津   田

解説

近江 但馬に津田庄、その他、河内 武蔵 常陸 出雲 播磨

安芸 阿波 讃岐などに此の地名あり。

静岡県富士市、福岡県直方市にこの地名あり。

分派氏族

 

1,江戸幕臣 ェ政系譜、織田支流津田氏を十一家を載せたり。「玄蕃頭秀敏

       −秀重(慶長四年卒)−秀政−正重−正勝−正親、三千十一石、

       家紋、瓜、糸巻、糸巻の内花菱」也。

2,藤原北家大森氏族 大森葛山系図、一族に津田氏を挙げたり。

3,佐々木氏族 近江国蒲生郡津田村より起こる。豊浦氏の庶流なり。

4,忌部氏族 −近江国蒲生郡津田庄より起こる。

5,桓武平氏織田氏族 一説に三位中将平資盛の子 親真を津田権大夫と云うと。

       家紋 瓜。

6,尾張の津田氏 織田敏定(伊勢守)の子 秀敏、尾張国岩倉に住し、その子

       秀重 津田に改む。その子 秀政は、信長に仕う。その他 織田一門にし

       て、この氏を称するもの少なからず。

       又、山鹿素行の武家事記には「中川八郎右衛門尉忠政、初名 織田駿河

       守、織田刑部大輔の子 織田の門葉たり。度々戦功を著わす。その弟を

       織田薩摩守忠頼という後に木下雅楽助と改む」と。

7,美濃の津田氏 新撰志、本巣郡十九條村古城跡條に「城主 織田勘解由左衛門

       信益(津田を称す)は、織田備後守信秀の弟 與二郎信康(天文十三年

       九月、稲葉山に於いて戦死す)の四男 下野守信清(尾張犬山城主、後

       浪浪して甲斐に遊び犬山鉄齋と号す)の二男なり。云々」と。

8,加賀藩の津田氏 − −加賀藩分限帳に「一万石(片喰、人持、内千五百石与力知)津田内蔵助。

二千五百石(丸の内に大の字、人持、内千石与力知)津田兵庫。三百五十石(井桁の内に瓜)

津田新蔵。千石(角内瓜、人持)津田弾正。二百五十石()津田主膳。千三百石(糸巻の内に瓜)

津田信太郎。六百五十石(丸の内に違鷹羽)津田少左衛門。十五人扶持(丸の内に違柏)津田吉太郎。

四百石(五徳)津田造酒。百石(丸の内に九の字)津田久兵衛。百二十石(角切三巴)津田猪左衛門。等」と。

9,伊豆の津田氏 − − 当国の名族にして北條氏直の時、津田兵部は、徳倉の城主なり。

10,藤原姓 − − 出羽発祥の名族にして 元は、湯目(ゆのめ)氏なり。重久−重康−景康、皆、伊達氏の臣なり。

殊に豊後 重康の子 豊前 景康は、伊達政宗に仕う。文禄中、豊臣秀次、謀反、この時 噂あり、

政宗もこれに係わると。景康これを憂え、山城国の伏見油掛村の辺の津田原に於いて、

主君の逆意無きを訴え、秀吉の心を解く。

よって政宗、その忠誠を賞し、采地を増し、命じて、津田氏を称せしむ。時に二十八歳、

後、国老となる(世臣略譜)と。

封内記に「佐沼砦 云々、貞山公の封内となり。本邑を津田民部景康に賜う。その後、孫

丹波定康、罪ありて没収」とあり。

11,美作の津田氏 − − 当国津山藩士に津田真道あり、幕末 江戸に上り、佐久間象山に学び、後、和蘭に渡り

法律などを学び帰国す。明治に至り法律制定等に尽力し、巧多く、男爵を賜う。

12,藤原姓生駒氏族 生駒親重の四男 五右衛門の男 満正の子 一英、織田信安

       の男 信武(津田を称す)の家系をまねして津田を称す。家紋 瓜、五三桐、桐の丸。

子孫 幕臣にて、ェ政系譜に「一英−可敬−信成−信之(日向守)−信久(能登守)−壮之助」と。

13,丹波の津田氏 − − 当国氷上郡の名族にして丹波志に「津田氏。和田庄梶村、織田氏の氏族にて、

その家代々これあり。その後、成松へ引き、代官を勤む」と。

又、当国の士 津田寿軒(加賀公に仕う)の子 近義は、儒者として名あり。

14,中原姓 − − 一説に橘姓(楠氏族)。河内国交野郡津田より起こり、津田城(津田村)に拠る。

一説に楠正成三代の孫 周防守正信、初めて津田氏を称すと云い、

又、大和国十市郡の十市城主 中原兵部少輔遠高の次男 中原左衛門範高より出でしと云う。

範高、正成に従い、建武二年津田村に築き、津田氏を称すと伝う。範高 正平十七年、

斯波道朝と戦いて死す。その子 伊豆守範長より大膳介範興、範尚、豊高、範豊、

対馬守範秋、但馬守忠範、筑後守範長を経て、主水助範常に至り、織田信長に滅ぼされ、

後、豊臣の臣 小早川秀秋に仕えると云う。

15,摂津の津田氏 東成郡天王寺村の名族に津田氏あり、祖を宗本と云う。

       ェ永年中、天王寺村に来住、和中散(風邪薬)を売る。

16,和泉の津田氏 − − 当国日根郡佐野城(佐野町)は、天正五年三月二十六日、織田信長、

雑賀降伏の後、当城を作らせ、津田太郎左衛門(監物算正)に杉の坊を添えて守らす。

算正、当地にて一万石を領せしも、小牧長久手の戦いに家康に属せしを以って秀吉、

その領土を没収す、と云う。

17,橘姓楠木氏流 − − 続風土記、那賀郡新荘村旧家條に「地士 津田瀬太郎。その祖を吐前城主

津田小監物算長と云う。楠正成三代の孫 河内国交野郡 津田城主 津田周防守正信六代の孫なり。

当荘 及び紀泉の内にて一万石余りの地を領す。享禄年中、大隈の種子島に渡り、初めて

鉄砲を伝来し 天文年中帰国す。将軍 義晴 その巧を賞して、従五位下に叙せしむ。

算長の子を監物算正と云う。織田家に属し、天正年中、雑賀征伐に巧あり。織田家より

平姓を与えられ、泉州の佐野城を賜い、一万石の地を領す。小牧の役に東照神君に属す。

豊太閤、南征の時、所領を没収せらる。その後、大納言秀長に仕え、当郷にて三千石を領す。

算正の子を監物重長と云う。増田長盛に仕え 千石を領し、増田家滅亡の後、浅野家に仕え、

その後、金吾秀秋に仕えて 千五百石を領す。秀秋滅亡の後、美濃加納城主 松平家に仕え、

飛騨守忠隆の後見となり、三百石を領す。重長の子を荘左衛門重信と云う、初めは秀秋に仕え、

後、富田修理大夫に仕え、富田家滅亡の後、松平摂津守に仕う(飛騨守の父なり)。重信の子を

六郎左衛門算長と云う。主家断絶の後 浪人となり、多病にて仕をなさず。帰郷して当村に住し、

世々 大庄屋を勤む」とあり。

18,日奉姓 − − 阿波の名族にして名東郡津田村より起こる。故城記 板西郡分に

「津田殿、日奉姓、家紋、鷹の羽」とあり。

又、一本に「津田殿、田村、日奉、家紋、鷹の羽」とあり。

19,播磨の津田氏 飾磨郡津田村より起こる。源平盛衰記、当国の士に津田四郎高基を収む。

       又、丹波志に「津田庄兵衛、上竹田村八日市、今 安永午年、六代になる。

       元 播州姫路より来る。庄兵衛の墓地屋敷にあり」と。

20,備後の津田氏 − − 芸藩通志 恵蘇郡故家條に「大月村 津田氏。先祖 津田杢之進は、黒岩故城主、

和泉氏の家人たり。その子 杢之助より農となり、今の新蔵まで七代」とあり。

21,肥前の津田氏 − − 江戸時代の初め、津田又左衛門あり、山田長政の家臣にして、シャム国(タイ)に渡り、

ビルマとの戦いに力を貸し、戦功ありて、王女を娶り、大臣に任じられる。後、ェ永四年帰国し、

長崎の乙名に補せられ、シャム通事を兼ねる。

又、幕末、基肆郡田代に津田愛之助政信あり、勤皇の志 厚く 従五位を賜わる。

22,紺屋津田氏 虎朱印書に「京紺屋 津田」と。津田藤兵衛正朝の事にして、

       絵彩に妙を得、北條場早雲、板橋に宅地を与える。後、上洛して禁裏の

       御服を造染し、大和守に任じられ、京 紺屋の家号を賜う。永正元年 死し、その子を

藤兵衛正満と云う。

       享禄三年の虎朱印書に津田藤兵衛、また、天文七年に京 紺屋とあり。

23,他


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