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解説 |
肥後国山鹿郡に津村郷、その他 摂津 相模
筑後などに 此の地名あり。 岐阜県大垣市、三重県伊勢市にこの地名あり。 |
分派氏族 |
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1,原田氏族 − − 筑後国三瀦郡の津村より起こる。小野村 内宮 大永三年 棟木に
「屋形直衆 津村殿」を載せ、又、都地家文書に津村大助、領主付に
「(原田末)津村大助、三瀦郡津村に居りて、十四町を領す」と。
2,秀郷流藤原姓 − − 将士軍談に「津村城跡。天正の頃、津村大助これを守る。
子孫、今 北大野島庄屋となる。相伝う、俵藤太秀郷の後なり。今に
法名 秀の字を用う、慶安中、海潮の害ありて、家屋漂流し、系図 旧記
など悉く流失と云う。この島は、もと庄屋の祖 津村氏の築き成す処
なり。始め潟あり、釜蓋の如し。人呼んで釜蓋島と云う。
又、向野と云う、文禄中、蹈葭す。ェ永十年、新田となる。田中侯領地
の後、榎津加賀右衛門(領三千石)この城を守る。開基帳に、津村八幡
は、平治元年、津村秀里 建立」とあり。
3,豊前の津村氏 − − 企救郡の名族にして、山口興隆寺文書に「豊前国規矩郡吉田
郷内参分壱、津村丹後守、本知行分の事、当山舞童料所と なして寄附
す云々、明徳三年」とあり。
4,藤原姓− − 陸奥の名族にして、北郡伝法寺城による。藤原姓にして、目時、津島
などと同族なり。一族津軽郡にあり、祐清私記に「永禄の頃、南部殿の
郡代 津村某、津軽堤浦の館に在住のところ、その家臣 西野、相川の二
人反逆して津村を追い落とす」と。一説に「両人夜襲して、元亀三年、
津村主水を殺害す」と。
参考諸家系図に「八戸家中 津村伝右衛門」とあり。
5,清和源氏武田氏族 − − 紀伊の名族にして、日高郡北道村地士に津村荘大夫あり。
続風土記 日高郡切目庄 西野地村五体王子社條に「神主津村氏。祖は、
甲斐源氏、津村権六信政という。尊代に仕え、江州にて所領を賜う。後、
永禄八年、浪人となり、熊野に来たり、湯川氏に仕う。天正十四年、
和州 郡山にて討死にす。その子 信助、切目本村にて養われ、後、当社
の神職となり、今に至ると云う」と載せたり。
又、「八千貫城跡は、本村の北にあり。津村式部大輔の城跡という。
赤松城跡は、本村の北峯にあり、城主詳ならず。村民伝えて赤松氏の
居城と」などあり。
6,他
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