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上 杉 |
解説 |
武士になりし藤原氏の典型として、北家 藤原高藤流なり。 「鎌倉将軍宗尊親王の東するや、藤原重房 王に従し、為に 丹波国何鹿郡上杉荘を賜る、為に邑国を氏となす。幕紋 竹丸 飛両雀」 尊卑分脈には、「冬嗣−良門−内大臣高藤−定方−朝頼−為輔 −説孝−頼明−憲輔−盛実−顕憲−盛憲−清房−重房」 室町時代 関東管領の執事となり、後 自ら管領となりて、関東 奥州を管す。その一族頗る多く 分派氏族少なからず。 |
分派氏族 |
深谷 三浦 七沢 小山田 |
* 系図は下記の如し
上杉左衛門督重房−頼重┬重顕−朝定┬=顕定=氏定┬持定┬顕房=政真=定正=朝良=朝興−朝定 |
*重顕の子 朝定・頼成の子、あたりは、系図によって微妙に異なる場合あり。
1,相模国の上杉氏 − − 当国鎌倉郡山ノ内に住するより山ノ内家(管領館)と言う。
憲顕より顕定が上州 平井城に移る(1,470頃)までなり。有名な鎌倉の
名月院は憲方の菩提寺にて、上杉重房の座像を蔵す。(今 鎌倉の
国宝館に有り)
又、鎌倉郡扇谷(オオギガヤツ)に住した朝定以後を扇谷家と言い、
定正は家老の太田道灌が作りし江戸城に住したが、道灌を殺した為、
その後衰え、朝興に至り、川越城に移り、天文十五年四月北条氏康に
滅ぼされ扇谷家滅亡す。
又、憲藤が鎌倉郡犬縣(イヌカケ)に住したので、犬縣家と言う。
朝宗は、一時関東管領となり足利満兼を助けたが、その子 氏憲、
禅秀の乱を起こし、自害し同家も滅亡。
又、当国鎌倉郡宅間谷に住した憲房の子を宅間家と言う。上杉系図に
「憲房−重兼(宅間祖)−能俊−憲重−憲俊−憲能−憲清−定兼−定朝
−顕重−乘忠−乘方−房成−子孫あり」と。
また、重兼の兄「能憲(関東管領、号 宅間修理亮)−憲孝」など載せ、
また、両上杉系図に「重兼−能俊−憲重−憲俊−憲時」とあり。
また宅間系図には「憲房−憲顕−憲盛−憲孝(宅間兵庫頭)」とも有り
子孫幕府に仕えェ政系譜に「讃岐守憲能−憲時−定朝−顕重−乘国
−憲方−房成−富朝−規富−伊織忠次−憲之−憲充、
家紋、竹の丸に舞雀、五七の桐」と。
2,越後の上杉氏 − − 康永二年、上杉憲顕 上野
安房 越後の守護となり、貞治二年、
その七男 憲栄、当国守護となる。子孫伝えて天文十九年に至る。系図は
憲顕−憲栄=房方−朝方−房朝=房定−房能=定実(府中城主、嗣なく断絶) |
3,上條の上杉氏 − − 越後国三島郡(刈羽郡)上條にありし上杉氏にして、黒瀧城
(上條城高田村黒瀧)に拠る。系図は、越後守房方の五男兵庫頭清方、
清方−房実−定実、弟 景義=義春、後、徳川氏に仕え高家に列せられる。 |
4,上野の上杉氏 − − 廃城考に「応仁元年、山ノ内上杉顕定 平井城を築く」とあり。
而して、甲陽軍鑑に「山ノ内上杉は 上州平井に居城し、相模、武蔵、
下総、安房、常陸、出羽、陸奥、下野、越後、佐渡、信濃、飛騨、
上野の十三ヶ国の諸侍、平井へ出仕す」と。
顕定、永正七年越後に戦死し、憲房継ぎ、その子 憲政に至り、天文
二十年 北條氏に破られ、遂に越後 長尾景虎を頼り、上杉の称号と関東
管領の職とを伝う。下野国志に「平井古城、縁野郡金井村にあり、
上杉氏代々居る、天文二十年、小田原北条の為に亡び、城廃す」と。
5,武蔵の上杉氏 − − 風土記稿に「当国は、上杉総領山ノ内の家にて世々守護職
たりしなれば、その家人を置いて守護代、目代等の職あり。(守護代
長尾尾張守景仲、目代 大石石見守定重の如き皆 山ノ内老臣の面々なり)
扇谷持朝禅門の頃よりは国中過半を押領す。この頃天下乱国となり、
群雄割拠し、強は弱を兼ね、大は小を制す。況や当国の如き両上杉干戈
(山ノ内・扇谷との争い)を邦内に動かす。北条氏綱 小田原に在りて、
この乱を時とし、江戸、河越両城を乗っ取る、その子 氏康に至りて
両国大抵併呑す」と。上杉両家の系図は上の如し。
6,武蔵の深谷上杉氏 − −上杉憲顕は、正平中(1,360頃)、新田氏を押さえる為
武州幡羅郡庁鼻和(コバナワ今の国済寺の地)に六男 憲英(ノリフサ・
陸奥守・上野守護)を派遣し、城を築かす。その子 憲光、その子 憲長、
弟 憲信と庁鼻和城に居り、その子 房憲に至り、隣の榛沢郡に深谷城を
築き、古河公方 足利成氏に防戦す。その子 憲清−憲賢−憲盛(憲高)−氏憲。
上杉憲政、謙信に家督を譲りし後、即ち山ノ内上杉氏滅亡後、深谷上杉氏憲、
北条氏政の娘を娶り、和を結ぶ。天正十八年、太閤秀吉、小田原城を包囲するや、
氏憲、小田原城にあり、重臣秋元氏等により、深谷城 無血開城す。
ェ政系譜によるに、家康 関東に入国するや憲高の孫 盛吉、上杉の名を捨て、
幕府に仕え関東代官を勤め、子孫幕閣に名を連ねる。
7,安房の上杉氏 − − 正平中、上杉憲顕 当国守護となり、安房守を兼ね、これを
子孫に伝う。即ち その子 憲方、その子 憲定、その子 憲基、その子
憲実、何れも安房守たりし。しかれども関東管領故に実体は安房になし。
8,上総の上杉氏 − − 犬縣上杉氏の領国にして、上杉憲藤の子 朝宗、始めて当国
守護となる。その子 氏憲(禅秀)職を継ぎしが、叛死して管領の直隷
となる。
9,伊豆の上杉氏 − −上杉憲顕の兄・重能、伊豆国守護たり。その後
憲顕継ぎしも、
正平中、南朝に帰順して畠山義深 これに代わる。後 畠山氏これを失い、
憲顕 再び足利氏に降りて、上州、豆州、越州の守護となる。応安元年、
国清寺を建立す。以来 長禄の頃(1,460)まで上杉氏の所管なり。
10,遠江の上杉氏 − − 掃部頭頼重の男 龍峰禅師は、当国榛原郡平田村平田寺の
開山たり。永任四年五月十三日、一條三位の寄付状に任せ、相良庄内田
百町並びに屋敷一所を菊河宿摂待領として永代寺に賜る。一條三位とは、
上杉憲勝の事にして、その子 月輪童子は、平田寺二代たり。憲勝は
弘安元年春に、小夜中山の逆徒を討つ。
11,桓武平氏長尾氏流 − − 藩翰譜に「尊氏の母 清子の兄・越前守頼成、その
三男兵庫頭藤景、始めて長尾の家を継ぐ、これ輝虎(謙信)の先祖なり、
長尾の家と申すは、鎮守府将軍 平良文の後胤、鎌倉の権五郎景政
五代の孫 長尾景弘の末とぞ聞こえける」と。
長尾系図に「長尾為景−景虎(上杉憲政の養子となり、姓を藤原に改め、
名を政景に改む。関東管領に任ぜられ、上洛の後、公方より一字を賜い、
輝虎と号す。法名 不識院謙信)−景勝(会津中納言・景虎の姉の子)
−定勝−綱勝−綱憲(吉良上野介義央の男、娶 紀伊中納言光貞の娘)」
その後は上の系図の如し。
12,清和源氏畠山氏流 − −第3項上條の上杉氏の後にして、系譜に
「畠山政国−義統−義春(謙信の養子)−長貞」とあり。
家紋、竹の丸に両飛雀、菊、桐。
13,丹波の上杉氏 − −当国何鹿郡に上杉荘あり。
丹波志氷上郡條に「上杉氏、子孫 下三井庄村鍛冶屋地、
堀之内と云う処に子孫 藤兵衛一党也」と。
又、天田郡條に「上杉和泉、子孫 草山村、ニンジョウと云う所に代々
住す」と。
14,讃岐の上杉氏 − − 全讃史横井城條に「尾池玄蕃頭築く、天正十年十一月、
仙石氏家臣 上杉伊賀太郎、数百騎を率い、横井城を攻め 克ずして
玄蕃の為に殺さる」と。
15,八條上杉家 − −尊氏天下を取り京に上るや、重顕の子 朝定は、室町幕府の
引付頭人として、京都に在り その子 朝顕は八條に住し幕府に仕う。
又、犬縣上杉朝宗の子 氏朝は、氏憲(禅秀)の弟で京都の八条に
住す。系は「氏朝−持房(氏憲の子)−教房」也。
16,他
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