此の地名あり。

石川県七尾市、大阪府松原市、同 八尾市にこの地名あり。

分派氏族

 

1,摂津の若林氏 莵原郡の名族なり。「用明天皇の朝臣に巌藤太夫重則なる者

       あり、勅命によりて、安芸厳島明神に使いし、その功により当郡内郡家、

       今の南荘を賜る。その裔 若林隼人尉範房、保元の頃、荒熊武蔵守興定

       に次いで、北山城主となる。二十四代 太郎左衛門尉満秋の世に至り、

       本庄、山路庄、南庄、都賀庄、吹屋庄を領す」と伝え、その子宗左衛門

       正秀、天文九年正月二十二日、莵原合戦に死す。その系図に

       「十九代中祖 勝岡(若林隼人尉、応永八年七月二十五日卒)−秀勝

       −満秀−満真−満重−満秋−満介−正満−正家−正雄−政永−敏英

       −利綱−忠次−正富」とあり。

2,中原姓 伊勢守有家の後なりと云う。家紋 井桁、藤。

       中興系図に「若林。中原、紋 井桁」とあり。武蔵松山城主 案独斎

       家臣、新左衛門龍定(和泉)の男 新左衛門直則、家康に仕え千百石。

       その男 六郎左衛門三由なり。

3,松平氏族 三河国碧海郡若林村より起こる。この地は 康正二年、造内裏段銭、

       並びに国役付に「八百十文、借宿五郎殿、三河国豊原庄 若林郷 段銭」とあり。

氏は、五井松平の庶流にて 家康の臣 作右衛門忠直より系あり。

       家紋、 丸に井桁、五本骨扇。

4,藤原姓 永井氏の裔なり。庄蔵友住、若林を称し、その男 源内友矩、幕臣となる。

       ェ政系譜に「庄蔵友住(享保二十年、御普請役に召さる)−友矩−友寧、

       家紋 鞠挟、井筒に蔦」と。

5,武蔵の若林氏 − − 平安末期、源頼義の臣 若林某は、足立郡箕田郷に住すと云う。

又、豊島郡上駒込村の妙義社 神主 若林氏は「昔は 日奉氏、小膝太郎とて、西党の族なり。

管領家の頃は、南党と称し、又、南一揆とも云えり。戦争の世、姓名を変じて稲葉左衛門と改む。

然るに 熊王の先祖 若林大膳、相州の川村より来りて、神職となる、ェ永年間なり。それより

世々 相続す」と云う。

又、伝え云う「多摩郡下小山田村の名族にこの氏ありて、先祖を若林但馬と云い、小山田氏の

人に仕えしとなり。思うに北條氏分国の頃、この辺を領せし 小山田弥三郎等に仕えし

ならんか と云う。

又、棚沢村の熊野神社の神主家に存す」と。

6,加賀の若林氏 − − 三州志に「剣城は、長享の頃、賊魁 坪坂平九郎居たり。後、若林長門居たりけるを、

天正八年、佐久間盛政、謀りて長門を殺し、この城を取れり」とあり。

又、「石川郡野々市城は、天正八年、(柴田)勝家、加州の諸堡を攻める時、若林雅楽助、

同 甚八郎ここに拠るを、勝家謀って これを殺し、勝家 しばらく居りたること織田軍記に見ゆ」とあり。

加賀藩給帳に「百石(紋、丸の内に桔梗)若林清左衛門」とあり。

7,丹波の若林氏 − − 氷上郡の名族にして、丹波志に

「若林文平、和田庄 若林村。年若の時より手跡を好む。父は 若林仁兵衛と云う」とあり。

8,橘姓 豊後国若林郷より起こり、直隆を祖とす。家紋、丸に蔦、蛇目。

       豊薩軍記に若林入道道閑を載せ、又、日向記に、若林大炊兵衛尉秀信あり。

後世、武左衛門隆治、寛文中 江戸幕府に仕う。

9,他 


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