浦   上

解説

和名抄 播磨国楫保郡に浦上郷あり、宇良加美と註す

其の他肥前に浦上邑あり。

鹿児島県名瀬市にこの地名あり。

分派氏族

 

1,紀姓 −播磨国楫保郡浦上郷より起こる。 この地は東鑑文治五年三月條に

       「熊野御領播磨国浦上庄の事 云々、早く景時の地頭職を停止せしむべ

       きの由、直ちに庄家に仰せ下さるべく候なり」と。後 浦上氏の所領に

       帰す。浦上氏は、最初 赤松家の重臣なり、応仁記に「細川勝元は当管

       領、赤松次郎政則 当職なり。諸家の辻堅所分、浦上美作守則宗 所司代

       なれば、厳重の警護を申しけり。云々」と。その後 則宗の孫 村宗に至

       り、その主と争い遂に赤松義村を殺し、その国を奪いしが、享禄四年

       摂津に殺さる。されど村宗に子(宗景)あり。

2,尾州紀姓浦上氏 堀田芳賀系図に「行義−之泰−之盛−正純−正通−正秀

       −正利−正盛(加賀守)」 と。

       ェ政系譜に「家紋、瓜の内に二引、八本骨桧扇。」

3,室山の浦上氏 −播磨国楫保郡の室山城は、浦上氏の居城にして、美作守則宗以

       来この城に居り、その子 宗助−村宗−政宗−景宗あり。景宗 永禄九年、

       龍野城主 赤松下野守政秀に攻められて敗死し、この家亡ぶ。

4,備前の浦上氏− −第1項の後なり。近江守宗助に至り、備前国和気郡三石城に拠る。

       その子 掃部助村宗がその主と争いし時も当城に有り。村宗敗死後、

       その子 宗景は、天神山城に拠る。

       和気記に「宗景は古書に遠江守とありて、天神山に居る。美作前司則景

       四代の孫なり。紀姓にして代々幼名を紀 三郎と云えり」と。父の死後

       猶 勢力ありしが、天性愚蒙、元亀中、 家臣 宇喜多直家と争い敗北、

       囲いを破りて逃れ、佐々木美濃守を頼み、翌年死すと云う。

       備中古文書集に「和気郡佐伯の天神山の城主 浦上帯刀宗景」とあり。

       又武家系図に「浦上、本国備前児嶋郡、紋 桧扇、美作守則宗 将軍足利

       義植公に仕う」とあり。

5,美作の浦上氏 当国浦上氏系図に「紀 長谷雄 十八代浦上美作前司紀 則宗(元       

       浦上は備前の住、紀氏と称し、中頃 赤松則祐、播磨、備前、美作の

       三ヶ国守護たりし時、家臣たり。赤松満祐 謀叛によって、赤松一家を

       山名に賜る時、山名の旗本になり、応仁の乱以来 山名衰微す。その頃、

       則宗 登用せらると云う)−宗助(近江守、京にあって細川政元、同

       高国 執事の時、軍功を立つ)┬村宗――┬政宗┬與次郎(黒田官兵衛婿)
                     │    │  └清宗−久松
                     │    │
                     └宗久  └宗景−與次郎       」と。

6,肥前の浦上氏 − − 当国彼杵郡の浦上村より起こる。この浦上氏は、中国の浦上氏とは

       全く別にて、この地方の古族ならん。

       嘉禎三年十二月十九日の関東御教書案に「浦上小大夫、同三郎」の名あり。

       又、正平十八年及び応安五年の彼杵郡一揆連判状に「浦上村地頭 浦上沙弥浄賢、

       同 六郎入道沙弥性西、同 兵庫丞泰家、同 小次郎俊長、云々」とあり。

       又、士系録 覚都座根本の事に浦上座、姫座の由来見えて、郡主 浦上兵衛繁幸の名あり。

7,他


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