上   田(ウエダ)

解説

信州上田を始め 諸国に上田村頗る多し、従ってそれらの地名を

負いし上田氏も、その流派少なからず。

分派氏族

 

1,橘氏流 紀伊国伊都郡上田村より起こる。続風土記伊都郡隅田荘 地士 上田伝右衛門條に

「南朝の時、上田播磨守橘正尚、隅田荘の地頭職の命を蒙り、上田郷榊か城に居住す。

その子孫 上田伝右衛門という者 猶 城跡に居住す。因りてそこを上居屋敷と云う。

南朝より賜いし綸旨、今に家に伝う。上居屋敷の東北の方に牢屋敷と云う地あり。

これも城ありし時の牢屋の跡と云う。家伝に伝う、『正尚二十一代刑部丞正次、

       隅田北荘を一族に分知し、上田郷を知行す。二十四代 忠左衛門尉清正、

       永禄九年 畠山秋高の為に金剛峰寺の僧と合戦して功あり、秋高より感状あり。

二十六代 忠左衛門正景、文禄元年 征韓の時、加藤氏に従い軍功あり、遂に彼の地にて

討死す。その子 正守 僅かに十才、讒者の為に上田地頭職を失う。南龍公 元和

御初入の時、子孫 伝右衛門正種、伊勢国桑名まで奉迎す。俸三十石を賜う。その家

両家となる。天文の誓紙に上田貞と云う者あり、この家の祖なり』と見え、

       又、彦谷村旧家 上田甚五郎條に『隅田組の一人なり、武具など備わりて、調度なども

多くあり』と。

又、地士『上田嘉重郎、文書を蔵す』と。

       又、『赤塚村に上田播磨守の墓あり』 」と。家紋、丸に蔦、替紋菊水。

       上記の子孫か不明だが、ェ政系譜に橘氏流 上田氏あり。

       「家紋、下藤の丸に十文字、三亀甲」と。

2,河内摂津の上田氏 永禄二年八月の河内国交野郡五ヶ郷総侍中連名帳に

       「津田村 上田新吾助道」と。

       又、ェ永十七年三宮拝殿 着座覚えに「津田村 上田氏二軒」とあり。

       その他 鬼住村にあり、又、上田喜大夫、ェ永十八年茱萸木新田を開く。

       又、摂津国西成都の名族 上田伝兵衛なる者、安永三年上田新田を開く。

3,大和の上田氏 添上郡の名族にして飯田氏に属す。千五百石の地を領す。

4,清和源氏島ヶ原一族 伊賀の上田氏なり。頼政の遺子の裔にて一族を島ヶ原

       一族と云う。家紋、三星に一文字。

5,丹羽氏流 尾張志、海部郡津島村の人、上田清兵衛を収む、丹羽氏の族なりと云う。

徳川時代 丹羽藩の重臣なり。

6,佐々木氏流 近江国蒲生郡の名族にして、佐々木系図に

       「行定−定道−道政−新五郎季実−上田源太定資」と載せ、家伝に

       「佐々木高綱の庶流にして古志を称し、後 上田に改む。

       家紋、三巴、丸に左萬字、丸に三つ串団子」と。

7,甲賀党 甲賀五十三士の一にこの氏あり。甲賀郡上田より起こる。

       上田大明神あり、嵯峨天皇の朝、上田蓮浄なる者観音堂を建立す、

       上田社は、その鎮守なりと。

8,清和源氏浦野氏流 − − 和田系図に

「満政−忠重−定宗−重遠(号川辺、又、浦野四郎)−重実(号 佐渡源太甲四郎)

弟 実宗(延暦寺上座、号 佐渡上座、重実の子)−重保(上田冠者、誅せられ畢る)」とあり。

又、尊卑分脈に「経基王−満政−忠重−定宗−重宗(佐渡守)−重実(号 八島、

佐渡源七冠者、鳥羽院 武者所、同院御時 四天王の一人也)−重遠(号 浦野四郎)、

弟 実宗(延暦寺上座)−重保(一本 重康)−重直」とあり。

尚、重康の事は、東鑑 養和元年二月十二日條に「左兵衛督知盛卿 云々、近江国より上洛す。

美濃国に於いて討取らるる源氏、並びに従う勇士等の首、今日入洛。所謂、小河兵衛尉重清、

箕浦冠者義明、上田太郎重康 云々、神地六郎康信(上田太郎家の子)」とあり。

9,清和源氏秋山氏流 − − 尊卑分脈に「加賀美二郎遠光−秋山太郎光朝−小太郎光定−実定(七郎、

上田蔵人、元享の頃の人)−義房(上田四郎)−義氏(上田五郎)」とあり。

10,神家笠原氏流 − − 尾張愛知郡の星崎庄の名族にして、上田家譜に

「上田弥右衛門重氏、姓氏は、笠原氏の余裔なり。重氏の子 甚左衛門重光、初め信州の

上田に住み始めて上田と称す。後、尾州の星崎郷に移居す。重光、佐太郎重康を生む。

重康初め、丹羽長秀に仕え、後、豊臣秀吉に仕う。文禄三年七月、従五位下に叙せられ

主水正に任ぜられ、豊臣姓を賜う。越前国を領す。又、浅野家に仕え、剃髪して宗古と号す。

後裔、今尚 浅野家に仕う」とあり。江戸時代、浅野 広島藩の家老なり。

11,藤原姓大森氏流− −大森葛山系図に「葛山二郎惟忠−景忠(葛山三郎、上田殿)−景倫」と。

12,伴姓 三河伴氏の後にして、伴氏系図に「中井五郎実景(承久、京方となり、洲股に討死す)

−俊景−景永−貞永(上田伴二郎)−景房」と。

       又、武家系図に「上田、伴、大原八郎貞景六代、次郎景長これを称す」とあり。

13,島津氏流 島津氏の族、野々山兼周の子 兼元より出づ。

       家紋、丸に矢筈十文字、九枚笹の丸。二葉松に「碧海郡小針村古屋敷、

       上田七郎兵衛元成、松平広忠公の御代、父 宗太郎、年寄役」と。

14,清和源氏小笠原氏流 信濃国小縣郡上田より起こると云う。ェ政呈譜に

       「武田の氏族、家紋、五七桐、笹竜胆、左頭三巴、三階菱、釘抜」と。

15,大江氏流 − − 大江氏系図及び尊卑分脈に

「広元−親広−佐房(従五位上、左近将監)−佐泰(上田太郎)−泰広(又八郎)

−成広(文脈は盛広・上田孫太郎とあり)」と。

又、「佐泰の弟 長広(上田弥二郎)−佐長(同 弥三郎)−光佐(信州、上田孫三郎、

文脈には 信州井上 住)」とあり。

泰広は、弘安八年十一月十七日、奥州禅門合戦討死、二十二歳と云う。

信州上伊那郡の三日町村に上田氏あり、三日町城に拠る。その先は、大江親広の子

佐房、文明年中、信州小県郡の上田に居住し、在名を以って氏を改む。その裔孫

上田山城高広、天文の末、武田氏の麾下ら列して、この所に築き居住す。子孫

民間に降りる(温知集)と。

16,日奉姓西党 − − 西党系図に「武蔵守宗頼−宗親(内舎人)−宗忠(日内太郎)−宗守(西太郎)

−宗貞(西二郎)−宗綱(西、貫首)−某(上田三郎)」とあり。

17,武蔵の上田氏 − − 扇谷上杉家の家老に上田氏あり、後、子孫、小田原北條の家臣となる。

鎌倉大草紙に「松山城主 上田上野介」と。

松山城は、軍事的要所にあった為、15世紀末から16世紀前半を通じて、幾度も

行なわれた両上杉同士や後北條氏との攻防戦の中で、難波田弾正→塀和刑部少輔

→上田朝直(上杉方)→上杉憲勝→上田朝直(北條方)と激しく城主が入れ替わっている。

尚、上田氏は 文明六年の太田道灌状に「道灌参陣の時、上田上野介 在郷の地 小河一宿

仕り侯処 云々」と見え、早くから比企地方西部に拠点をもった戦国武将の一人なり。

『関八州古戦録 巻五』には「松山城へは上田晴礫斎(安独斎のこと)・同 上野介朝広を

還住ならしめ青山・腰越の砦と共に堅固に相守らせ 云々」と記されている。

新編武蔵風土記稿によると、「上田友直(政方) 左衛門尉。扇谷上杉家の家老。応永年間

(1394〜1427)に松山城(比企郡吉見町北吉見)を築く」と。

又、『上杉年譜』 に「この松山城は 上田入道の祖父 上田左衛尉政方と云う者 築立 云々」とあり。

政方の子 上田政広(安独斎蓮好・上野介、元亀二年没)、その養子 上田朝直(政朝、朝広)

通称・又次郎、左近大夫、能登守。出家して安独斎宗調と号す。

朝直の跡は長則が継ぎ、弟 憲定、 天正十八年、豊臣秀吉の小田原攻めに際して、小田原に籠城。

18,桓武平氏岩城氏流 − − 磐城国岩代郡上田村より起こる。岩城系図に

       「下総守隆忠−親隆−常隆−隆通(上田殿、右近大輔)」とあり。

19,桓武平氏長尾氏流− 上田長尾家の事にして、越後国魚沼郡上田城より起こる。

       上杉景勝の父 政景を上田政景とも称し、その家臣を上田衆とも 上田者とも云う。長尾を参照の事。

20,越中の上田氏 − − 戦国時代 上田作兵衛あり、砺波郡広瀬城に拠る。

       又、埴生八幡宮の旧 祠官に上田氏あり、越乃下草に「埴生八幡宮、松永郷埴生村、

御寺領 三十石 神主 上田石見守」とあり。

       又、三州志に「神主 世々 上田氏なり」とあり。

21,丹波の上田氏 − − 丹波志氷上郡條に「上田氏、子孫 長谷村、国料上町、本家

       棚原村にあり、上田氏 五家あり」とあり。

       又「上田縫之助、子孫 棚原村、天正の頃、縫之助、カオフ、主殿と三人居住す。

       郡士にて黒井城に従う、落城の後、主殿は大阪に至り、一向寺に籠り、行方を

       知らず。カオフは、伏見に住す」と。

       又、「上田与戸太夫、子孫 与戸村与戸、昔、勅使ある時、賜る名なりと云う。

       上田与戸太夫 代々、若太夫、若右衛門と云う。即ち、与戸と云う所に本家あり」と。

22,備中の上田氏 − − 天正中、上田孫次郎実親あり、下道郡鬼之身城に拠る。

       三村元親 配下の将にして 毛利の軍を防ぎ力戦して死す。実親は 三村家親の舎弟なり。

23,長門の橘姓上田氏 − − 当国大津郡深川に上田と云う旧家あり、代々 飯山八幡の祠官にして、

       その系図によれば上田県主の後裔にして、後、橘姓になると云う。

24,清和源氏新田氏流 ェ政系譜に「脇屋義助の子 義治十代常義、上田を称す。

       家紋、扇に黒一文字、根笹の丸、雪笹」と。

25,豊前の上田氏 宇佐郡の名族にして、天文 永禄年間、上田因幡守あり。

26,他


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