宇  田  川

解説

武蔵 大和 伯耆等にこの地名ありて、何れも宇田川氏を起こす。

栃木県大田原市にこの地名あり。

分派氏族

 

1,佐々木氏流 武蔵風土記稿荏原郡北品川宿條に「神主 小泉勝延。系図に『祖先は

       佐々木の庶流 宇田川太郎左衛門某裔、宇田川和泉守長清なり。長禄の頃

          豊島郡日比谷郷に住し、後 当所に移る』。太田道灌日記に『長禄中、道灌、

       長清をして品川の館に居しむ』」と。

       又、宇田川氏條に「北条の家人 宇田川石見守 勝重の子孫にて、累代土着す。

       小田原記に永禄十年、勝種 当所にありて信玄を食い止めんとして敗走せしこと

       見ゆ。子 二人あり、長子 出雲守勝定は、当所稲荷社の神職となる。是 今の

       小泉出雲の祖なり。次男 定正は、御打入りの時 ご案内申せしにより

       名主役を命ぜらる」と。

2,上杉氏流 − − これも武蔵の宇田川氏にして、風土記稿葛飾郡二之江村條に

       「家譜を閲するに上杉氏の庶流にして、先祖 善左衛門定友は、伊奈備前守忠次に

       仕えし 宇田川喜兵衛定次の弟なり。定次の祖父 親定は、扇谷の上杉持朝の子

       朝昌の庶子なりしが、始めは出家して東永房と号し、後、還俗して宇田川郷右衛門と

       称し、武州 品川に住す。これ氏を宇田川と改めし始めなり。後年 図書亮と称し、

       天文十八年五月二十二日、六十一歳にて死す。その子を喜兵衛定氏と云う。天文

       二年 品川に生まれ、弘治元年、本郡小松川村に移り、慶長元年 小松川村内 海蘆原

       二千石の地を開墾して宇喜新田と号す。その功によって上田一町五段を賜う。元和

       六年六月二十五日死し、厳池院華誉法蓮と号す。定次、定友 共にこの定氏の子なり、

       定次は、後年 伊奈氏の家人となり、曾孫 郷右衛門定清の時、ェ政四年、伊奈氏

       断絶せしかば、浪士となり、その後、男子の継ぐべきものなかりし故、定清の孫女

       家の系図と伊奈備前守忠次及び、半十郎忠治の書状を善左衛門の家に授与すと云う。

       又、定氏が創建せし小松川村 源法寺の記にも宇田川の家譜を載せて、やや異なる説

       あれど姑く家伝のままを録せり」とあり。

       又、西宇喜田村條に「即ち、宇田川喜兵衛の分家なりとす。ェ政十年、宇喜田筋

       行徳筋、御成の節、御鷹場の肝煎役となり、享和二年、御成の節、御膳所に

       命ぜられ、その節 蛤を献上す。文化六年六月、苗字を名乗るべき由、御代官

       大貫次右衛門 指揮すと云う」とあり。

       又、「善兵衛定氏、慶長元年 西宇喜田村を開発すと云う」と。

       又、ェ政系譜に この流の宇田川氏あり、「上杉重房の庶孫 始め大井を称し、後、

       宇田川に改む」。ェ政系譜に「平七定共、桜田の館に仕え、宝永元年御家人となる、

       定圓は その男なり。定圓−定義−定能−女子、家紋、鉄線、丸に抱柏」なりと。

3,清和源氏 −ェ政系譜、清和源氏庶流に収め「先祖大和国宇陀郡に住して宇陀川

       と称す、その後、宇田川に改む」と。家紋、黒餅に橘、丸に十五枚笹。

4,藤原姓 伯耆国汗入郡宇田川村より起こる。この地は、東鑑元久二年條に

       「伯耆国宇田河 地頭職云々」とあり。その庄官の裔か。

5,因幡の宇田川氏 この国に宇田川氏多し、藤原姓なりと。因幡志天三祇宮(

       式内天日名鳥命神社)の祠官、勝部下郷青屋村神主 宇田川氏などを挙ぐ。

       後者 文書を蔵すと。

6,会津のウダガワ氏 新編風土記大沼郡市野村條に「館跡、宇田川民部某

       住せしと云う」と。

       又、新編風土記河沼郡松尾村條に「館跡、宇多河信濃道忠 住せし所云々」と。

7,他


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