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和 田(ワダ) |
解説 |
諸国にこの地名ありて数流の氏を起こす。 全国に251ヶ所あり。 |
分派氏族 |
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1,橘姓 −
− 河内発祥の豪族にして、楠氏の族なり。尊卑分脈に
「正遠−正成、弟 正氏(和田七郎)−行忠」と。
橘氏系図に「正成弟 正氏(和田七郎)−行忠、弟 高家(四條縄手に於いて討死)」と。
2,中臣姓 − − 和田系図に
大中臣、氏神伊勢大神(奉崇河州、号 森山大明神)。常磐卿−方工卿−國子大連公┐ |
正安三年七月二日文書に「京都大番の事云々、和田修理亮」、
同十月十日に「和泉国御家人 和田修理亮助家」とあり。
3,和泉の和田氏 − − 岸和田古城(岸和田市上町)は、この氏の居城にして、和田新兵衛尉高家 始めて
城郭をここに築く。よりて岸の和田と称し、後に村名となると伝えられる。元弘三年
楠木正成、摂津、河内、和泉を賜うや、和田高家を当国に置く、その子 正武また当城に住す。
又、上城(美木多村上)は、和田源秀の居城なりと云い、和田氏の裔、今
桧尾にありとぞ。
又、大鳥郡和田城は、和田高遠の居城なり。その子 正遠の次男 正朝の子
和田和泉守高之、
出家して明頓と称し、一宇を建立して印部道場と呼ぶ。後、三世 善寂の時、永正十年、
本山より永正寺の号を与えられ、後に永祥寺と改むとぞ。
4,摂津の和田氏 − − 島上郡芥川城は、久しく細川氏の属城にして、永禄十一年九月、信長 当国に入るや、
細川六郎(聡明丸)、三好日向守長縁など居守せしが、長縁逃れ、十月二日 信長入城して、
和田伊賀守惟政に与う。元亀四年に至り、荒木村重に攻められて陥落す。
又、高槻堡(大冠村西天川)は、永禄十一年和田伊賀守惟政の築きしものなり、後、
大津伝十郎 当城に拠る。その後、高槻藩 和田祇忠の子 泰純は、御医に上げられ、
法橋に叙せられ、舎章齋東郭と号す。
5,大和の和田氏 − − 平群郡の豪族にありて、一説に輪田氏とも云う。もと鳥見庄の下司にして、
享徳二年の大乗院御領段銭日記に「鳥見庄下司 輪田鳥見入道」見え、子孫
鳥見城に拠る。
郷土記に「鳥見平城(和田右衛門、福西藤賀)」とあり。
又、伝え云う「吉野郡の名族にありて、和田和泉守の裔と伝えられ、吉野旧事記に
和泉守正武の名見ゆ。その子孫 今にあり。また和田村と云う所あり。
その里の長を和田と呼び、而して、姓となす故に和田氏多くあり」と。
6,物部姓 − − 物部守屋の後と云う。弓削氏にして、守屋大連の末孫と伝え、和田五郎兼通、
和田豊前守など有り、子孫 伊能氏と云う。
又、「大永中、和田蔵人なるもの、東国より伊勢国奄芸郡稲生村に来たり、
神領を支配して、稲生城を築き、名を藤盛と改む」ともあり。
7,蒲生氏族 − −近江国発祥にして、蒲生系図に
惟賢(始めて江州 蒲生を領す)−権二郎俊景┬俊親 |
又、一本に「蒲生惟季−惟俊、弟 季俊(和田二郎)」と載せ、
蒲生俊顕は、近江国甲賀郡和田に住して和田を称すと云い、下野守秀綱の弟
「政秀 和田丹後守」とあり。
又、中興系図に「和田。藤原姓、本国近江、鎮守府将軍秀郷九代、権二郎俊景
これを称す」と。
8,清和源氏善積氏族 − −近江国甲賀郡和田邑より起こる。ェ政系譜に
「氏家四代孫 信濃守某−宗立−伊賀守維政(惟政・将軍義輝・義昭公に仕う)−維長(惟長)−維重−維久−惟春」と。 八百九十石、家紋、丸に横木瓜の内左巴、裏菊、輪。 |
9,佐々木氏族− − 六角氏の庶流にして、近江国神崎郡和田村より起こり、和田山城(和田山)に拠る。
和田山と云うもの堤なり。輿地志略に「六角政頼の三男 和田出雲守高成、これ神崎郡
和田氏の元祖なり。永禄の乱に馬淵山城守家綱、同 兵部少輔建綱、同
賢久、同 定房、
同 家盛、松原弥兵衛賢治、木村筑後守重孝、宮木賢祐、和田喜助、同
新助など篭城し、
甚だ防戦す。然るに箕作の城陥落によって、佐々木義弼の下知によって、
和田山の城を開き、甲賀に参陣す、永禄十一年九月なり」と。
又、滋賀郡雄琴城(雄琴村)も輿地志略に「相伝う、和田源内左衛門
秀純居城の跡なりと云う。明智軍記に『雄琴の城には、和田中務亟秀純』と載せ、
四海太平記には『雄琴の城主和田兵部少輔』と見ゆ。按ずるに和田秀純は、
佐々木六角高頼の弟、大膳大夫高盛の子なり」と。
又、「六角定頼の弟 高盛、和田大膳大夫と称し、その子 中務丞秀純」とあり。
10,清和源氏高屋氏族 − − これも近江国の名族にして、尊卑分脈に
「柳冠者宗実−河曲五郎実忠−実信−頼実−頼泰−頼信(和田弥五郎)」と。
又、輿地志略に「和田孫次郎真遠は、清和源氏満季の後胤、小倉進士
景真の弟、河曲五郎四代の庶流なり」とあり。
11,清和源氏土岐氏族 − − 美濃国の名族にして、土岐系図に
「(浅野)土岐判官光行−判官代国衡−国重−頼衡(和田元祖)」とあり。
12,美濃藤原姓 − − 池田郡(楫斐郡)和田村より起こる。佐兵衛尉藤原叙継 和田郷の地頭職となりて
この氏を称す。新撰志に「和田村和田氏宅跡 和田佐兵衛尉藤原叙継(後に叙国と改む)、
和田郷の地頭職なり。その子 新兵衛尉叙宗、その子 五郎兵衛尉利叙、その子
八郎兵衛尉叙吉の時、本巣郡船木庄 十六條村に移れり。太閤記に載せたる和田弥太郎も、
ここより出でし人か」と。
又、同志、本巣郡美江寺村古城跡條に「城主は和田八郎、和田佐渡守、和田伊與守高成、
和田将監高行など、代々ここに住みて土岐氏に従いしと云う。天文十一年九月三日の夜軍に
放火に焼かれて、廃城となる」と。
13,奥平氏族 − − 三河の名族にして、奥平系図に
「貞俊−道頓、弟 某(和田出雲守、親類六人の座主なり)」と。
14,三河の和田氏 − − 当国八名郡和田村より起りし和田氏あり。和田民部は同村 和田城に拠る。
又、宝飯郡「西郡蒲形城は、正平の頃、和田蔵人兼清 居城す」と。
15,幕臣橘姓 − − 和田七郎正氏 末孫大石氏裔、安兵衛持義に至り、和田に復し
幕府に仕う。ェ政系譜に「家紋、丸に花橘、菊」と。
16,算数家 − − 江戸後期、播磨三日月藩の藩士 和田寧は「円理極数術」を著わす。
17,甲斐の和田氏 − − 当国西山梨郡相川村に和田の地名あり、この地名を名乗りしもあらん。
18,倭太姓 和田氏 − − この和田さんは 信濃国安曇郡の名族にして、穂高神社の旧神職なり。
これは安曇氏と関係深き大和氏の族・倭太(ヤマトノオウ)氏の裔と云う。
19,大井氏族 − − 信濃国小県郡の名族にして、和田城は、天文十六年、武田晴信、
秋山晴近を城主とし、後、大井備前信定 居城す。この信定は 武石城主
大井信広の二男にして、和田大炊介信定と云う。
20,清和源氏満季流 − − 中興系図に
「和田。清和、本国 信濃、武蔵守満季 十三代柳河曲末の孫 九郎頼信 これを称す」と。
又、伊那武鑑に「和田金左衛門(十五貫文)」とあり。
21,桓武平氏北条氏族 − − 伊豆国の名族にして、平直方、初め 阿多美(今、熱海)の和田に居り、和田四郎大夫と云う。
22,桓武平氏三浦氏族 − − 相模国三浦郡和田邑より起こる。尊卑分脈に
「三浦介義明−義宗−義盛(和田左衛門尉)−常盛、弟・義秀」と。家紋、三引龍に巴。 |
23,幕臣平姓 − − ェ政系譜、良文流に和田氏あり。家紋、七曜、月に星。
24,武蔵の和田氏 − − 新編風土記に「橘樹郡今井村和田源蔵、同 伝左衛門、共に御霊屋村の百姓なり。
何れも和田義盛 末葉なり、系図、武器なども蔵せしが今は失えり」と。
25,安房の和田氏 − − 斎部(インベ)宿禰本系帳に
「斎部統光の妻は、当国住人 和田権守正忠の娘、長徳二年死」とあり。
又、里見氏の家臣に和田氏ありと云う。
26,上総の和田氏 − − 東鑑に「和田左衛門尉義盛、日来(日頃) 上総国の伊北庄に在り」と。
又、沼田の荘 池和田の地(池和田城)は、古え、和田太郎正治が居城せし地なり、よって、名づくと云う。
又、山中城は、根古屋の地にあり、和田胤信 ここに居り、小田原北條に属して、近郷十四村を
領せしが、天正十八年に亡ぶと云う。
27,下総の和田氏 − − 成田市、四街道、八街、印旛郡、匝瑳郡に和田の地名有り。この地名を名乗りしもあらん。
千葉氏の家臣に多く、六代 胤綱の旗本八組頭に和田越中あり、また、胤綱の妹は、和田小次郎の妻と云う。
又、二十二代 輔胤の旗本に和田兵庫助、その後、和田内蔵允、和田左衛門尉等有り。
28,和田祝 − − 常陸の名族、鹿島社の祝(はふり)にして、新編国志に
「和田。鹿島郡和田の地より出づ(梶山村の内にあり)」と。
応永二十九年の連署に「和田祝大中臣次家」とあり、又、永享七年の連署に「和田権祝部中臣久家、
案主 和田久道」とあり。
29,清和源氏佐竹氏族− −常陸の名族にして、和田城(坂本村)は、文明中、佐竹氏の族 長倉伊義の二男
義成(和田二郎)居城し、子孫相継ぎ、慶長七年に羽州に移る。
又、宍戸城は天正中、佐竹氏の為に滅ぼされ、佐竹氏の将 和田河内守 居城すと。
又、佐竹家臣に和田大隅守、その男 安房守為照は奥州白河の赤館城を守る。
30,上野の和田氏 − − 当国群馬郡に和田の地名あり、この地名を名乗りしもあらん。
又、和田義盛の子孫と云う者あり、和田系図に「和田義盛より出で、世々 和田の城主なり。
天正十八年、小田原滅亡に従い絶家」と。
国志に「和田城は、群馬郡、今の高崎なり。和田義盛の七男 六郎左衛門義信、鎌倉合戦の時
逃れて蟄居し、上野国に至る。その子 正信、始めて和田の城を築き、代々居城し、十代の孫
右衛門大夫信輝は、上杉憲政に属し、天文七年七月、武州川越合戦の時討死す。その子
右衛門大夫業繁なり。永禄六年、信玄、馬を上州に出して箕輪城を責落す。この時、
信玄に降る者、九人。大羅、高山、白倉、倉賀野、王土、上田、後閑、永禰、和田、これなり。
同九年七月、上杉輝虎、和田城を攻む。信玄、これを聞き、臣 横田十郎兵衛を遣わして
これを救わしむ。輝虎、大軍を以って これを攻むと雖も、和田、横田、相共によく守り防戦、
遂に敵を払う。天正三年、武田勝頼、遠州の長篠城を攻むる時、麾下に属し、五月二十一日、
酒井左衛門の鑓下に戦死し、その子 信業、実は 跡部尾張守源勝資の嫡男、養子となり、
女子を妻はす。始め、又八郎、後、右兵衛大夫と称す。甲州 滅亡の後、北條氏直に属し、
天正十八年七月、豊臣秀吉、相州 小田原を攻む。この時 和田城を出でて、小田原城中に入り、
同月十五日、城陥る。故に城を去って和田城に帰らんと欲すと雖も、敵、途を遮り
入るあたわず、城もまた滅ぶ」とあり。
31,上野国 藤原姓 − − 当国新田郡の名族にして、岩松文書、康安二年二月二十一日、足利基氏
判書に
「白旗一揆、上野国藤家一揆、和田宮内少輔を相具し云々」とあり。
32,秀郷流藤原姓足利氏族 − − 尊卑分脈に
大屋三郎秀忠(美濃守)┬秀宗(実は外孫、和田三郎平宗妙の子)−秀康
└俊賢−宗綱(和田左衛門尉、承久の乱 討死)
又、「秀宗、大和守、河内守、実は 和田三郎平宗妙の子なり。秀忠の外孫たるによりて
嫡男となり、姓を藤原と改め 相続し了んぬ」とあり。
又、中興系図に「和田。藤原姓、左衛門尉武者所 宗綱 これを称す」とあり。
33,秀郷流藤原姓佐野氏族 − − 系図に「木村五郎宗綱−刑部基光−光行(和田七郎)」と。
又、「佐野常世−源左衛門尉常行−常重(和田源内)」とあり。
34,磐城の和田氏 − − 石川郡江持館は、文安年間、和田城主 秀信の五男 源蔵(
近江守)秀顕、江持・堤の両村を所有し、その男 秀次を堤に分家すと。
35,岩代の和田氏 − − 二本松の丹羽藩の重臣に和田氏あり。
又、会津郡の白岩館跡は 和田左衛門為宗が住した地と伝えられる。
36,羽後の和田氏 − − 当国河辺郡、平鹿郡、南秋田郡、山本郡、秋田市、鹿角市に和田の知名有り。
この地名を名乗りしもあらん。
郡邑記に「南秋田郡潟上 和田村の鷲尾館は 三浦党の和田五郎盛末の居所」とあり。
37,羽前の和田氏 − − 当国西田川郡の木野俣城主に和田氏あり、永慶軍記に「木野俣の城主
和田源蔵」とあり。
又、米沢の俳人に和田東湖(一甫)あり。
又、幕末、和田理一郎中彦あり、庄内の人なり、新徴組の隊長なり。
38,越後の和田氏 − − 和田義盛の六男・兵衛尉義信の後にして、沼垂郡和田野邑
和田城は、和田小太郎の古城と伝えらる。
39,加賀の和田氏 − − 加賀藩給帳に「八百石(紋、杏葉)和田権五郎、二百石(桔梗)和田繁蔵、
七百石(並五枚鷹羽)和田小右衛門、百五十石(丸の内二引)外五十石加増 和田数馬」とあり。
40,丹後の和田氏 − − 当国竹野郡の名族にして、三津城(三津村)は、和田助之進末次の居城と云う。
41,丹波の和田氏 − − 当国氷上郡に和田村あり、この地名を名乗りしもあらん。
伝え云う「氷上郡和田村の蛇山岩尾城は 和田城とも云う。和田氏の居城にして、永禄中 没落す。
後、天正元年、木戸住丈坊 ここに拠り、佐野下総守と号す。明智の乱にまた没落せり。
この和田氏は 桓武平氏三浦の族かと云う。和田日向守は、永正十七年、信濃国南和田より来り、
谷野兵部を頼りて兵部の婿となりしが、程なく兵部を討つ。二代目 作左衛門、永禄中 亡ぶ」と云う。
丹波志に「和田氏。子孫 岩屋村、先祖は 和田村の城主 和田駿河入道にして、後ここに来住す」と。
又、「和田氏。子孫 遠坂村 和田。先祖は 関東より来る、浪人なり。ここを開発して住し、字を和田と云う」と。
又、「和田庄司。黒の井支地下村。天正の頃、地士なり、子孫 字檜山と云う所に古塚あり」と。
又、丹波志 天田郡條に「和田加茂太夫。子孫 多保市村、古え、屋敷在中、戊亥の田地に和田と云う所
これなり。その近所を和田の前と云う」とあり。
42,因幡の和田氏 − − 因幡志に「智頭郡大内村の草木城は、和田祐興の居城にして、木下乘雲に属し、
その家老たり」とあり。
又、江戸時代、鳥取池田藩の重臣に和田氏あり。
43,美作の和田氏 − − 宇喜多直家の家臣に和田七郎左衛門義起あり、子孫 勝田郡上香山に存す。
又、安東系譜に「江見若狭守九女は、吉村の和田市右衛門義高の妻。
市右衛門家を安東八郎左衛門(信治、徳兵衛高信の三男)継ぐ、即ち、
豊国社の内にて、原、北村、吉村、和田の四ヶ村を後藤氏より拝領」とあり。
この氏は、和田義盛の裔と云い、天正年中、信治安東氏に改め、
後 又、和田に復す、勝田郡吉村の名族なり。
又、苫田郡上河原の庄屋に和田治部左衛門あり。
又、各務系譜に「兵庫正氏の五女・豊久田村福田 和田右衛門の妻」とあり。
又、地理志料に「西上分に玉林院あり。当山派の修験にして、楠氏の族
和田元政の子 玉林の後なり」と。
44,三宅姓 − − 備前国児島郡和田村より起るかと云う。太平記巻七に
「備前には 今木、大富太郎幸範、和田備後二郎範長」とあり。
又、相伝う「和田備後守範長の在所は、邑久郡射越村なりしと。範長は 児島三郎高徳の親にて、
一族 和田四郎範家、同五郎範氏、射越五郎左衛門尉範定、今木太郎範秀、舎弟
次郎範仲、
大富太郎幸範等、皆、勤王の士なり」と。
系図に「範長(和田備後守、三宅範勝の養子となる)−三宅高徳(児島備後三郎)」とあり。
45,備後の和田氏 − − 第1項の裔なり。芸藩通志 三谷郡條に
「向江田村の和田氏。先祖は 和田正武の子、正縄。弟 正清と共に貞治中、足利直冬に属して、
遂に備後の江田広川に居住す。今の良左衛門まで十五代なりと云えり。建武元年、正成へ下さる
綸旨を持伝う。又、正清が仏像を納めて持居たりし陣鼓の胴を蔵せり。仏は、世羅郡廃観福寺の
小堂に在りと云う」と。
46,安芸の和田氏 − − 芸藩通志 佐伯郡條に「小方村の和田氏。先祖より ここに家すと云う。元和以来、
数代里正たり。明和年中、功労あるを以って、氏を称するを許さる。、国老 上田氏の采地なれば、
彼の家より武器、乗馬を与えらる。宗固手作のものも、また家に蔵す。今の代を孫左衛門と云う」とあり。
47,防長の和田氏 − − 長州藩勤王の士に和田小伝次あり、生野の義挙に加わる。贈 従五位。
48,熊野直姓 − − 続南行雑録等によれば「紀州 熊野の名族にして、日高郡の和田より起りしかと云う。
熊野本宮の社家にして、熊野直の裔と云う」と。
竹坊家の系図に「大阿刀足尼命−稲比大直(建毛呂乃命)−大乙世乃直−国志麻乃直−夫都底乃直
−大刀見乃直−石刀禰直−土前乃直−高屋乃直−伍百足(正七位上 勲八等、郡司擬大領)
−租萬侶(擬大領)−蝶(従七位 擬少領、延暦十四年三月、改めて連姓を賜う)−多賀志麿(大領)
−奥主−広主−広継−広方(寛平九年、行幸の時、行長となり、郡司に任ぜられて これを領し、
橘氏に改む)−良輝−良形−良冬(号 和田庄司)−良和(号 和田庄司)−良仲(号 和田庄司)−良保
−良国−良村(和田庄司大夫、後白河院御幸時の行宮を竹坊と号し、良村を以って これを司らしむ)
−良正(号 和田)」とあり。
又、熊野社楠氏系図に「神丹杵穂命五世の孫、熊野国造 大阿刀足尼二十六世 和田右兵衛尉良正の
二男 良成−成民(次郎左衛門尉、河内国石川郡に住し、千早七郷の領主)−正俊(和田刑部尉)
−正玄(左近太夫、和田五郎、千早館に住して七郷を領す)−正成−正儀−正勝」とあり。
49,藤原姓熊野族 − − 熊野別当系図に「宮崎法眼覚遍−同覚憎−浄遍(和田禅師)」とあり。
又、「盛宗−権在庁盛意−寛盛(和田禅師)」と。
50,紀伊の和田氏 − − 当国那賀郡、有田郡、日高郡美浜町、同郡美山町、同郡龍神村、西牟婁郡、東牟婁郡、
和歌山市に和田の地名有り。この地名を名乗りしもあらん。
51,阿波源姓 − − 小笠原氏の族と云う。家紋 菱。天正八年八月、土佐兵と戦いて戦死す。
細川両家記に和田源四郎あり、当国の士か。
又、故城記に「名東郡分、和田殿、武田、源氏、菱」とあり。
52,讃岐の和田氏 − − 全讃史に「本庄城は、小松の庄に有り、能勢大蔵ここに居り、文明中、和泉の人
和田小太郎正利(和田和泉守正則の子)この国に来りて、大蔵の嗣となり、天文中、入道して
寺を建て祐善坊と謂う。今の興泉寺これなり」と。
53,土佐の和田氏 − − 和田氏先祖書に「和田若狭守義則公(土佐和田氏の祖、桓武平氏 三浦大介義明の遠裔也。
応永二十三年冬 十二月、一族を相具し、鎌倉より土佐に来りて、土佐郡和田村に止り、村主となる。
翌年四月、一城を築き、威名あり、地名の起る所以なり。天水分命を奉祀して、産土大神となす。
子守大明神これなり)−義政(和田左衛門尉)−義元(民部)−義春(式部)−義孝(肥後、本川小松村に移る)
−義次(肥前)−義仲(筑後)−義久(筑前)−義家(越後、小松村住、後、二男 隼人を召連れて、
森郷中切村 住。弟 義信は、新左衛門、小松村 住)−義清(彦之亟、越前、長曾我部氏の被官)、
弟 義直(隼人、森郷中切村 住、後、森郷の土居村 住)」とあり。
54,薩摩藤原姓 − − 薩摩国伊作郡和田村より起こる。三国名勝図絵に
「田中城。鎌倉の初め、和田親純の居城なり。親純は、藤原純友の弟
伊予守遠純の裔とす。
その後胤に伊作平四郎実澄あり。初め村岡良文四世孫 伊作平次貞時、九州の総追補使として
肥前羽島に居る。その四世、平次郎良道 当村を領す。良道の嫡女は、菊地四郎経遠の
妻なりしが、後、和田八郎親純に嫁す。よって親純の裔、伊作を称す」とあり。
55,日向の和田氏 − − 高木氏族にあり。日向の名族にして、菊池系図に
「高木三郎右衛門宗重−三郎右衛門重兼、弟 重久(和田次郎左衛門尉、法名 善覚、
和田氏の養子となり、姓を大江に改む)−次郎右衛門尉正連(石見守、法名 正覚)
−備前守正久(法名 定覚)−豊前守正能(法名 玄覚)−遠江守正直」とあり。
又、当国の鍜工に和田弾正国義あり、浪花の人 国平の男、和泉守を賜うとぞ。
56,肥前の和田氏 − − 大村藩の和田氏は、楠氏の族にて、信長の臣 惟成の裔と伝う(士系録)。
57,幕臣和田氏 − − 幕府芸者書付に「三十人扶持 儒者
和田春堅(伝蔵)、今程四百俵」と載せ、
ェ政系譜は未勘に収め「長章(春堅)−方清−某(ェ政元年三月、逐電せしにより家絶ゆ)」とあり。
58,他
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