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解説 |
和名抄 伊勢国安濃郡に内田郷ありて、宇知多と訓ず。 遠江国城飼郡に内田庄、其の他諸国に この地名甚だ多く 幾流もの内田氏を起こす。 千葉県佐倉市、長野県松本市にこの地名あり。 |
分派氏族 |
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1,武蔵の内田氏 − − 風土記稿多摩郡條に「内田氏、元 横山村、先祖の古墳宅地の
内にあり。応安二年の文字仄に見えたり。
又、当郷横町福全院過去帳に、開基、内田氏、ェ正元年没したる法謚を
しるせり。郡中谷野村農家にも内田氏なるものあり、もとより一族なり
といえども衰微に及び、伝えし家系旧記も失いしまま今はその本支の分
かちも定かならねど、両家ともこの寺の檀家なり。また助右衛門の家に
藤原姓原田氏の系図を蔵せり、これを閲するに原田某は、出羽の最上家
に仕えけるが、彼の家滅却の後、浪人してこの地に来たり、内田氏の家
跡を継いで元禄年中の後まで地頭大澤氏の地代官などを兼ねて名主を務
めし由、その旧記を蔵せり」と。
又、久良岐郡條に「居住の地(雑色村)を村民 古門と呼べり、これは
旧家の住せる地なる故なりと云う。先祖内田対馬守某は、永正五年三月
二日卒す、法名 浄元居士、その子 源左衛門は、天文三年八月七日卒す。
その子 五郎左衛門 弘治二年五月十六日死せりと云う。間宮氏当所を領
せし頃、先祖奉仕して、数度戦功あり」と。
又、比企郡條に「志賀村の名族なり。所蔵 天正十三年十一月十九日文
書に、内田佐渡守広重より同三郎左衛門広次に与う云々」と。
2,中臣氏族 − − 中臣氏系図に「大神宮司茂生−永頼−宣輔−永輔−永清−永実
−清実(号 内田太郎)」と。
3,遠江相良氏流 − − 遠江国内田郷より起こる。ェ政系譜に「始祖、常頼、家紋、
三銀杏、揚羽蝶、上総桧扇、丸に揚羽蝶」と。
4,勝間田氏流 − − 遠江国内田庄より起る。勝間田氏よりいでし氏にして、藤原姓
と称す。ェ政系譜に
勝間田政利−内田正之−正成−正世−正信−正衆−正勝−正偏┐
┌―――――――――――――――――――――――――――┘
└正親−正美−正良−正純−正肥−正容−正道−正徳−正縄┐
┌―――――――――――――――――――――――――┘
└正学 下総小見川一万石 明治子爵、家紋 花久留子
庵に木瓜。
5, 橘姓
− −
ェ政系譜、藤原氏流に収む。はじめ橘を称し、後 内田に改むと。
家紋、丸に十六葉菊、菊水。
6,甲州三枝氏流 − − 甲斐国巨摩郡の名族なり。三枝裏七名字の一にして、三枝氏より
出づと云う。
7,伴姓櫟野氏流 − − 伴氏系図に「櫟野左衛門尉貞行−伴三郎知貞−資知(元 相州鎌倉住、
後、甲賀に来り 下馬杉に住し、伴内田遠江守と号す)」とあり。
中興系図に「内田、伴太郎知貞の男、遠江守資知これを称す」とあり。
8, 肩野姓の内田氏
− − 美作国真庭郡新庄の内田氏は、肩野姓と称す。物部肩野氏
の裔か。苫田の郷に居り、もと中山の神人なり。清和朝弓削郷に中山新
宮を建てるに当たり、弟麿、陪従して移る。その二十四世、景朝、御鴨
神社に仕う。その後裔、永禄 天正の頃、内田重政、内田市助あり。
9,伊勢の内田氏− −当国員弁郡の名族にして、内田飛騨守あり、星川城に拠りしと伝えられる。
10,丹波の内田氏 − − 当国天田郡の名族にして、内田河内守ありしとぞ(丹波志)。
11,日向の内田氏 − − 日向記に「守永城主 内田四郎左衛門尉、内田典薬頭」あり。
12,相良流の内田氏 − − 肥後国山鹿郡内田村より起こる。相良系図に
「相良三郎長頼−宗頼(内田四郎、或は云う長頼の弟)−頼平」と。 |
又、宗頼の弟「頼重(四郎兵衛尉、実朝の時、兵衛尉に任じ鎌倉に在り、
若宮参詣の時、供奉騎馬)−頼明−頼常−頼積−長茲−頼均−頼道
−頼達−実重−長続」と。
又、事蹟通考引用 相良系図に「相良長頼の弟 宗頼(山井四郎左衛門、
住 山鹿郡山井、内田、高橋)−頼重(内田三郎左衛門、法名 浄位、山鹿
郡内田に住す。子孫 飽田郡大多尾村に移る)」とあり。
又、飽田郡に移りし 内田氏は、山上三名字の一にして、その系図に
「相良三郎四郎頼景−宗頼(山井四郎右衛門、山鹿郡山井内田
高橋を領
す)−頼元(高橋家祖)、弟
三郎左衛門頼重(内田家祖、内田相良と称す、
子孫 飽田郡活亀荘大多尾村に移り代々ここに住す)、二十二代孫 頼秀
(内田周防守、弟
頼清・丹波守)−頼次(天文の頃の人)−頼豊」とあり。
13,肥後の内田氏 − − 永正元年三月の菊地政隆の侍帳に
「内田右京亮重貞、内田右衛門朝藤」とあり。
又、阿蘇家文書 永正二年十一月十八日の菊地家臣連署に「内田遠江守重国」とあり。
又、同年十二月三日の連署に「内田遠江守重国、内田右衛門尉朝藤、
内田右京亮重貞」とあり。
14,他
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